原爆投下時にいた場所と状況
長崎市飽ノ浦町
三菱長崎造船所の敷地の一角で海の見える小高い所でした
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
真赤な閃光を全身に浴び、目に入る物すべて真赤でもうこれで発火点に達して火をふくのではと思った瞬間、真暗になり咄嗟に身を伏せました。人の声は勿論、工場の音も船の音も全く聞こえず、不気味な静寂が数秒続き、熱い熱い爆風が又数秒続き、助かったんだとあたりを見廻すと、重い金庫も机も吹き飛び、窓枠ごとねじりまがり、ガラスの破片が二センチメートル位にわれ床に積もっている状態で、よくこれでケガをしなかったものだと思いました。この間、原爆の爆発音等全く聞こえず、誰も喋らず防空壕の方に急ぎ歩きました。もうこの頃、母も弟も亡くなっていたのです。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後暫くは焼け跡の小屋に住んでいましたが、終戦になり、そうもいかなくなり、父の郷里の叔父のところや伯母の所等を転々としましたが、食糧難の折どこに行っても肩身のせまい思いをしました。二ヶ月位で又長崎に戻りましたが、母親の居ない家庭は寂しく、隣組だの物資の配給など差別されて、つらい思いをしました。
私も姉も兄も近年次ぎつぎとガンになり、三人共手術をし、姉は九四年八月亡くなりました。
五年前、長崎に行ってみましたが、私の記憶にあった浦上あたりの街並は全くなく、ただ原爆資料館に父の作品(?)がアルコール漬(?)になって陳列してあったのが、父は亡くなっても世の中にいつまでも残るんだと思いました。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
被爆後、来年で五〇年、五〇年忌の法要も終りました。残りの人生を今迄どおり一生懸命生きていくつもりですが、二度のガン手術で、阿佐谷の我が家近くより出かける体力もないので、被爆者援護法の運動などすべて東友会や光友会の方々にお願いいたします。
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