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私の体験記 
大友 繁利(おおとも しげとし) 
性別 男性  被爆時年齢 4歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所  
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一九四五年八月六日の朝、広島で被爆した時の私はその二週間ほど前に四才になったばかりでした。

あれから七〇年を経てすっかりお爺さんになりました。

一発の原子爆弾によって一瞬にして全てが破壊され、荒廃した広島の街は、その後信じられないスピードで復興し、今では戦争を知らない人の方が多くなりました。

まるで、昔話の浦島太郎のような感があります。

私は宮城県仙台市で六人兄姉の末っ子として生まれました。

母親のお腹の中に居た時の親同士の約束により生後八ケ月になるのを待って、子供のいない広島の親戚へ貰われました。そして大切に育てられたようです。

ところが、三才になってすぐ、それ迄慈しんでくれた母親が突然病気で亡くなってしまいました。

当時、京橋町九五番地に自宅があり和菓子屋を営んでいた両親は、少し離れた銀山町の一角で「美松」という喫茶店も営んで居ましたが、父親は兵隊として戦地の中国大陸へ行ったり、戻ったりと大変な生活だったそうです。

そんな時期に母親が急死したものだから困った父親は母親の従姉妹と再婚しました。その後は新しい母が私の面倒をみてくれていました。

自宅と喫茶店との間に在ったお風呂屋さん(銭湯)の息子と仲良しで、毎日の様に三輪車で行っては一緒に遊んでいたようです。
八月六日のあの原爆投下の朝も、そのお風呂屋さんで友達と三人で遊んでいました。

朝なので銭湯は開いていません。お客さんの居ない大きな浴槽は湯を抜いているのでビー玉転がしをするにはもってこいの遊び場だったのです。

あの運命の八時一五分何が起こったのか全くわかりませんでしたが、気がついた時は崩れ落ちていた建屋の屋根の上をはだしで歩いて出て行ったことを僅かに覚えています。その為か踵部分には怪我をしていたようです。

この場所は、爆心地からは東へ約一・一キロメートル位の近距離です。

原子爆弾の爆発に依りものすごい爆風が起こり、同時に強烈な熱線によって、多くの人々が焼かれ亡くなりました。爆心地から半径二キロメートルまでの地域では、木造家屋はほとんどが倒壊した上に火事が起こり失なわれたといいます。

そのような状況のなかで火傷もせず、かすり傷程度で生きていたのは本当に奇蹟的だったと思いますが、風呂屋の厚い壁と浴槽の分厚い壁に囲まれた中に居たことで護られたのではないかと思われます。

本当に幸運でした。そして、幸運は重なり、偶然そこを通りかかった男性に助けを求めたそうです。

…「おじちゃん、おっぱして~」と。

その男性の仕事は軍隊の関係で、滋賀県米原から広島へ来ていた人だったそうです。

結局、彼は三人の男の子を連れて米原迄帰ることになりました。

その日列車は市内の広島駅まで入ることが出来ず、二つ手前の駅(海田市駅)でストップしていた為に、あの惨状の中を跣で歩いたのだろう思われます。

海田市駅へ着いた時、腹を空かせた私達を階段に坐らせて、自分の持っていた焼きおにぎりを食べさせてくれました。その美味しかったことといったら!今でもよく覚えています。

しかし、その後の私の記憶はある期間ほとんど無くなっています…。

これは後にその男性から聞いた話ですが…米原では彼の家族から良くしてもらっていたようですが、その後何日間かの間に一緒に居た友達は、原爆症のためか二人共次々に亡くなったそうです。残された私もショック状態だったのか、その頃は自分の名前すら忘れていたそうです。

ある日のこと、やっと自分を取り戻したのか突然に「広島市京橋町九五番地、大友繁春長男、大友しげとし」と、住所、氏名を言ったそうです。

その住所を頼りに、その男性は私を再び広島へ連れて帰ってくれたのです。

ところが自宅跡には母の居る場所を示す立て札が一本建っていただけでした。

彼は私を連れてもう一度列車に乗り込みました。

あの日、広島を離れて遠い滋賀県は米原へ…。

そして再び広島へ戻り、長い長い旅の果てにようやく母に再会することが出来ました。

母が身を寄せていたのは呉市に在る母の実家だったのです。

呉市と広島市との距離は約三〇キロメートルあり、現在JR利用して四五分程かかりますが、当時は一時間半ぐらいかかったと思います。

男性に連れられて母の元へ帰ったその日は、何と死んだものと諦められた私の為に行なわれた四十九日忌の法要が終り、お坊さんがお帰りになった直後だったとのことでした。

その時、玄関へ応対に出て来た母は、私の姿を見てひどく驚いた様子でしばらく腰が抜けた如く黙ったまま坐り込んで居ましたが、「おかあさん…」と声をかけたらやっと抱いてくれました…。

その時の様子はかすかに覚えて居ます。

そして、私は母と共に、呉市の母の家族に囲まれて、父が戦地から帰って来るのを待つことになりました。

さて、この期間の母はどうだったのかと言えば、八月六日の朝はたまたま呉市の実家に行っていたので、原爆投下の瞬間を知りません。

「広島が大変なことになったらしい」という知らせを聞き、慌てて呉から広島へ戻ったそうですが、列車は海田市駅で止まり、止むなく歩いて市内へ向かったのですが、そこで見た光景はこの世のものとは思えず、焼けただれた沢山の人達が「水…水…」と言い乍ら市内から列をなして歩いて来るのとすれ違って行くので「広島の人達は皆気が違ってしまったんだろうか…」と恐くなったと言っていました。

それから二週間余り、毎日毎日呉市から広島へ通い、まるで地獄絵図の如き廃虚と化した市街地を歩き回りました。毎日の様に息子が遊んでいた風呂屋の前で、息子愛用の三輪車が熱線で溶けているのを見つけただけで、あちらこちらの避難所や救護所もたずね歩けど、息子についての手掛かりは全く無く、とうとう「これ程さがしても、手掛かりも無いのだから、きっと死んだに違いない」ということになったそうです。

それで、私の為にお葬式をし、法事をしたのだという事でした。仏に成った私は、ある意味、四九日間で「あの世」まで旅をして来たのかも…。

あの真夏の暑さの中でさがし歩いてくれた母は大変だったでしょう。あの頃は食べる物も少なくなっていた為に、朝出かける時に持って出たお弁当の中身はほとんどカボチャだったとか。それが暑さのために腐ってしまい、お昼になって食べようと開けた時にはヌルヌル糸を引き食べられない日が多かったと話していました。

母は当時二五才で元気だったのに、その後は心臓が悪くなって日常の生活でも苦しさを訴えていました。
原爆投下のその日から市内に入り二週間以上も居たことで、汚染された空気を吸い、物に触れたりした為に知らぬ間に放射線の影響を強く受けたものと思われます。

その様な後遺症に向き合いながらも母は本当に一生懸命生きて、一九七八年(昭和五三年)秋に五七才でこの世を去りました。
私も小学校を卒業する前迄、毎日の様に下痢が続き、母には随分世話をかけました。又、ほんのかすり傷でも化膿しやすく治り難く、その状態は四〇才近くなっても続いていました。その上、七〇才を超えた三年前には胃癌も体験しました。

父親の知人で三〇才頃に被爆した方は、何と三三年間も下痢が続いていたという話も聞いています。

通算八年という長い間、戦争という体験をした父親が家族の元へ帰って来たのは終戦後一年も過ぎた一九四六年(昭和二一年)夏のこと。三七才に成っていました。

帰って来たものの、自宅も喫茶店も自分の築き上げてきた物は全て無くなっていました。それを目にした父親の喪失感がどれ程のものであったか!
父はそれをバネにして、その後の暮らしや仕事を頑張って家族を護ってくれたことと思います。

しかし、父も又、長い期間戦争のダメージに苦しんでいるのを見ていました。

戦地でマラリヤに罹った身体は時折突然高熱を出したり、就寝中に大声を発したり、戦争の恐怖と闘っていたと思われます。
そんな戦争体験についてはほとんど語らなかった父から唯一聴いたのは、腕と脚に弾丸を受けて大怪我をした時に、敵国である中国の山奥に在るお寺へ逃げ込み、仙人の如きお坊さんに助けられたという話でした。

今にして感じるのは、父も私も丁度同じ頃、極限の中で同じように人に救けて貰い、多くの人の愛を受けて生き抜く体験をしていたのですね。

誠に感謝しかありません。

もしも、あの戦争や原爆投下が無かったなら、あの自宅の在った場所で友達と楽しい子供時代を過ごし、何より家族は健康でやりたい事が出来たでしょう。

成人した私は父の喫茶店を大きくしてマスターとして楽しく仕事をしていたのかも…。

戦争は私達から日常の暮らしを奪い、友人や家族を奪い、健康さえ奪い、生き方全てを変えざるを得ません!マイナスこそあれ、プラスを生み出すことは無いのです。

日本へ帰った父親はその後、国有鉄道に就職し、広島を離れて山口県光市で仕事をし、私が一〇才に成った頃に転勤で広島へ戻りました。

明治の頃に生まれ、大正・昭和という時代を、家族の為に懸命に生きた父は、昭和の終りの一九八七年に七六才でその旅を終えました。

私も今、その父の年令に近づき、日々更新しつゝ旅が続いています。

戦争を知らない戦後生まれの妻との旅も間もなく五〇年近くなりました。

その間に三人の子供の親となり、昨年(二〇一五年)秋には四人目の孫も誕生し、人並みの歓びを味わう事が出来、本当に幸せな時間を過ごして居ます。

生命をつないでいくというのは素晴らしいことだと思います。生き残った私の使命と感謝を伝えて行こうと思っています。

あの原爆投下の日に普段通りに学校へ行き、又、色んな作業をする為に市内に居た子供や一〇代の学生達が、実に六〇〇〇人以上死んだそうです。

その家族、父、母がどんなに辛く悲しかった事か!

深い心の傷は生きている間ずっと癒えることは無かったでしょう。

私の母も私が生きて目の前に現れる迄の数十日の間はまるで地獄のようで、自分を責め、戦地から父が帰った時に、どの様に報告したら良いものか…と、とても辛い毎日だったと言っていました。

その時の心の傷が反転し、その後私を育てて行く上で、二度と失ないたくないと思ってか危険な事はさせないという過保護になってしまい、時折り妻から笑われることもあります。

破壊されて無くなった家や物は新たに創造され、街は形を変えて復興しました。

しかし、人間の心の傷が癒えない限り本当の平和とは言えないでしょう。

私達は元々、両親の愛の中で生まれて来ました。

幼い頃から「もっと認められたい、もっともっと愛して貰いたい」と外側へ求め、その結果が兄弟姉妹間の嫉妬や争いを生み、家族中に影響を広げ、その反映として民族間の争いにまで波及していく!

全ては自分を護ろうとして、相手を悪いと責めて争っているのです。これではいつまでも争いの終ることはないでしょう。
そもそも地球は宇宙から観れば、ほんの小さな星なのです。

その小さい美しい地球に暮らす動植物を含め人類は皆一つの家族ではありませんか!

現在でも絶え間無く地球上のどこかで争いが続いていますが、それこそお互いの考え方を振りかざしている兄弟喧嘩の如しです。悲しいことですね。

私達は生きているだけで一〇〇パーセント素晴らしい存在なのです。その自分を認めて愛することが出来れば相手をも認めることが出来ます。

その為にも駄目だと思い込んでいる自分を許して解放しましょう。すると相手を許すことが出来るから。

そうやって「平和」を拡げて行って貰いたいと切に願います。

核戦争など以ての外です!

核の恐怖も人間の心の反映です。

人類初の被爆体験者として言いたいことは、子供や孫や、これから未来に生きる全ての人の前に在る美しい地球が、いつまでも豊かな愛に包まれて耀き続ける星であって欲しいという事です。

皆さんの叡智を一つにして実現致しましょう。

「本当の平和」を。

二〇一六年三月二一日

大友 繁利
  

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