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未来への伝言 被爆の体験と証言 
池田 瞳(いけだ ひとみ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市仁保町金輪島[現:広島市南区宇品町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二高等女学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
金輪島 朝礼中

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
当時三年生の私は四月から金輪島で作業をしていた。その日も何時ものように八時から朝礼が始まった。その時三機の飛行機が目に入った。そして照明弾らしきものが光った。と同時に巨大キノコ雲がクッキリ浮び上りそして猛烈な爆風となった。これが後に云われるピカドンだと思う。その夜は帰れそうもないので島に泊ることになった。夕方から負傷者がどんどん運ばれて翌朝五百人の収容者のうち三分の一亡くなったということだった。悪夢のような一夜が明けて二日目帰宅命令が出され千田町一丁目の我が家に帰った。が日赤を除いて一面の焼け野原、幸い日赤で祖母と母の消息がわかった。でも万一の為の大芝町の家までとても行けなくて二日目の夜はみどり町の友達の家に泊めて頂いた。三日目どこをどう歩いたのか、全身焼けただれ死の行進のような人とすれ違い、水ぶくれになった人や馬、牛の屍体が一杯浮かんだ川を渡ってようやく大芝に辿り着いた。母は二階屋の我が家が一瞬のうちにつぶされ、下敷になり、一生けんめい天井板を取り除いて屋根の上に出て、祖母を助け出した。三十分もしないうちに附属中学から火の手があがり日赤に伝言をたのみ、みささで一泊して大芝町に着いたということ。姉は吉島の中国ト料に勤務していてこれまた日赤で様子を伺い二日目大芝町に着いた。五月末父は病死これで残るは弟丈だ。五日たっても帰らない弟(市立中学二年)を尋ねて歩きまわり、一ヶ月、胸についていた名札とバックルが遺品として市役所にある由、きいてかけつけた。土橋方面で働いていた弟はその日のうちに似之島に運ばれて死んだそうだ。大芝町に住んでいた一ヶ月弟を探し廻る間炊き出しや救護所の看病に当った。どれ丈多くの方の死をみとったことか。

二 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
五十年前に受けた強烈な出来事。五十年経っても忘れ得ない出来事。八月六日のことは私の心に多くの体験者の心に戦争が無くならない限りよみがえり続くことと思う。いつも弱い人達ばかり悲しい思いをする。これが戦争なんです。チャンバラの頃から原爆までそして今やその何千倍もの威力のものを持つ世の中になって、もう愚かな過ちをくり返してはいけない。今こそ国境をこえて二十一世紀に向け地球号を平和に安全に動かして行かなければならないと思う。 

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