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平和を願って 
浅井 英明(あさい ひであき) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市水主町([現:広島市中区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立中学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●家族の状況
当時、私は父母と四人きょうだいの六人家族でした。万象園の近くの水主町で暮らしていました。父の浅井重明は四十二歳、母・たか女は三十八歳だったと思います。十八歳の長女・和子は広島女子専門学校の二年生で、学徒動員により宇品町の船舶司令部で手紙の検閲をしていました。十五歳の長男・俊明は県立広島第一中学校の三年生、その次が私で十三歳、市立中学校の一年生でした。それから、その下の妹が陽子といい、中島国民学校の四年生でしたが、被爆時には双三郡三良坂町(現在の三次市)へ疎開していて家にはいませんでした。

●被爆時の状況
八月六日の被爆時、父は既に出勤しており、学徒動員で姉は宇品へ、兄は五日市の工場へ行っていましたので、家にいたのは私と母親とその時期一緒に生活していた、とよのというおばの三人でした。おばは当時五十歳ぐらいだったと思います。私は前日の日曜日に学徒動員で中島地区に建物疎開の手伝いに出ており、八月六日はその振替で休みでした。

我が家の中二階の窓から外を眺めていると、パラシュートが下りてくるのが見えました。それがちょうど目の前で、マグネシウムをたいたようにぱあっと光り、続いて熱さを感じましたので、無意識に逃げたと思います。

どのぐらい気を失っていたのか分からないのですが、気がついたら家の中は爆風でめちゃめちゃになり、畳がすべてめくれて足が挟まれています。左半身はやけどを負っていましたが、やはり緊張していたからでしょうか、多少チリチリするぐらいで、我慢できない痛みではありませんでした。今でもケロイドが残っています。そのとき、自分の服に触れると、熱風により傷んでいたため、少しの力でもボロボロッとなった覚えがあります。腹の方は服を着ていたのであまりやけどはしていませんでしたが、半ズボンを履いていたので、足はやけどを負っていました。

パチパチという何かが燃える音や、がやがやと近所の人が逃げているような声が聞こえてきましたので、私は急いで畳から足を抜き、窓を開けて屋根を伝って地面に降りました。

家から近くにあった元安川まで、とにかく歩いて逃げ、万象園のそばにあった雁木から川へ降りて行きました。川は引き潮になったときで、川の中は上流から流されてきた多くの人であふれ、戸板のようなものに乗り「助けてくれえ」と怒鳴っている人を何人も見ました。

街のあちらこちらでは火が出ており、川沿いに立っていた木製の電柱も炎を上げてボウッと燃えていたのをよく覚えています。私は一緒に川に入っていた人と下流へ逃れようということになりましたが、母はここにいると言うので、別れることにしました。母は家の窓ガラスの破片がいっぱい刺さって出血し、タオルを巻いて止血していましたが、そのときはしっかりしていました。

私はほかの人たちと一緒に川を下り、工場の倉庫のような所にたどり着き、ぎゅうぎゅう詰めで丸太を並べたような状態で雑魚寝しました。臨時の救護所のようでしたが、医療班があったわけではなく、設置されたものなのか、人々が逃げてきたので自然に救護所のようになったのか分かりません。そこへ着いたのはもう夕方だったかと思いますが、爆風によって巻き上げられた粉じんで市内は暗闇のようでしたから、実際の時間はよく分かりませんでした。

そこでは、女性の方から水を飲ませてもらうなど、いろいろお世話をしてもらいました。あっちでもこっちでも水をくださいと言っているのに足らないので、「私はいいからほかの人に水を飲ませてください」と言ったことを覚えています。

父は、大手町一丁目にあった大正海上火災保険広島支店で働いており、当日は食事をして八時頃には自転車で家を出たと思います。ですから出勤途中のどこで被爆したか分かりません。何年かたって、千田町の方で出てきた遺骨の名簿に父の名がありましたが、とにかく即死に近い状態だったのではないかと思います。

母は、出血多量のため亡くなりました。後日、兄がほかの亡くなった人と一緒に母を焼いたと聞きました。まだ元気そうだったので今生の別れになるとは思わず、母を残していったのですが、しばらくの間、私は母親を見殺しにしたような気がしてなりませんでした。

●被爆後の状況
被爆後、学徒動員で五日市に行っていた兄が方々を捜し回って、工場の倉庫にいた私を見付けてくれました。兄の話によると、私はその後高熱を出して三日間ぐらい意識不明だったようです。

兄は姉と二人で、借りてきた担架に私を乗せて、比治山の南東にあった大河国民学校に運んでくれました。移動中に担架から見ると、まだ方々で建物などがくすぶっており、助けを求める声も聞こえていたと思います。それに、あの時分はどこの家でも防火用水を入れた四角い水槽を置いていたのですが、その中には死体がありました。焼け野原には赤十字病院や福屋百貨店などの建物しか残っておらず、遠くまで見渡すことができたのを覚えています。

大河国民学校では教室に被災者がいっぱいに入っており、治療をするのはお医者といっても歯科医や眼科医もいました。ましてや薬が無いのですから、傷の手当てはリバノールという黄色い消毒薬をガーゼへ染み込ませて、毎日貼り直すだけです。夏のことですから、少し油断していたら、ハエが飛んできて傷痕へ卵を産み、ウジがわきます。毎日のように人が死に、校庭で穴を掘って燃やしていました。三原の方から来たと言っていましたが、女学校二年生ぐらいの女の子がそうした死体の処理をしていました。

その後、比治山の近くにあった親戚と連絡がつき、そちらへ移りました。そして大阪府岸和田市に疎開していた母方の親戚に兄か姉が、母が亡くなったことを手紙で知らせました。詳しい住所が分からないので宛先の住所に岸和田市と書いただけの手紙でしたが、内容が内容だったので調べてくれたのでしょう、姓が田鍋という数が少ない姓だったこともあり、一週間ぐらいでなんとか届いたようです。その後、九月半ば頃おじが迎えに来て、きょうだい四人を岸和田へ連れて帰ってくれました。

岸和田へ行くと、おじがやけどにはこれが効くと言って、マムシやムカデを油の中へ漬けたものを貼ってくれ、それが効いたのかどうか分かりませんが、やけどは一応治りました。しかし、ひもじい思いもしましたし、苦労して精神的にはつらい日々でした。おじは学校を卒業するまでずっと面倒を見てくれましたが、あの頃は食べるものが何もない時分でしたから大変だったと思います。

その後、就職をし、結婚をして、子どもが生まれ、その子が小学校四年生のときに広島へ帰ってきました。

●後遺症など
被爆直後の三日目か四日目に、少し髪の毛が抜けたことがありましたが、むしろ何もけがをしてないような子の方が、被爆後一週間ぐらいしてから原爆症で頭の髪の毛が抜けて突然死んだりしたものです。

また、被爆後一年ぐらいは、左足の関節が固まり曲がっていましたので、歩くのが不自由でした。それも、毎日歩いている間に治って、飛んだり跳ねたりもできるようになり、野球などもしました。

一時期、白血球がかなり減ったことがありましたが、それで寝込んだりすることはありませんでした。元々体力があったのか、運が良かったのかは分かりませんが、後遺症らしいものは取り立ててありませんでした。

結婚するときには被爆しているといろいろありましたが、今では孫もできました。ケロイドも人前にさらけ出しても何とも思わなかったし、恥ずかしいという感覚はありませんでした。悪いほうに考えたくないので、前向きに考えていきたいと思っていました。

現在、原因も分からなければ治療方法もない、十万人に何人かという筋肉が萎縮してくる難病にかかっています。心配して治るものだったらしますが、心配したってしようがありません。今は週に二回、大竹市にある国立の医療センターへ通っています。

●次世代の人たちに
当時は、誰もが名前も分からない人の看護をしたり、ただでご飯を食べさせたりということがあり、今と違ってまだ人情がありました。昔は、みんな困っている人があれば助けようという助け合いの精神がありましたが、今はそれがありません。これからは助け合いの精神や公共的な精神が、もっと大切になってくると思います。

また、戦争というものは残酷なものです。よくアメリカが残酷だと言いますが、結局戦争になったらアメリカも日本もどこの国も一緒なのです。みんなそのときになれば、同じようにお国のために戦場へ行けということになるのです。平和な時代に冷静に考えると、どうして一般市民を殺すのかと思いますが、戦争しているときは、とにかく誰も彼も即座に殺せということになります。

膨大な軍備に金を使わず、それを他方面に回せば世界はもっと良くなると思います。兵器産業でいろいろ科学が発達するという面があるかもしれませんが、軍事費を福祉に回したらもっと良い世界ができると思うのです。戦争は無駄なことで、何も生まれてきません。

現在、昔の思い出がどんどん薄れていますが、私は会うことのできる同じ学校の友達が少ないのです。と言いますのは、同年代の者はみんな学徒動員で市の中心部の家を壊す作業をしており、被爆して死んだ者が多いからです。私のいとこも、同じ学校で一年上でしたが、建物疎開の作業中に被爆し行方不明です。おそらく即死だったのではないでしょうか。その後、生きていた幼なじみや同級生たちも、街が壊滅状態になってみんなばらばらとなりましたので、今では交流がほとんどなく、寂しい限りです。

私はほかの人が体験したことのない原爆というものを身をもって体験しました。原爆というたった一発の爆弾が、多くの人々の命を奪い、人生を狂わせたのです。二度とあのような悲劇が起こらないことを願っています。長い間両親がいないということで引け目を感じてきた私は、今でも親がいてくれたらなあと思うときがあります。自分の子どもや孫には、あのようなつらい経験は二度とさせたくありません。そのためには、やはり争いのない世界を作ることです。主義主張が違っても話合いによって解決するのです。なぜ人が人を殺していいのでしょうか。それで何が解決できるというのでしょうか。平和であってこそ、本当に人々が幸せに暮らせるのです。

 

 

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