爆心地より一・五キロ地点にて被爆。当時、四才一ヶ月。
原爆投下時、母は台所にしゃがんで洗濯。一才八ヶ月の妹は台所で水遊び。私と一三才の姉は、まだ布団の中で寝ていた。市女の生徒だった姉は、頭痛でこの日の建物疎開の勤労を休んでいた。
八月の暑い時に、二人共頭から布団を被って寝ていた。空っぽの桐ダンス、吊っていたかやのお陰で助かる。母にひきずり起こされた。その顔は、頭の方から流れる血で真赤。その顔を恐ろしいと思うより、切羽詰った母の態度に、何か大変なことがおこったことを察した。我家は、柱が押しつぶされてなかったので、胸をえぐられ、血でぐっしょりの近所の方が、赤ちゃんを抱いて逃げて来られた。その後、何も分からぬまま、母に手をとられ、枝やがれきが、ぐちゃぐちゃに織りなす中を飛ぶように走って、避難した。
呻き声が聞こえた様な・・。壊れた建物の間から足を見たような・・。何が何だか分らない状態のまま、親に迷惑をかけたらいけないと、文字どおり、飛ぶがごとく、必死でついて行った。
やがて、京橋川に下りた。干潮だったのだろう。川原で、山本さんと言う人と逢った。その方は、親におき去りにされた七~八才の男子と、五~六才の女子を連れておられた。岸に腰かけている男の子のうしろに火の手が見えた。胸に穴のあいた、おばさんは赤児を抱いて、通りがかったボートにしがみついて、どこかへ。
その川原で、母と姉は荷物を少なくする為、不要品を捨てていた。その中には、色とりどりの鮮やかな糸の類が、場ちがいな美しさで、散り落ちた。モノクロの体験の中で、母の顔の血と、この捨てられた糸が、悲しい色で脳裏にやきついている。
その時、横腹にガラスでの切傷をうけ、出血が続いていた妹は(一才八ヶ月)、もう死んでいるから、川において行こうかと迷った母に、一三才の姉は、「死んでいてもいい。自分が抱いていく」と言って、泣きながら、妹を離さなかった。
比治山に避難しようと、京橋を渡っていた我家四人は、その日、東洋工業(現マツダ)に学徒動員で出ていた長女とぱったり出逢った。その後、五人は比治山で何日かを過ごす。比治山では、子供くらいに小さくなった、焼けこげた遺体を五衛門風呂の中に見た。そこで配られたぶんどう御飯のおにぎりは、腐敗臭で食べられなかった。市街地の火災がおさまって、やけ跡の我家で、母がタイルや焼け残りの品を見て、あれやこれや話していた。
空襲警報が鳴り、疎開する度、私達の衣類を持って、守ってくれようとしていた祖父と独身のおばは、私達の住居より少し離れた家で、帰らぬ人となった。
以上が、四才一ヶ月で被爆した体験記です。
平成七年十月二十九日
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