原爆投下時にいた場所と状況
広島市千田町一丁目
日赤病院中央一階病棟
看護婦実習生として勤務中
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
広島日本赤十字病院中央一階病棟の廊下に居ました。ピカッと閃光がした後ドーンという轟音と共に周りは薄暗くなり、呆然と立っていた私の耳に助けて下さい助けて下さいと云う悲痛な叫び声に我にかえって目にした光景は余りにも変り果て崩壊した地獄の中に居る様な院内の様子でした。すべての物は壊れ飛びベッドや窓に首をはさまれ血と埃りにまみれた無数の患者さんや看護婦達の息たえだえの姿でした。其の後数十分もしない内に、病院目がけて市中で被爆した人達が何百何千人と、無言のまゝ髪は焼け爛れ着物はぼろぼろで両手は皮がたれ下った変り果てた亡霊の様な人達が押寄せて、治療をして下さい、水を下さいと玄関からホール二階の階段迄足の踏み場も無い位一ぱいになり此の人達を何んとか働ける医師看護婦、歩ける患者(軍人)一体となって日夜寝食を忘れて救護に当りました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆二週間、一時帰郷が許され故里九州に帰り着きましたが、心身共に疲れ果て其の後下痢が続いたり身体がだるく、ぶらぶらと数ヶ月してやうやう元気を取りもどしました。昭和二十二年結婚し翌年男子を出産しましたが、三日後原因不明で呼吸困難を興し其のまゝ他界しました。此れも被爆した母親が原因ではと悩みました。又其の後生れた長女も小さい時から元気が無く何時もじっとしていて運動が嫌いで活動的ではありませんでした。成人して血液検査の結果C型肝炎との事で現在に到っています。被爆した私共は死んでも核の恐しさから逃れられないのです。子供や孫の健康は自分以上に心配です。私自身も四十代で呼吸器疾患で苦しみ実社会で働きたい気持で一ぱいでしたが、疲れ易くて胃腸と胸の後遺症で慢性咽喉炎があり、現在は腰痛もあり困まっています。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
美しい大都会と化した広島、長崎に四十九年前あの様な恐しい人類史上最大の悲劇があった事実は外見からは何も感じられませんが、今だに原爆症で多くの入院患者さんと後をたゝぬ癌で亡くなる多くの被爆者が苦しんでいる現実に目を向けて、二度と此の様な悲劇がおきない様、(世界)平和の為に核廃絶を訴え続けて行く事の重大さを痛感させられます。死ぬ迄原爆症に脅えて生きて行かねばなりません。此の事が一般被災者とは違うのではないでせうか。一人一人が援護法を勝ち取る迄力を合せて頑張りませう。
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