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「いのち」広島被爆体験記 
永石 和子(ながいし かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1965年 
被爆場所 広島市松原町[現:広島市南区松原町] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日

――― 被  爆 ―――

私は一瞬下車を躊躇(ためら)ったまゝ、大阪行の車窓から広島駅のプラットホームを見下ろして腰を浮かしたまゝでいた。
「降りるんですか、降りないんですか。」
太い、中年の男の急がすような声に、思わず下車してしまった。前夜来の空襲で、汽車は四時間も遅れて、午前四時に着くのがもう八時を回ろうとしていた。それに、広島発の東京行きは午前七時半である。目まぐるしい思いに私は暫 (しばら) く佇(たたず)んでしまっていた。

去年、腸捻転で一晩の中に母を亡ってから、疎開の話も、元海軍々人の父は、
(日本は負けるはずがない)
と云うだけで頑として、連日アメリカの飛行機によって焼け尽くされる東京を離れようとしてくれなかった。男兄弟のない、私達姉妹は途方にくれ、それをみかねた九州の知人が
「暖かいし、食べ物も不自由させないから。」
と年老いて、腎臓を患っている父には耳よりな話を持ってきてくれた。それをよい潮に、昭和二十年三月末、九州の佐々と云う佐世保から十二粁(キロ)程入った、近くに炭鉱のある農村にはるばる疎開したのだった。その頃には、もう僅かの荷物しか持つ事を許されず、殆どの荷物は東京に置いたまゝだった。

五月末、東京最後になった空襲で家も焼けてしまい、勢い長女の私がその整理をかねて単身上京することになり、当時遠距離の直通はなかったので広島か、大阪で乗り換えるより外なく、連日空襲をうけている大阪より、広島の方が安全と思い早朝の広島発をつかまえるつもりでいたのだった。空襲でダイヤが狂ってしまい、一日、二本位しか出ていない東京行きは、一つを逃してしまったら少なくともあと半日は待たなければならない。
 
急に大きな不安に包まれてしまった私は、ともかく今日中に東京行きの汽車に乗れなかったら大変だと思い、早く時間を調べようと改札を出た。出札口にしがみつくようにして聞いたが、大きく乱れたダイヤに駅員もわからないらしく一向埒(らち)があかなかった。

一晩中続いた空襲警報の為、一睡もしてなかった私はひどく疲れていたので何処かで休みたくなった。駅前の広場は、空襲警報解除後でもあり、出勤時でもあったのでバスを待つ人たちが長い行列をつくっていた。眞夏の日差しを、除けるように見回した私は、駅の右側にずらりと並ぶ旅館を見つけ、(やれやれ)と、その中の一軒に入って行った。
「汽車が出るまで、休ませて下さい。」
ひとりで旅館など、入った事のない私は恐る恐る上がり框(がまち)に腰かけている女中さん達に聞いてみた。
「とても商売にならないから、もうやめよう、と言っていたとこなんですよ。」
無愛想な顔をして、ぽつりと言ったきりであった。がっかりして其処を出た私は何とかして休みたいと思い、もう一軒の旅館に入ろうとして厭になった。

(駅に戻れば、何とかなるかもしれない)
軒先を離れた私は、夏の日差しを右半身に受けて、道路に立った時、
マグネシウムに似た閃光が、パッと私を包んだ。
火の海に、投げ込まれ骨まで焼けてしまうかと思う程の熱さだった。
「お母さん、熱い!」
悲鳴をあげた私は、瞬間、ぢりつ。と焼かれて、
きりきり舞をして体を大きく反らすように道路に叩きつけられた。
(死ななかった)
どれ程たっただろうか、気がついた私は夢中になって立ちあがった。そして一寸先も見えない土埃の中で、
「お母さん!」
思わず何回も呼んでしまった私は、
(大変な事になってしまった、どうしよう。)
泪(なみだ)をぼろぼろ流して、投げ出されたリュックに摑(つか)まって震えてしまった。

次第に薄れてゆく土埃の中から長い列をつくっていた人達は、消えたようになくなっていた。並んでいた旅館は、屋根だけが地面にさゝっているような潰(つぶ)れ方をしている。恐怖の底から、焼けた痛みがよみがえり、慌てゝ右腕に目をやった。無惨にも半袖の白いブラウスは黒くちぎれるように焼け切れ、僅かに肩に布が残っていた。そして肘から肩までの皮膚がすっかり剥げて、爛(ただ)れた皮膚が縮れたようになっているのを見ていた私は、ふっと、黄燐弾の燐がついたのではないかと思ってしまった。
(早くとらないと大変だ)
燐に侵されると云う話を聞いたこわさに、遮二無二(しゃにむに)その皮膚を毟(むし)り取ってしまった。

ぺたん、と地面に坐って今にも泣き出しそうになっている私の前を、どんどん人が走って行く。狂人のようになって走っていく人を見送っていると、私の手をぐっと誰かが掴んだ。びっくりして見上げた私に、
「早く逃げましょう。」
見知らぬ青年が立っていた。
「駅に爆弾が落ちたんですよ。」
説明するように云うと、落ちているリュックをとりあげて、再び私を急がした。
「僕の家が街の中央にあるから、其処で手当てをしましょう。」
優しく云うのであった。気がついたら、みんな駅と反対の方向にばたばたと駈けて行く。彼の言葉に、救われたようになった私は、周章(あわ)てゝ彼にすがりつくように駈け出した。そして、やっと歩けるような橋を渡りきったとき、全てがぺしゃんこになった夥(おびただ)しいがらくたを目の前一杯に見て、
(どう、どうなってしまったんだろう)
呆然となってしまった。そして、東京で空襲の被害を度々見てきた私は、全市に無数の爆弾が落ちたのではないかと思った。

――― 炎 ―――

行けども、行けども、壊滅のひどさは変わりなかった。むしろひどくさえ感じられた。
「助けて! 助け・・!」
彼を追う私の耳にはっきりと、女の人の声が潰された家の下から聞こえてきた。瞬間、ぎくりとした私は夢中になって潰(つぶ)れた家を動かそうとしている男の人を見て、助けなければと思いながら、先を急ぐ彼について足を早めてしまった。私を自分の家に連れてゆこうとした彼は、この惨状にひどいショックだったのだろう、私の事を気にしながら次第に走り出すような歩き方になっていった。

助けを呼ぶ人の声が余りに悲しげだったのが頭にこびりつき、うしろを振りかえった私は、潰された家の端から僅(わず)かに炎が紅い舌を出しているのを見た。頭を突きぬけるような恐怖が身体中を走った。夢中になって彼を呼んだ私は、炎を指さして、
「川に逃げましょう。」
恐怖で声が上づっていた。空襲の度に焼ける真赤な東京の空を思出した私は、全市が火に包まれる事を直感したのだった。そして咄嗟(とっさ)に市中を流れる幾條(いくすじ)もの川があることを思い出していた。炎を見つめたまゝ私の恐怖に押されたように、
「火事だ、川に逃げよう。」
大きく頷(うなづ)いた彼は、右に道を折れ、川に行く道を急いだ。まだ炎らしい炎は何処にも見えてない程だった。ちょろちょろ、壊れた水道から出ている水をかけようと、しはじめた人達を見て私は地団駄(じだんだ)ふみたい思いであった。だがそれは思う方が無理だったのかもしれない。一度も空襲をうけていない広島の人に、火災の恐ろしさが分かる筈がないのだった。

その中、逃げる人の列が押しあうように出来、そのなかにはひどい火傷や、割られたような傷口から流れる血をそのまゝに目を覆いたくなるものばかりであった。そのとき私の前を半裸の男の人が背中の皮をまるで着物の一部のように、腰の所に垂れ下げ背中一杯赤い肉を剥(む)き出して歩いてくるのを見て、
「あっ!」
叫び声を押さえた私は、痛さも知らぬげに、たゞ急ぐこの人を見て何か峻(しゅん)としたものを感じ、彼を見上げただけで、むやみと足を急がせるのであった。
 
瓦礫(がれき)の道が、青々と茂った竹やぶに入り、やっと河岸に着いた時は、濃い緑の草の土手は、まだ人影もまばらだった。広々とした川の流れに、全ての恐怖が拭われるようであった。深々とした色を湛える川の流れに、少し落ち着いた私は、かすり傷があるような顔が気になって、
「どうなっているでしょうか。」
そっと彼に聞いてみた。
「頬の所がちょっとむけていますよ。」
私の顔を痛々しそうに覗き込んで、何気ないように言ってくれた。そっと見上げた私は、細っそりとした彼の額に、ほんの少しかすり傷があるだけで他は何ともない様子に一寸安心した。そして頭に手をやった私は、一握りの髪の毛がざっくり焼け切れているのに驚いて、周章(あわ)てゝ右腕を又確かめてみた。そんなにひどいものとは思えなかったが・・・。

しかし、あとになって肩の肉が剥(は)がれたように焼けとれているのが解り、そして背中の防空頭巾は綿まで手の平大に黒く焼けきれてあった。
「この防空頭巾がなかったらとても助かりませんでしたよ。」と医者に云われ、しみじみこの防空頭巾を眺めたものだった。

メンソレータムしか持っていなかった私は気安めに塗ってみた。彼にもすゝめてみたが受けとろうともしないで、独り旅の私を心配して色々聞いてくれたのだった。手短かに語った私に母のいない事を知り
「この様子では僕の家も駄目かもしれません。そしたら母の里が、尾の道にあります。親戚に医者も居りますから其処で治療したら良いと思いますが・・・」
半ば命令的な口調で言うお世辞のない率直な申出に、私は何も考える必要のない程、心を甘えさせてしまったようだった。彼との語らいで、心の落ちつきをすっかり取り戻した私は、リュックの中から空襲警報のとき着る袖の長い上衣を出して、焼け切れた半袖の上に着た。
 
その時、続々と一団の兵士が逃げてきた。川岸は忽(たちま)ち、ごった返し私の周囲はびっしり人で埋まってしまった。ピカッ!と光った瞬間、建物の中から外に投げ出されたとか・・・頭にひどい傷を受けて血を流している人が多かったが、側に居る彼と夥(おびただ)しい兵隊の数に、なにか頼もしいものを感じ膝を抱えていた私は、対岸に火の手があがるのを見ても広い川巾を前にして何のおそれも感じなかった。
 
そして、一体どんな爆弾が落ちたんだろう、全くこんなひどい目に逢わせて何て憎らしいアメリカなんだろう・・・・・憾(うら)みごとを言って、うっ憤をはらす余裕もまだあった。

――― 絶  望 ―――

背中の皮が、すっかり剥げてしまった若い男の人は、火傷の痛みが耐えられないのか仰向けに川の中に浮かんで冷やしていた。蛙のように手足を伸ばして、浮いている姿は余りにも痛々しく目を離そうとして、かえって吸いよせられるように見てしまう自分にやりきれなくなってしまった私は、向う岸の火の手に目をやった。そして、対岸の火事がおさまればそれで全ての危険が去ってしまう、そんな気持ちで時が経つのを、じっと待った。

何時の間にか、空はどす黒い雲に覆われてしまった。急に周りは薄暗くなり、黒い雨がザーと降り出してきた。むずかる子を、あやしていた父親の声が一段と高くなり、子供が烈しく泣き出した。
「お母さん痛いよう。」
火がつくような、泣き声は目に見えない恐怖が急に襲いかかって来るようであった。子供の方を見るまもなく、対岸の炎が大きく揺れた。静かだった群集が、「あゝ!」とざわめき、一瞬のうちに炎が大きな火柱となって天に昇った。そして一陣の風と共にこちらの岸めがけて倒れてきた。人々は先を争って川の中に飛び込み、所々川の中に折れて水に洗われている木の枝に人の群れが殺到した。
 
後ろの街も燃え上がったようだった。激しい熱気が襲ってきた。私の防空頭巾を黙って水に浸してくれた彼は、
「これを被ってなさい。」
私の手に渡してくれた。それを被った私は暖かい心が、じーんと胸にしみ込むようであった。

突然、左横の額から血を流している兵隊が私にしがみついた。
「お嬢さん、大丈夫でしょうか。助かるでしょうか。」
泣かんばかりの必死の言葉だった。二十才を過ぎた許りの私に、しがみついた兵隊はおののいていた。日本の兵隊の強さばかり聞いていた私は、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)して暫く声が出なかった。その兵隊の顔を呆れて見ていた私はハッとなった。応召兵なのだ、応召されて間もないのだろうか、残してきた妻子の面影が彼の脳裏にこびりついているのだろう。善良そうなその兵隊がたまらなく可哀想(かわいそう)になってしまった。
「大丈夫、ここに居れば助かると思います。」
彼が横に居るからだろうが、よくもまあ、こんな言葉が言えたと思う程すらすらと言ってしまった。

言った途端、私はハッとなった。
流れに枝を沈めている木まで、燃え出したではないか。パッと、散らすように逃げた人々は、速い流れに見る見る沈んでいった。そして、対岸の炎は低くなり火事がおさまってゆく様子が、手にとるように見えるのであった。対岸に群集の目が凝結した。そして溺れる事が解っていながら、次々と飛び込む人があとを断たなかった。わけのわからぬ叫び声があがり、女子勤労隊のおかっぱの髪の毛が藻のように浮かび忽ち流されていった。流れてくるものは、何でもわれ先きに取った。何百メートルもあるだろうか、広い川巾の、早い流れに泳ぎを知らない私は、絶望のおもいに凝然とするだけであった。
 
阿鼻叫喚(あびきょうかん)に変わってしまった川面を、一艘(そう)の小舟が漂い流れてきた。先を争って取ったのは、兵隊と屈強な若者だった。
(もう駄目だ)
想像も出来なかった光景に死を眞近かに感じた私は、
「若し駄目でしたら、こゝに知らせて下さい。」
父のことをあわたゞしく思いながら、紙片に疎開先の住所を記して彼に渡した。そのまゝ二つに折って、胸のポケットにおさめた彼は、怒っているような顔であった。彼の足手まといになるのを恐れた私は、黙っている彼の気持ちにはおかまいなく、
「泳げないんです、私にかまわないで向こう岸に行って下さい。」
これだけを精一杯言った私は、自分の死を見守ってくれる人がそばに居る安堵感なのだろうか、不思議に気持ちが落ちついて来るのだった。抱えた膝を、抱きしめた私は、
「負傷した人、女子供が先だ。」
突然、頭の上で呶鳴る声がした。振り返った其処に、青年将校が憤然と立っていた。苦しかった胸がやわらぐ思いだった。声もなく、立ち竦んでいた数人の赤十字看護婦さん達が救われたように、その小舟を摑(つか)まえた。

パチパチ、竹のはぜる音がしたかと思ったら、
「わぁ!」
うしろの人達が雪崩のように押しよせ、
「危ない!」
叫び声をのみ込んだまゝ川の中に群り落ちてしまった。川底に踏みつけられてしまった私は、澤山の重い足を除けようとして夢中になってもがいたようだった。やたらに苦しかった。
(お母さん、助けて!)
うすれてゆきそうな脳裏に 母の顔を必死に探した。
(もう、死ぬ)
そう思った時、ぐっと私の手を摑んだその手に
(助けて)
必死になってしがみついた私は、やっと川面に顔を出し、かすんだ目に彼の顔が浮び上った時、助かった喜びより、その手が彼だと解った驚きの方が一層強かったようだった。
(もう死んではいけない)
そんな思いが強くなった私は、周囲を見るのも恐ろしくなった。彼が側に居てくれる。それだけが私を辛うじて支えてくれたのだった。そして石垣にしがみついた私は、ずるずると水の中に引き入れられてしまうような思いにも耐えることが出来た。
 
何時間たっただろうか・・・
「もう大丈夫でしょう、早く此處(ここ)を出ましょう。」
彼の急いだ声に、ハッと吾に返った私は、急に焦るような気持ちになった。川の中は誰も居ないような静けさであった。

――― 焼土 ―――

土手の上に引き上げられた私は、一歩ふみ出して、(あっ)と息を呑んだ。
信じられない光景だった。

一、二才の幼児が、黒こげの畳の上にねかされ、折り曲げた股の所からまだ眞赤な炎が出ている。一畳の畳の上の幼い姿は苦しみのあとがなかった。釘づけにされたように動かない私を、彼がそっと促した。
 
青々と茂っていた竹は、一本も姿をとゞめていなかった。彼に寄り添うように、土手より梢々(しょうしょう)低くなった焼土に足を踏み入れた私は、又息を呑んで棒立ちになってしまった。まだ点々と、炎を残して燻(くすぶ)り続けている焼土の中に、黒こげの男とも女ともつかない死体が無数に転がっていた。苦しみ悶えた姿も、そのまゝ残っている。
(ああっ!)
思わず叫ぼうとして私は、手を合わせた。そして、自分だけ助かったような思いに苦しめられた。

過ぎ去ったものの恐ろしさを、突き付けられ、追われるような思いで私達はやっと大通りに出た。焼けて骨組みだけになった電車が、がらんと置いてあった。その電車を眺めるように回った私は、踏み台に片足を乗せたまゝ黒い骨ばかりになった人を見て、思わず目を背け横を向いた其處に、目ばかり異様に光った焼け爛れた三人を、セメントの防火用水槽の中に見出した。思わず、横に居る彼にしがみつくように見上げた私は、
「薬、く、す、りを下さい。」
生きているものとも思えない此の人達の声を聞いた時、何とかしてあげたいと云う気持ちより、水を浴びせられたような恐怖が襲った。
「何もないんです。」
やっと声を出した私は、小さなメンソレータムを出すことも出来なかった。手ぶらの彼は、私のリュックの中から見つけ、それを持っていてくれたが、何も言えないようだった。たゞ、頭を下げた私達二人は黙々と足を早めた。
 
歩けば歩く程、凄惨さが加わって逃れられない惨めさに泣き出したい思いであった。そして何も知らない私達は、被害の中心地に向って歩き続けたのであった。この頃になって、ようやく救護に駆けつけた人達に逢うことが出来た。しかし、ほっとした思いで見る私達には関係なく、彼らは血相かえて走り去ってしまった。来る人来る人が、右往左往するだけである。声のない、あわたゞしい動きは不気味なものが伸しかかって来るようであった。

果てしない、焼土の道に疲れきってしまった私は、眞黒に焼け脹れ上がった馬のようなものを見て、もう何處(どこ)でもよい、休みたかった。

――― 別れ ―――
 
私を自分の家に連れてゆこうとしていた彼は、どうにもならない市中の様子に仕方がないと思ったのだろう、次第に足が遅くなる私を見て、ある橋(相生橋と思われる)の手前で、
「この先に私の家があります。行ってきますから、動かないで待ってて下さい。」
何回も念を押すように言った彼は、気遣わしげな視線を残し、足早に去っていった。
ひとり残る心細さに、泣き出しそうになって見送った私は、まだ名前も聞いていないことに気付いた。逃げ歩いた市街の無惨なありさまの中で、自分の家庭の安否さえ知り得なかった。
(そして、それは絶望的であったろうに)
彼の胸中はどんなだったろう。
それを察しながら言葉に現すことも出来なかった自分自身へのもどかしさと、急に出た疲れに私は、へなへなと橋のたもとに腰を下ろしてしまった。

橋の上を行き交う人が、一段と多くなったようだった。そして誰もが一様に健康そうなのが、自分だけ取り残されたように思えて、心にさゝってきた。ぼんやり過ぎ去る人の足元を見ていた私は、橋が無事に懸かっているのが不思議であった。彼のことを考え、いくら心配しても、どうにもならない事に気づきながら、目は彼の去った見渡す限りの焼土の方を追っていた。

その時、私は異様な人影を見つけ、ぎくりとした。全身爛(ただ)れた人が行き交う人中に入って、定まらない目つきで何かを探している。目を据えて見ていた私は、目もくれないで足早に去ってしまう人々を見て、憤りに似たものが込み上げてきた。私自身、どうする事も出来ないでいる苦しみが一層思いを強くしたようだった。あの人達はどうなるのだろう。慌しい足音が、私の心をゆさぶるように去っていった。言葉を失ったように、肉親を捜し求めて去る人が急に哀れに思えてきた。

(誰しもが不幸なんだ)
目を閉じた私は、幼い幽かな声に、ふっと目を開けた。
「お家につれてって。」
五、六歳の男の子が哀願するように、通りすがりの人を見上げていた。全身爛れていた。手を持てばそのまゝ腕の中で息を引取ってしまうような、はかなさであった。
(早く誰か、助けてあげて)
言葉になって出なかった私は、祈るように心の中で叫んだ。丁度、死んだ私の弟の年令に近かった為か、その可哀想な様子はとても見ていられなかった。幼い子は、大人のあとにつくように消え去ってしまった。やりきれない、思いに、戦争のむごさを呪った私は、何時しか考えに沈んでいた。
 
そしてあたりの薄暗さに、ふっと気づいた私は慌てゝ立ち上がった。
(暗くなっても彼が帰って来なかったら)
彼の立ち去った方を確かめるように見ていた私は、そう思った途端、黒い屍体が急に怖くなってきた。数えるように、屍体を目で追った私はもう彼が念を押した言葉も、徒らに宙を舞うばかりであった。すっかりうろたえてしまった私は、まばらになって人蔭について橋を渡り始めてしまった。何回も、何回も振り返り長い橋を渡った私は、見渡す限りの焼土の彼方に貨車がひっくりかえっていたのを幽かに覚えているだけで、もう夢中だった。人のあとに後れない様、被害の次第に少なくなる様子に駅まで行けば何とかなる、そんな思いに、傷の事も何も食べてない事も苦にならなかった。
 
まもなく、電車の線路に出た私は傾いている、あばら家からローソクの灯がほのかに洩れているのを見てほっとした。これで戦争のむごさから逃れたと思った。しかし幾らも行かない中に、おかっぱの髪を散らして、息絶えた少女が、ほのかな明りにうつし出されたのを見て愕然としてしまった。そして、その少女が無傷のように見えるのもいっそう哀れを増すのだった。

とっぷり暮れた道は、いやに悲しかった。重い足を栧きづっていた私は、社の境内のような所に、ローソクが一つともり、救護所が出来ているのを見て、急に傷の事が気になって入って行った。ほとんど全身火傷の人で埋まっていた。順番を待つのも気がひけるような傷のように思った私は、薬を少しもらって出た。そして其処に救護のトラックが止まっているのを見て、思わず駆けよった。

四日市で降ろされた私はまだ汽車が出てない事を知らされ、近くの小学校の救護所に案内され、一晩休むつもりで入っていった。看護婦さんが、マーキュロをアルコールで薄めたものを塗ってくれた。飛び上がる程の痛さに、思わず顔を顰めたら
「マーキュロが足りないんです。これしか薬がなくて。」
申し訳なさそうに言うのだった。そして、
「その傷では無理ですよ、暫く此処で休みなさいね。」
親切な言葉に抗うように
「明日、九州に帰りますから。」
と云う私の為に、布団を教室の茣蓙(ござ)の上に敷いてくれた。

怪我人を収容する教室は、別に幾つかあるようだった。一杯の水に、ほっとして横になった私は燃えるような熱に、不安がよぎってゆくのであった。少女が、何時の間にか私の側に来て、何くれとなく看病してくれた。思いがけない救いであった。何もあげるものがない私は、感謝のつもりで色々聞いてみたが、何処から来たのかさえ解らなかった。ひどい疲れが出て、何時の間にか眠ってしまった。

八月七日

――― 生と死 ―――

白々と明ける頃には、もう学校は負傷者でごった返していた。物憂い体の様子に、目が覚めた私は昨日とまるで違っている自分に気づき周章ててしまった。
 
顔は目が見えないまで腫れ、右腕は指先までふくれ上がり、とても歩ける状態ではなくなっていた。
「どんなことをしても無理ですよ、暫く此処で治療しなさい。」
看護婦さんは、当然のことのように私の床を負傷者の居る教室に移してしまった。教室の中は、ひどい火傷の人ばかりで足の踏み場もない程であった。布団が足りなくて、ほとんどの人が筵の上に直かに横たわっているのは見るに忍びなかった。近くの人に掛布団をそっとかけ、入り口近くの床に横になった私は、気が滅入る許りであった。看護の人が歩き回る度に、埃(ほこり)が舞い上がり傷はみるみる悪化してゆくようであった。薬は、アルコールで薄めたマーキュロと最期に使うカンフルだけであった。

やがて婦人会の人達が大きな木箱に、三角に握った大豆入りのおにぎりを配りにきた。目の前に出されて、とった一つを口にしてみたが塩気のない、おにぎりは食欲を失うばかりであった。
 
そのうち私は四十度を越す高熱になり、何も食べてないのに激しい腹痛と、水ばかりのひどい下痢が何回となく続くのであった。やっと洗面所まで歩く私は、講堂の中に沢山の屍体が置いてあるのを、いやおうなく見なければならなかった。そして何時か自分もあそこに並べられると云う恐怖感におのゝいて、逃げるように部屋まで帰るのであった。そのうち担架で、そっと運び出される死体が一つ二つと数を増し、講堂から洩れる読経の声に、厭でも死を間近に感じた私は部屋の中をそっと見回した。そして医師と看護婦がひとり、ひとり丹念に診ては枕元に住所と名前を大きく紙片に書いて居るのを見て、青ざめてしまった私は、生きて墓の中に入れられ命のもだえのようなものに苦しめられるのであった。

やがて私の枕元にきた医師は、
「大分弱っている。」
脈をとりながら看護婦に囁くのが敏感になった耳に入ってきた。弱っている事が自分でも解っているだけにひどいショックだった。
(どうせ死ぬのなら、家に帰ろう。それ迄は死にたくない。)
執念の炎が燃え上がって来るようであった。枕元に置かれた紙の音が厭に大きく耳に残り、泪が一筋、頬をぬらしたとき、
「俺は、まだ若いんだ、したい事が沢山あるんだ! 死にたくない。」
不意の怒声に、ざわめいていた部屋が不気味に静まった。火傷(やけど)で、半裸のまゝ寝ている二十才ぐらいのその青年は声も立てずに泣いているようだった。
(みんな死にたくないんだ)
張りつめた気持ちが、やり場のないものとなって私を苦しめた。
「呼吸が、苦しくありませんか。」
こともなげに云う医師の言葉に頭をあげた私は、部屋の中程に膚の白い女の人が坐っているのを見て、
(あの人も、駄目なのだろうか)
暗然とする思いであった。確かに朝の内は元気で
「許婚(いいなづけ)が戦地に居るんです。何時頃、治るでしょうか。」
点々と、大きな火傷を残す背中に、マーキュロを塗って貰っていたはずだった。こんな所で、寝ている無意味さに急に腹が立ってきた私は、通りかゝった看護婦を摑(つか)まえ、
「治るでしょうか?」
「そのうち、薬も来ると思いますし、病院にも入れると思いますから。」
泣き出しそうになった私を宥(なだ)めるように、云うだけであった。
入れ替わり、立ち替わり来る医師は新型爆弾と称する爆弾の威力を調べに来るだけのようだった。

全ての音信が絶えてしまって、父に知らせるすべのない私は、一刻も早く家に帰らなければと心が急いてきた。
(どうやって家に帰ろうか・・・)
あまりに九州は遠かった。
窓辺に堤燈(ちょうちん)が吊るされた。何時の間に、日が暮れたのだろうか・・・
夜になるのが堪らなく恐ろしいものになってしまった私は、仰向いて寝ていると、窓辺の堤燈が谷底から見上げる星のように心細く、ひっそりとした学校が、墓場のような静もりを感じさせるのであった。

家に帰ることばかり考えていた私は、疲れ果て意識が次第に薄れてゆくようだった。そして、堤燈(ちょうちん)の灯が遠ざかりそれが母の顔に替わっていった。絶えず、母に見守られているような、薄れてゆく意識を最後の所で繋(つな)ぎ止められているような、そんな安らぎを覚えるのであった。突然、夜のしじまを破って空襲警報が鳴り響いた。騒がしくなった教室が、しんとしたと思ったら、まだ看護に当たっていた人はひとり残らず防空壕に逃げてしまった。昨日の新型爆弾と称する爆弾が、どんなに人の心を脅かしているか、私には解る気がする。
 
だが、置き忘れられたような心細さは、もう眠る事も、(何とかなる)のをじっと待つ事も出来ない気持になっていた。夜も大分更けたようである。そして高熱の頭は、ともすると遠い九州に帰る事の不可能を感じさせ、思いは堂々巡りをくり返すばかりであった。

八月八日

――― 家路 ―――

明方近くなって私はやっと心を決める事が出来た。一時は比較的近くに居る三重県の学校友達の所に身を寄せようとも思ったし、そして九州より近い東京に行けば何とかなるとも思った。しかし(私はいったい助かるのだろうか・・・・・・。)そういう思いが、矢張り遠くとも父や妹が居る九州にどんな事があっても帰ろうと決心させたのであった。そう決心すると、看護婦に見つかる事が心配になり出した。そう思った私は、早い夜明けが気になり出した。
(早朝なら誰にも見つからないで出られるかもしれない。)

白々と夜が明ける頃、少女が又やってきた。天の助けとばかり私は、その子に今朝発つことを話し、傷の手当をどうすればよいか考えあぐねて居たので、薬と包帯を看護婦の詰め所で貰ってきてもらい、マーキュロを綿に含ませてどろどろになった腕にあて包帯をして腕を吊った。はれ上がった右腕はもう自分のものではないような重さであった。顔は三角巾で結んだ。少女は何処からか、氷のかけらを沢山持ってきて、
「傷を冷やすと、いいよ」
渡してくれた氷の冷たさが、かえってじーんと胸に迫るようであった。

家に帰りたい執念は、二日間何も食べていない高熱の私を立ち上がらせてくれたようだった。五時頃であったろうか、罹災を受けてない町中はまだ森閑としていた。少女が、私のリュックを持って駅迄送ってきてくれた。履物のない私は裸足で歩いた。四日市の駅はごった返し、
(罹災者のみ、罹災証明書で乗車を許可す)
大きく掲示されてあるのを見て、罹災証明書のない私はどうしたものかと、改札口に近づくと姿を見ただけで駅員は黙って通してくれた。
 
二、三時間も待って乗った汽車は満員だったが、やっと立っているような異様な姿の私の近くの人が慌てゝ立ってくれた。崩れるように坐った私は、もうお礼を云う気力もなく、通路でもどこでもよい欲も得もなく、ただ横になりたかった。駅に着く度に、人目で解る罹災者の一団が窓から出入りした。ごった返す乗り降りが一頻り続き、そのうち車内は大分透いてきた。ほっとして横になった私は、ようやく九州まで帰り切る望みが出てきたようだった。
 
目を瞑(つむ)って、ひた走る汽車の音に僅かに慰められていた私は、けたゝましい汽笛の音とともに、ダッダッ・・・・・ばらばらと降る激しい機銃掃射の音に驚かされたが、起き上る気力もなく、皆座席の下に潜ったり、トンネルに首を突っ込むように止った汽車から飛び降りる人々を黙って見ているだけであった。
 
機銃掃射を逃れた汽車はやっと門司に着いた。門司駅の待合室に入り、何時出るか解らぬ汽車を待つ間、どこからとも無く蠅(はえ)が集まってきた。次第に多くなる夥(おびただ)しい蠅(はえ)に驚いた私はそれが私の周囲だけに集まっているのを見て、腕の激しい臭気に気がついた。右腕は膿のような汁が、べとべとになって滲(にじ)み出ている。蠅(はえ)が止まらぬよう追うのは大変だった。追う手が疲れてきた時、ふっと戦地に居る兵士の傷口に蛆(うじ)が涌く話を思い出し、夥しい蠅にぞっとするのであった。
 
門司で乗り継いだ汽車は始発の為か割合すいていた。私は知らなかったが、その時すでに長崎にも広島と同様な爆弾が落されていた。その為か頻りに私の様子を気にする人が多くなり、口をきくのも億劫(おっくう)な私は全く閉口して眠った振りをしながら、何時(いつ)か深いまどろみの中におちていった。

八月九日

佐世保が近づくにつれ、ふっと足に何も履いてない事が気になり、裸足で外を歩く恥しさが込み上げてきた。当時靴など配給だったので買う事も出来なかった私は、田舎などでよく脱ぎ捨てられた藁草履(わらぞうり)を思い出し、坐席の下を何気なく覗いてみた。そして捨てられた藁草履を偶然見つけた時の嬉しさは喩えようもなかった。

佐世保で乗り換えた私は、広島から二日がかりで佐々と云う緑の畑に囲まれた駅にやっと下りる事が出来た。肉親に逢える喜びは強烈であったが、朝の爽やかな空気の中に、戦争を知らぬ気な真夏の太陽をうけて、一すじ延びている村道を見た時、私は一種いいようのない不安に気がひるむのを覚えた。顔見知りになった村人に逢うのが恥しかった。恥かしいと云うより、私の姿をみて駈けよる村人の好奇な目がこわかったのかもしれない。 
 
村道をさけながら曲がりくねった畝に足をとられ、精一杯の早さで歩いた私は、肉親に会いたいという執念の固りであったかもしれない。

――― 再会 ―――

小高い畑の中にある我家の前の石畳を音もなく登ろうとすると、丁度井戸端で末の妹が釣瓶を持ちあげようとしていた。人の気配に、顔を向けた妹は私を見るなり
「あっ!」
と叫び声を残して、家の中に逃げ込んでしまった。そして驚いて飛び出してきた父や妹に、
「濃い塩水を頂戴。」
それだけ言うのが精一杯だった。昨日から塩水が飲みたいと思っていた私は、家が近づくにつれ濃い塩水を飲むことばかり考えていたようだった。
 
妹が差し出す塩水を貪るように一気に飲み干した私はやっと人心地がつき、呆然としている父や妹に、
「広島で・・・」
泣きそうな顔をして辛うじて言った。長崎にも新型爆弾と称する爆弾が落ちているのを知ってた父はそれだけで解ったようだった。

顔を覆っている三角巾を取り除いた私の顔を見て、父は仰天して妹を医者に走らせた。しかし長崎で被爆した人を見た医者は、手の施しようもなく息を引きとったのに懲(こ)り、
(手に負えないから・・・)と来てくれなかった。困り果てた父を見ても、私は別にがっかりもしなかった。たゞ臭くて堪らない腕を早く何とかして、休みたかった。そして我慢出来ない程の臭さと痛みが激しくなった腕は自分で仕末するより他ないと考え、私は漂白粉が幾らか家にあるのを思い出し躊躇する父や妹をせかして、それを水に薄く溶いて貰った。手伝って貰った私は腕を洗うように消毒を始めたが、その痛さは気が遠くなりそうであった。ぽろぽろ泪(なみだ)を流しながら母のいない辛さが身にしむようであった。泣きながら、やっと消毒を終えた私は延べてくれた布団に飢えたように横になると、もう遠い世界に引き入れられるように昏々と長い眠りに入ってしまった。

不思議な程、眠りは苦しくなかった。遠い過去の世界に戻された私は、五才位からの幼い思い出のフイルムを辿り始めたのであった。そして、妹が庭の池に浮いているのも知らないで遊びに夢中になって、ひどく叱られた場面は特に鮮やかであった。

走馬燈のように走り去る、そんな夢の中は全てが懐しかった。母の幻が何回も囁きかけるように消え去る頃、ようやく目を開けた私は、二日間も続いた眠りから覚めた感懐よりも、身体中の力が地の底に吸い込まれたような無力感が気になった。
全快してから、何かで諍うことがあったあと
「あの時、死んでしまうと思ったから一生懸命看病してあげたのに・・・」
妹に言われ苦笑したものだったが、生と死の間を二日間も彷徨って生きた私は、奇跡に近かったかもしれない。

――― 敗戦 ―――

眠りから覚めた私は、又ひどい痛みと水の流れるような下痢に苦しまされ、一日一日と体中の力が抜けるようであった。やっと医者に椰子の油と称する火傷の薬を貰った私は、つける度に泣かなければ収まらない痛みに、畳の上をそっと歩かれてもその僅かなひゞきは耐えられない痛みであった。

夜も日も呻き通した私は、その痛さに広島の傷を生々しく思い出し、父は最期迄「日本は竹槍ででも戦う」と言っていたが、いくら私が軍人の娘でもあの広島で起こった出来事は何を意味するのか、悪い情報は何一つ聞かされていなかっただけに拭う事の出来ない不安が募るばかりであった。

見舞いにきた村人がこの事を耳にはさみ私を非国民呼ばわりしてどうしても解って貰えなかった。これが三ヶ月も前だったら憲兵に拉致されただろうが数日後に敗戦を迎えた日本はもうその力もなかったようだった。終戦は日本人にとって生命の尊さを教えられ、戦争のむなしさを知らされた。

秋風のたちそめる頃、私はそれでも献身的な妹の看病と、往診してくれるようになった医師によって化膿していた一ヶ所を除いて次第に元気になっていった。しかし不思議な程身体に異状が認められなかった私は火傷の跡が、ざらざらした舌のような皮膚から赤紫の痣(あざ)に変わっていた。やっと医者に通うことが出来るようになった体も、顔半分かくして人目を歩くのは若い娘にとって死にたい程の悲しみだった。憖(なま)じ助かったのが恨めしくさえなってくるのであった。

それでも、毎日薄くなったのではないかと祈るように鏡を見る私に、父は口にこそ出さなかったが外出しては火傷にきく薬を聞いてきて、よいと云われる事は何でもさせた。柿の渋を搾ってつけてくれた事もあった。しかし顔半分の痣(あざ)は、どんなに濃い白粉を塗っても駄目だよと嘲笑(あざわら)っているようであった。

随分心を痛めていた父は何を思ってか、アメリカ軍が上陸したと云う佐世保港に行き、若いアメリカ兵を連れてきた。とび上る程驚いた私は押入れの中に隠れてしまった。敗戦後の日本はアメリカを鬼畜と云って必要以上にアメリカ兵を恐れ、婦女子は何をされるか解らないと言って山に逃げる人もあった。
 
父は幸い海軍時代に広く海外を回り、
「海ゆかば、祖国に殉ずる」精神に徹していたが、一部軍人のように不必要な偏見はなかった。そして日本軍人の面目は捨て切れなかったらしく、
「私の娘が原爆にやられ、ひどい火傷をしたから来てくれ。」
片言に喋れる会話にものいわせ、赤十字の兵隊を探し、当然の事のように威張って連れてきたらしかった。アメリカ兵に厭がる私をやっと診(み)せた父は、(明日、薬をもってくる)と云う兵隊に日本酒を振舞って帰したのだった。

翌日アメリカ兵は約束通り薬を持ってきてくれた。そして私の手をとって気味が悪いくらい丁寧に塗ってくれた。片言の日本語と手真似で一日三回程マッサージしながら塗ることを教えてくれ、三週間もすればきれいな色になるからと言い、毎日きてあげると云う。チューブに入った薬は医者に見せても解らなかったが、日に三回塗る私は眞剣だった。アメリカ兵は当時手に入らないもの等もって毎日通ってくれ、自分で塗るからと言っても承知してくれなかった。有難かったがそのうち父の目を盗んでは、私の体に触ろうとしたり手を握ろうとしたりした。

日毎、嘘のように忌(い)まわしい色が拭い去るように薄れていった。その驚きと感謝の思いは強かったが、父も黙っていられなくなって、敗戦国と云う劣等感が多少遠慮めいていたが、来る事をやめて貰った。どうして私が厭(いや)がるか不審な顔をして帰ったこの若者に何の罪もないかもしれないが、原爆を落とした自国を知らぬ気なこの兵士に我慢できない憤りを、私は感じるのであった。

――― 愛と云うもの ―――

青年の愛と、肉親の愛によって奇跡的に助かった私の生命を思うとき、誰ひとり助ける事をしなかった私は、大きな犠牲の上に生きたと云う責を負い目のように感じ十年間と云うものは、毎晩あの恐怖の思い出と共に、魘(うな)され続けたのであった。

そして二十年たった今も、助けをよぶ人の声が阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中で死んだ何十万人の悲しみと一緒に私の心を苛(さいな)むのである。多くの犠牲に上にしか生きられない生きとし生けるもの全ての宿命なのだろうか。自分の生命を守るのが精一杯のあの差し迫った中で終始見知らぬ私を守ってくれた、彼の心に思い触れるとき、利己のない愛だけがこの宿命を救ってくれるように思えるのである。

彼の名前も聞かずに別れてしまった私は、二十二、三才の青年の細っそりとした横顔だけしか覚えていない。死が迫ってきたあの時、私の住所を記して渡した安堵感が遂に「命の恩人」としての彼の安否を知る機会を失ってしまったようである。その悔いは人を愛する事によって消え去るかも知れない。だが広島に残った彼はとても生きている筈がないと思うと、辛い思い出と共に悲しみが深まるのである。

ようやく原爆の悲しさが伝わった昭和二十八年頃、私は新聞記者に訪ねられた事があった。何も喋れない私に、
「社会の為ですから話してください。」
子供に恵まれた私を見て、新聞記者は離さなかった。だが、あの日を思う事は耐えられない苦痛であり、全てを語ろうとしても泪(なみだ)がことばを途切らせてしまうのであった。

二十年後の今日、やっとそれ等を書きとゞめて置きたいと思うのは、広島の惨劇が、まだ終わっていないと云う思いがするからかもしれない。
 
そして青年の横顔が私の心に生きているからかもしれない。

そして私は今、何時か大人になった己れの子供達にこれを読ませたいと念うのである。

(完)
 




被爆から平和の語り部へ  母-永石和子の紹介

いつも人の幸せを願い笑顔が素敵な母は、二〇〇〇年春、次の舞台へと旅立ちました。戦いの二〇世紀を見届け、二一世紀の平和のために生まれ変わるように。

母は横須賀生まれ東京育ちですが、疎開先から帰京する時に全くの偶然で降りてしまった広島で原爆に被爆しました。二三歳の時でした。爆心から一・八キロ・JR広島駅前付近で被爆し、生き地獄をさまよいました。

爆心二キロ以内での生存者はほとんどいないため、普通の被爆者ではなく国から「特別被爆者」の認定を受けました。その後、母は結婚し、私を含め子どもを三人もうけますが、全身症状の原爆症と死の恐怖、子や孫への影響の不安に悩み、失意の底に沈んでおりました。自分の足下に苦しむ果てしない数の人々を助けることができずに、己れのみが生き延びたことを責め続け、毎晩広島の光景を夢に見、朝起きると自分の足首に「助けてください!助けてください!」と人々がしがみつく手の感触がそのままある、と常々申しておりました。訪ねてくる新聞記者達には、あまりにも辛い体験を一言も語ることはできませんでした。

一九六五年頃被爆から二〇年後に、母は原稿用紙五〇枚にわたる被爆体験記「いのち」をまとめ上げました。万年筆で手書きで清書した原稿はほとんど書き損じがなく、全魂込めて必死に書いたことが痛い程分かります。閃光を浴びた時、母は半分日陰に立っていたとは言え、生き残ることができたのは本当に奇跡としか言いようがありません。体験記をまとめた数年後に母は自らの宿命は使命に他ならないとの強い思いに至り、平和のために我が子やいろいろな世代に辛い体験を語り継いでいこうと決心しました。神奈川県の高校生の大きな平和の集いで被爆体験を語り、新聞に「生命の尊厳について」の小論文を投稿し、地元のコミュニティー誌や母校の同窓会報に体験記連載を頼まれ、地域の様々なセミナーで体験を語り、亡くなる直前まで友人に平和を語り続けました。また、私が高校生として広島平和資料館の原爆記録映画の上映活動をしたり、その後も様々な草の根の平和活動を広げることをずっと励まし続けてくれました。

二〇〇四年に母の体験記を活字に打ちました。広島被爆から六〇年目である二〇〇五年に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に母の体験記を寄稿し登録・公開されました。

この体験記は重要な使命を担っています。祈念館に来られた方達が読んでくださいました。また、私も東京の地元中学で三年間、平和学習の授業の講師として母の被爆体験と被爆二世である私の平和への思いを語る機会をいただき、体験記を教室に置かせて頂きました。公民館の講座からの依頼で『戦争を体験した』方達に『戦争体験のない』私が話をさせていただき、体験記を多くの参加者全員に差し上げたこともありました。地域の平和セミナーに参加された方々、子どもの学校の校長先生始め先生方・子ども達・親御さん達・若い世代のみなさん、様々な年代の方々に体験記の贈呈を続けています。
地道ではありますがこの体験記を語り継ぎ、母の思いを受け継ぎ、平和の砦が少しでも広がればと願っております。
 
二〇一八年、この母の体験記をインターネット公開など広島祈念館に係る事業での活用・公開と公的機関などが行う事業に使って頂くことに同意致しました。
 「平和のために、たくさんの人に、若い人達に、体験を伝えたい」との母の願いがようやく実現し感慨に堪えません。


★追記 

母の体験記の中で避難・手当を受けた救護所が四日市駅の近くの小学校、疎開先の佐世保に向かって乗り込んだ駅も四日市となっています。
 
広島在住の方やかつて広島に住んでいた友人から広島には四日市という駅がない、五日市か廿日市のことではないでしょうか、と次のようなお知らせを頂きました。
・五日市は廿日市よりも広島市内に近いので五日市の方が可能性が高いのではないか。
・「廿」の字は「四」と見間違えるかもしれない。
・廿日市が五日市の次の駅なので四日市と思ったのかもしれない。

インターネットで当時の広島県把握の救護所を調べると「五日市国民学校」「廿日市国民学校」が出て来ます。現在の五日市駅・廿日市駅から共に徒歩一〇分位の所にそれぞれ公立小学校があります。その小学校が当時の国民学校と同じ場所なのかは分かりませんが、重症の母でも何とか歩ける距離であると思います。五日市・廿日市どちらとも考えられる気がします。

母に聞いておきたかったことは亡くなってから気がつきますが、健在の時であっても母の気持ちを思うと聞けなかったかもしれません。改めて、体験記を書き残した「母の強さ」は本当に尊いと思います。
(母と被爆されたすべての方に合掌)

二〇一八.五.三   永石和子の娘 近藤 泉

  

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