当時陸軍船舶特別幹部候補生(第三期生)広島県安芸郡江田島村幸之浦にて船攻艇による特攻隊員として訓練中でした。直接被爆しませんでしたが、ものすごい光と爆音で退ひしました。
広島上空にキノコ雲が上昇するのを見ており翌日「多勢の負傷者が出たので救援隊として出動」の命令を受け「似島」で広島から運ばれて来る人々の看護と死人の片付けを約一週間しました。
それから広島に移り、日赤病院、文理大学、ドーム等の整理や片付け、又道路の片付け等一五日の終戦迄広島におりました。終戦になっても樺太出身者は帰る所もなく、幸之浦で九月二〇日迄居りましたが最後は親戚を頼れる者は出て行け…と追い出された様なものでした。
其の後、漁師をしたり土方をしたり色々な生活をしましたが、姉の夫に助けられ、鉄工職を身につける事が出来、結婚をし現在の釧路市(昭和三〇年)に移転し、会社勤務三〇年後自営業として鉄工下請業を営み今年五月三一日付けで廃業しました。其の間昭和四二年「心臓完全ブロック」と診断され北大病院で「ペースメーカー」を挿入しました。其の頃より労働者から昇級し管理職クラスになったので何とか生きのびることが出来ました。昭和六二年より自営に移り細々乍ら事業を続けて来ましたがこれ以上続けられず解散しました。後を継ぐ者も居ないので、年金暮しになりました。時々原爆体験を戦争の知らない人達に語りついで居ります。負傷した人々死んで行った人々と共に同じ一ツの水筒の水を飲み合い乍ら生活した一週間、原爆が投下された時爆心地二キロメートル以外で被爆したと云うだけで入市被爆者と決められ、病気故に今迄に一〇数回の手術をしました。其の度毎にケロイドになり胸一帯がケロイド他人には見せられない身体、被爆者に多い「癌」自分も何時か「癌」になるのでは?と不安と斗って生きて居ります。原爆投下後の一週間は何だったろう。ボロボロになった赤ちゃんを抱いて…私の胸で死んで行った多くの子供達。原爆と知らずに苦しみ乍ら「兵隊さん、仇をとって…」と言って死んで逝った人達。国をにくみます。戦争をにくみます。そして原爆をにくみます。同じ被爆者であり乍ら何故一号だ二号だと決めるのだろう。
私達の此の苦しみは誰にもわからないのです。被爆者の苦しみを知っているのは被爆者だけ。 以上
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