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被爆について思うこと 
朝比奈 隆(あさひな たかし) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立中学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日、広島市立中学校二年一組の行動は「追悼」「被爆五十年を生きて」(両冊共国会図書館、広島県全高校図書館収蔵)「亡き友はいずこ」(ヒロシマはどう記録されたか、NHK出版編)に記録されている為、紙面の都合で省略する。

本川、元安川での死体収容作業について市民は殆ど従事していない。

私は数少ない体験者として報告をする。

八月八日私は中深川小学校へ避難していた。汽車で矢賀駅下車、昼頃中広町の学校に到着、教師生徒一五名位登校していた。殆ど校庭の死体は収容されていたが、私は教師一名(日賀多先生)稲積事務員の死体を教員室跡から掘り出し収容した。上級者が調達してきた大八車で同級生寺木浩司と二人、一、二年生の三百数十名が作業中であった小網町に出かけた。

一片の骨も発見出来ず二年生久野瀬君の服の一片(数ヶ月後遺族にとゞける)弁当箱二ケ(市中慰霊碑に埋葬)拾って帰校、明日は川を捜索することになる。

八月九日、午前中相生橋より、本川、元安川を捜索、男女の区別が出来ない程死体はコゲ茶色パンパンに腫れ、眼球、舌は五センチメートル位突き出ている。内臓のとび出しているものもある。中学生らしい死体は見当たらず、兵隊のように見える。相生橋より二〇〇メートル上流に陸軍病院、師団司令部があり、その人達ではないか。爆風の方向から吹き飛ばされて川に落ちたのではなく、即死の状態で川に跳び込んだものと推測される。宇品駐屯の暁部隊、江田島幸の浦陸軍海上特別攻撃隊の上陸用舟艇の人達が川に浮く死体をサオで押すとくるくる回って陸上の救援隊(原村駐屯総武軍団)が引き上げ山積にして松根油をかけて荼毘にした。私はこの中に学友はいないか、二日間この作業をつゞけた。

一〇日頭痛がひどく歩行も困難な程疲労して母の生家に帰り、六ケ月療養をしたのである。典型的な原爆症初期症状であった。

サイパン放送の傍受(被爆五十周年千葉県原爆体験集より)

船舶特幹二期生の記録「紅の血は燃えて」によると八月五日、船舶通信隊所属の山田候補生ほか数名が「明日高性能の新型爆弾を投下する」とのサイパン放送を傍受している。

日本政府は八月一〇日無差別残虐性爆弾は人類文化に対する罪悪であると米国に抗議をしている。原爆症認定裁判では政府は「戦時に於ける一般の犠牲」と主張をしている。国家は国民を守るべきである筈が、国民に多大な犠牲を強い残虐な死を一般の死といい何を守ろうとしているのであろうか。

被爆者健康手帳申請の質問で第一号(市内もしくは近郊)とあり近郊とは何キロか明確でない。私は五キロで被爆、学校へ帰る為市内に入った。第二号として申請したが第一号が正しいと現在は考えている。当時政府としても距離について考慮がなかったのではないか。
  

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