原爆投下時にいた場所と状況
長崎市稲佐町三丁目
自宅の家の中
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和二十年八月九日午前十一時五十八分、今は警戒警報は解除、私は生後二十七日目の赤ん坊真知子を抱っこしている。充分にオッパイを飲んだ赤ん坊は満足なのだろう眼を閉じたまゝにこにこ笑っている。この時キィーンと金属音の爆音が西の方から聞えてきた。アッB29だ!突然ピンクとも黄色ともつかぬ無気味な光が隣家の白壁を射した。そのあとすぐに凄い強風が翔んできた。私は反射的に赤ん坊を体と両手でかばいながらその場に伏せた。障子がとぶ、ガラスが破れる。バリバリチャリン…家の中はまっ暗くなる。ただ恐怖のドン底である。閉じた目をそおっと開いたが視界はゼロ。あゝどうしよう、あの異様な光で視力を失った…と思った。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
私はお産後二十七日の被爆なのであった。すっかり出血を止まってやれやれ何とか元の体に返ったと安心していた。所が隣組の稲佐山防空壕へ被難した時また急に出血が始った。トイレもない防空壕で立ち上ることも出来ず大変困った。それともう一つ赤ん坊のおむつが洗濯して干していたのが強風でどこへ飛んだか熱線でやけたか一枚も形を残したものはなかったので赤ん坊のおむつに困った。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
今日は八十三才の高令者ですが、被爆者の手当など受けて近親者の世話になって過しています。
訴えたいことは世界中に核をなくしてほしいことです。
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