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未来への伝言 被爆の体験と証言 
大槻 光雄(おおつき みつお) 
性別 男性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市舟入幸町[現:広島市中区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市舟入幸町
爆心地より一・三キロメートル
(昭和二十七、八年頃市役所確認。原爆手帳もその通り記載)
三軒長屋(二階建)全壊下敷

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
(イ)当日朝警報解除となってホットしていた時の被弾。主婦は湯衣で裏庭で洗濯。子供は外へ飛び出していたのが多い。従って女、子供に熱線による火傷が多く、家の下敷になったのも女、子が多い。

(ロ)安心していただけに火元の消し忘れが多く火事の原因となっていた。

(ハ)火の手に追れて風下に逃げた人ほど亡くなった人が多い。

(ニ)被爆者の状況は手脚のもがれた人、ひどい火傷の人、手の先まで皮がズルムケとなりその皮が手の先からたれ下っている
(ゾーキンをぶらさげたよう)死せる子を抱いてひどい火傷の若い母が狂ってさまよっている…等正に地獄でした。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
(光雄)当日の夜一晩中ひどい下痢に悩まされた。

八月末頃小さい傷から化膿して高熱がつゞいた(白血球減少)

十年位してひどい■痰に悩まされた。( 〃 )

二十年位して喘息症状が突然おこって約六ヶ月苦しんだ。

七十二才の時脳梗塞になり、現在左半身マヒ。


(展子)被災后一週間位ひどい下痢(約一週間)

二十年位して胃かいよう(白血球減少)

現在も顔・腕にガラス破片が入っている。

(生郎)十年位の間は時々ひどい倦怠感におそわれた。又直后と半年位歯茎等に出血はあった。

生活は幸い職場がしっかりしていたので最低の生活は出来た。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
被災后広島で職場(支店)の再建に、又その后他店への転勤等仕事と、家族を養うのに一生懸命。幸いそれに耐える健康状況で(上記の病気等ものりきって)頑張ってきました。それに被爆者ということはなるべく秘していました。しかし毎年八月になると思い出し職場や身近な者には語り書いてきました。七十二才で病に倒れほどなく東友会の存在を知りお世話になっています。

年々被爆者は減少しているのである。状況はなるべく伝えて行きたいと思います。原爆症という状況がいつおこるか判らない我々に国として何かもっと手を差しのべてほしいと思います。

四 別紙
被災后同年末までの行動要約

八月六日、負傷した妊娠七ヶ月の妻の手を引いて江波へ逃げ、軍の病院で簡単な治療をうけ、夜は近くの江波山で野宿。

八月七日、舟入幸町の自宅跡に引きかえして焼け残った物の整理して野宿。

八月八日、妻の体調が悪いので休養、野宿。

八月九日、宮島口に居られる友人(戦地)の母上からかねて「戦災に会ったら来なさい」と云われていたので、そこに行くべく、自宅跡から橋のこわれていない処を捜して己斐に出た。折よく開通したばかりの貨物列車に便乗して、宮島口へ、駅前の学友(本人は病臥中)宅で大八車を借り、妻をのせて友人の留守宅へ。

八月十日、妻を預けて私は広島へ出て、職場の焼跡に行き、焼け残った金庫の壁に書かれていたことで同僚の若干の消息を知ったが、誰にも会えず、更に市内の心当りの処を探し歩いてゐる時、偶然職場の女子事務員に会いお互の無事をよろこび、泉邸近くの同人家族の野宿先に泊めてもらった。その夜は近くの死体置場からの死臭に悩まされたことも忘れられない。

八月十一日、職場の仮事務所(日本銀行支店の焼跡)に行き、生き残った同僚と会った。その日より同僚の仮宿所(海江田)に泊ったり、妻の居る宮島口に泊ったりして居た。

八月二十日、妻が四、五日前よりひどい下痢(後で判ったが原爆症状の一種)で苦しんでいたのを伝染病と誤解されて白い目でみられたのでやむなくそこを出て、義姉の疎開先に行くことにした。しかし義姉は被災前約一週間位前にそこに行ったばかりで、詳しい住所も判らないがそこしかないのでとにかく己斐より横川に行きそこより電車で可部に出て、別の汽車に乗りかえ、毛木の駅についた。それから尋ね尋ねして山路を歩き川を越えてやっと義姉の処に辿りついた。義姉も幼い子供三人を抱えて一間に居るので近くの農家の部屋を借りてもらった。途中で己斐で一泊したのでやっと落ついたのは宮島口を出てから丸一日即八月二十一日の夜であった。

八月二十二日、私は妻をその農家に留め義姉にたのんで広島に引きかへして職場に復帰した。その后は出産の近い妻が気になるので時々毛木に通ったが九月の初、大暴風雨で汽車、電車が不通の時は二十粁米位の山越えで通ったこともあった。その時の足の靴ずれが化膿して高熱で七日位寝込んだこともあった。

十一月十二日、長男誕生、丁度私は毛木に帰って居たが、夜、山越への産婆を迎へに下宿先の主人が行ってくれたことはうれしく忘れられなかった。(私では夜の山路は判らなく且けわしい山路で馴れない人は危険ということでした)その后、全て順調であったが。

十二月二十五日、私がその土地の慣例を破ったこと(食用の小川と洗濯用の小川とを間違えたことは村の人には耐えきれないこと)で直ちに村からの退去を求められた。しかし頼みこんで一晩だけ待ってもらった。

十二月二十六日、早朝、生后一ヶ月余の赤児を抱いて毛木より広島に戻り、取敢えず同僚の居る海江田に行き、同僚達が探してくれた農家の蚕部屋に入れてもらった。二階の広い部屋で隙間風が寒むかったことは忘れられない。その后、同僚達の仮宿所が五日市の方へ移転することになったのでその後に入れてもらって、殆ど着のみ着まゝでふとんもボロボロながら一応親子三人が肩寄せ合って年末を迎へた。しかしその家は農家の納屋を小作人が住めるようにしたもので、壁は荒土で隙間が多く風は勿論雨も雪も吹き込み、月の光りも差し込むという状況で、又便所は肥溜の上に板が二枚渡してあるだけでした。お風呂は主屋(おもや)の農家のもらい風呂でしたから、農家の人が全部入ってからで風呂水は泥だらけでしたが止むなく生后一ヶ月余の赤児も入れていました。

地獄とはあの日のことか原爆忌

原爆に焼けむけし皮膚雑巾(ぼろ)如

原爆死遺骨重ねし白き山

被爆者の癒えぬ傷跡原爆忌
  

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