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岡部昌生様 
今田 隆子(いまだ たかこ) 
性別 女性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1996年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
岡部昌生様

前略、突然にお手紙を差し上げます。

八月十二日広島市現代美術館で行なわれた公開シンポジウム「ヒロシマ・メモワール五一年目の夏」にて、岡部さんにはじめておめもじした者でございます。お話を聞きましたその時は胸が熱くなり涙があふれそうになりました。

私は六歳の夏に広島駅近くの木造平家建の家内で被爆を致しましたので、川本氏の言われた〇・三秒の光線はまぬがれています。

女学生時代の友達にこの〇・三秒の光線を浴びた方がいました。その方は濃い褐色の肌色でありましたが、その当時は気付きませんでした。その方は左側から光線を浴びられたらしく、左腕のズルリとむけた皮膚が肘の部分で小さな丘をつくっているケロイドがありました。その頃の私は、この方は生まれ付き褐色の肌色の持主なのかしら?それにしては、濃淡のまだらな模様になっていると記憶に留どまっていました。

放射能障害のことを知るようになり、あの〇・三秒の光線による皮膚の変色であったと、今では確信を持って認識致しております。

私は仕事の都合で一九六三年に広島から大阪に行きましたので、クラス会も欠席していましたので、その方のことは忘れていました。

それを思い出させて呉れたのは、黒色のフロッタージュが円垂形に張りめぐらされた空間の中心から頭上部へ赤色のフロッタージュのあった、あの空間の中で―― 色々のことが思い出されて胸が熱くなったのでございます。赤色のフロッタージュは〇・三秒で息絶えた方々の声にならなかった叫び声のように感じられました。

私は一九九四年八月に広島日赤原爆病院で乳癌の手術を受けましてからは故郷にて暮らしています。私は岡部さんにお願いがありましてペンを取りました。

岡部さんのお話を聞きました後、そばにある原子野をイメージした庭の作品の前で、ボンヤリと一時間も座っていました。

大阪在住中は同人誌に細々と「私の中のヒロシマ」を詩に書いていましたが、一九八六年四月二十六日午前一時二十三分のチェルノブイリ原子力発電所事故の記事で「ヒロシマ」の五百倍の放射能汚染と知りましてから、「私の中のヒロシマ」の詩が書けなくなりました。

そして今年、私はチェルノブイリ十年目の記事を読む内に「あの日から十年目のヒロシマ」とよく似ている現象に気付きました。

それは被爆者ではなくて、身内や親類の方々を探して原子爆弾投下直後の被爆地を歩いた方々や、戦時下でしたから、急速に被爆者の死者の後仕末をされた兵士達が内臓の癌で次々とアッと言う間に骨と皮になられて、発病後、三ヶ月くらいで亡くなられていったのでございます。

私も私自身が一日でも長く生きていたいと願い、子供を産むことをあきらめました。

チェルノブイリやセミパラチンスクの若き方々が結婚や子供を産むことをあきらめたり、放射能障害によって、身心共に不安定な心理状態の中で日常生活を営んでいらっしゃることでしょう。

私のような子供でも、直感で、放射能障害におびえて暮らしていました。

子供達の甲状腺癌の手術を受けている映像を視ますと、あの息苦しかった日々が思い出されてきます。

八月二十日に広島市立中央図書館で《原民喜の夏の花》の読書会がありまして、講師(広島大学大学院生)のウルシュラ・スティチェックさん(女性、ポーランド出身、ワルシャワ日本語学校講師を経て広島大学に留学されている方)もチェルノブイリ事故の放射能障害で母上が甲状腺癌になられて、亡くなられたと話された後に、『私は今、平和という言葉に変わる言葉を見付けようと考えています』とおっしゃいました。

私は「あの日のヒロシマ」は今でも昨日の出来事なのでございます。

「あの日のヒロシマ」を思い出すと、軽い吐気に見舞われて、気持が悪くなって、身心共に正常に戻りますのに、時間が掛ります。

会場では胸が一ぱいで私の気持をすぐにお伝えできませんでした。

セミパラチンスクやチェルノブイリでヒバクした方々に、広島の子供達に二十一世紀への夢をあたえられたように、語り伝える勇気と二十一世紀への希望をあたえてあげて下さいませんでしょうか。

「あの日のヒロシマ」で直爆で死んでいた方がよかったかも知れんと口走るヒバクシャの方々が多数おられました。

真綿で首を締めつけられているような息苦しさの中の日常生活の時間の流れ……重たいです。

ヒバクシャは南太平洋諸島にも……

私は芸術の力を信じています。

芸術は心の傷を癒やして呉れます。

路傍の石も人間の脂の匂いがしていました。

庭で身内や親類のひとたちを火葬しました。

兵士達は戦時下ですから手早くあちらこちらで被爆死者たちを薪を積み重ねたようにしてガソリンを掛けて燃やしました。

火葬にして貰ったひとはよい方で、そのまま土の中に埋められていました。

半死状態の人間の肉が腐敗する匂いを、私は忘れることが出来ません。

時に何かの折に、思い出しては気分が悪くなります。

市電に乗っておりましても、ここに路面電車が横転していたなどと思い出してしまいます。

日常生活に「あの日のヒロシマ」の原風景をみる暮らしでございます故に、私は死ぬ日まで、「あの日のヒロシマ」は昨日の出来事であり続けることでしょう。

ひとりのヒロシマのヒバクシャの願いを聞いて下さいませ。

よろしくお願い申し上げます。

一九九六年九月一日 記

今田隆子
  

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