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未来への伝言 被爆の体験と証言 
猪原 正廣(いはら まさひろ) 
性別 男性  被爆時年齢 27歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊)(広島市皆実町一丁目[現:広島市南区]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市皆実町
船舶通信隊
前夜の演習のため第三中隊全員朝礼ナシで全員夫々の室にて就寝中で斉藤大尉(中隊長)一人点呼出場

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
原爆当日は明治に建てた旧兵舎の二階北側の個室に寝てゐて南側の部隊本部方向が爆発地点で約一・八キロメートルで建物は屋根瓦が飛散土居葺の赤土が真黒に成り落下し鼻の穴が土ほこりで苦しく二階の個室から北側の庭へ飛んで降りて早速防火用水に着服のまゝ飛び込み塵芥を落し一階で建物が壊れた下敷に成った兵隊を助け出す作業と負傷した兵隊の救出及毎に死亡して行く兵及民間人の火葬の毎日でした。比治山の下に仮兵舎を建てゝ残務整理で十一月頃復員しました。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
当時、外傷は無く頭髪や眉毛が毎にぽろぽろと抜けて来ましたが、復員后三年目に鹿島建設に入社して設計の仕事をしてゐて朝は血圧が降り寒く酒を飲んで何んとか仕事をつづけてゐましたが昭和二十六年日赤にて検療をして白血球が二万~三万単位に増か赤血球が四百~三百単位に降下してゐる事が判ったが薬も判らず、毎に酒を飲んで元気を取戻す様に医者が(塩崎診療所)進め酒で血を洗った次第。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
二度と戦争無き様、国民及び国家の存在を世界にアピールすべきである。

国同志の争いはすべて外交で処理すべきであり、軍隊を動員する事は人民の不名誉であり、断じて避けるべきである。

  

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