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被爆について思うこと 
井本 重子(いもと しげこ) 
性別 女性  被爆時年齢 25歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島市松原町 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は広島駅近くの松原町で被爆しました。空襲警報解除になった。一点雲のない青空になったので、体調を崩して休んでいた夫の布団を二階のベランダに干しに上がり降りた直後廊下の天窓から、ピカッと光る物を見た。部屋にいた義母、夫は無事だった。他の部屋を見廻ったら、隣家の壁が内の方へ倒れかかっていた。寝ていた夫は、元気を出して御神殿の重要な品々を出させて頂いた。平素空襲があったら二葉山の近くの友人宅へ避難させて頂く事に決めていた。取り敢えず、私は台所にあったヤカンに水を汲んで荷物を背負い、目の不自由な母と、ひと足先に避難しました。途中、水を欲しがる人に与えました。夕方までに弟妹三人は帰ってきました。一番下の妹は夜になっても、次の日も帰ってきませんでした。夜山から市内を見ると、火の海で真赤な空でした。友人宅で二日程お世話になり、横川の方へ向った。途中あちこちらに死体があったり、所々焼け跡はくすぶっていた。まだ燃えている所もあった。横川駅の市電の中も乗り合わせた人々の死体が折り重なっていた。この惨状を見て我に返り、自分は生きさせて頂いている有難さ、何とも云えない悲しみ、悔し涙が出て止まらない。己斐まで漸く辿り着いた。宮島行きの電車が走っていたので、廿日市の親戚を頼って行く事が出来た。毎日焼け跡の家の床下に埋めた物を掘り出し、使える物は持って廿日市へ行く状態が続きました。しばらくして、私は下痢が続いた。夫は黄疸になった。おかげ様で快復させて頂いた。義妹の消息をあちらこちら尋ねましたが、わかりませんでした。現在私達は被爆死された犠牲者の御霊さまの眠っているお土地で平和に生活させて頂いている事は勿体ない事です。

廃虚と化した広島で金光教信奉者は、一致団結して、昭和二一年から原爆の日に近い七月最終日曜日に原爆死没者慰霊祭を仕えさせて頂いている。今年六〇年を迎え爆心地に一番近かった教会家族の惨状を、スライド写真を元にしてお話を聴かせて頂いた。若者達はどの様に感じたでしょうか?最近は折鶴を焼かれたり八月六日六〇年の式典直前には「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」との碑文に傷つけた若者達、情けなく、憤りを感じます。

犠牲になられた御霊様のことは、ひと日も忘れることなく、世界の平和を築いてゆくことは、人類の未来への責務として、永久に御霊さまの慰霊の道として、軍備撤廃、核廃絶と、世界真の平和の実現いたしますよう日々祈願いたします。

毎月最終日曜日午前七時から公園内の清掃をさせて頂き、慰霊碑に心をこめてお礼とお祈りを捧げています。継続させて頂いていることは有難いことです。 

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