原爆投下時安芸郡江田島幸の浦にて船舶特別幹部候補生(三期生)特攻隊教育を受けるため七月より当地におり投下された翌日朝救護隊として似島に渡りました。岸壁にて被災者が運ばれて来るのを待ちました。
負傷者の乗った船が数多く来ましたが余りの光景に誰一人として助けようと手を差しのべる者はおりませんでした。兵隊の姿を見て「助けて」と叫ぶ人達がとても人間とは思えない有様でした。髪はちぢれ顔は目と口だけ、ひふがむけ差出す手には皮がぶら下っておりました。出来ることなら其の場から逃げたかった。「水を…」と叫ぶ人達に水も与えてやることも出来ませんでした。救護隊員が少く私達は一人で五〇人程の負傷者の看護をしましたが毎日何人かの人が死に代わりに又負傷者が入って来ました。
泣き叫び母の名を呼び乍ら死んで行った子供達に何もしてやることが出来ませんでした。唯死んだ人達を片付けるのに精一ぱいでした。
一三日忠海高等女学校の生徒と交替し広島に行き、日赤病院内部の片付け、文理大学の片付け、現在のドームの回りを片付けたり死人を掘り出したり川を流れて来る死人を引き上げたりして終戦まで広島市内を歩き回りました。
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