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原爆の記録 
市原 富子(いちはら とみこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 新興ゴム(広島市舟入川口町[現:広島市中区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日原爆の落ちる朝、我が家(千田町三丁目)は父は商用で八丁堀の昔キリンビヤホール(今パルコ)の側の家で会合があり出かけました。母は家事、私は学徒動員で舟入川口町新興ゴム会社へ、弟昭弘は学徒動員で建物疎開へと一旦出かけましたが空襲警報のサイレンを聞き一次帰宅防空壕に避難、解除になって再び私と弟は出かけました。(雑魚場町の建物疎開に弟は)私は工場に着いて間もなくピカッと光ったと思う間もなく工場の建物は壊われ私も級(クラス)メートも下敷になりました。

ようやく這い出て見たら皆は血だらけで外に出ました。火災になりそれから江波へと皆で泣き乍ら逃げました。もう夢中でした。

辺りを見回すとあちこちから火が出て地獄絵でした。江波へようやく逃げても、アメリカの飛行機が低空で視察に来て何しろ江波の射的場で身を隠す処も無い状態で生きた心地はありませんでした。

夜はキューリ畑の中で身を細め級(クラス)メートと共に夜を明かしました。朝、友の親が探して来てくれる人もいましたが私には誰も来ません。友と天満橋住吉橋、明治橋と渡って途中焼野原。道には人が横になったまゝ亡き人に。橋の下に死体が又馬(当時は荷物を運ぶ馬車)も倒れて川を流れて目を覆う地獄絵図を見るような不安な気持一杯でした。住吉橋明治橋と渡って辺り一面焼野原で市役所も公会堂もなんにも焼野原。不安な気持で我が千田町三丁目へ帰ると家は焼け、母が一人貯炭場でいました。思わず抱きつき泣きました。又それから火が回って来るので側の山中女学校の校庭へと母と逃げ火がおさまるのを待ち、父と弟が帰ってないので夕方広陵中学(皆実町)の方へ探し歩いてたら貼り紙に岡崎昭弘の名前があり宇品の船舶練習部へ収容されてると書いてあったので歩いて宇品の端まで探しに行きました。そしたら船舶練習部の中には火傷を覆って体全体水ぶくれの状態で、ずらっと横たわってる姿、その中から昭ちゃん昭ちゃんと呼んで(皆さんの人相形態が変わってわからないので)そしたらとみちゃん(私の事を小さい頃から呼んでましたので)との声を聞き側へ行きました。後から光線を浴びて帽子をかぶってたので首から夏のこと故、半ズボンで体、足が水ぶくれの火傷で横たわっていました。

母と二人で側に十日迄ついてましたがとうとうスート息を引きとりました。その間家の防空壕に少し食糧をリュックに入れてましたので歩いて千田町まで焼跡に帰えり飯ごうでおかゆを作ってテクテク宇品の船舶練習部へと足を急がせましたら、スート頭の上を火の玉が飛び若しや弟が気にかゝり急ぎ足で着いておかゆを少し口に入れてやりました。間もなく其の夜にスート息を引取りましたが母と私の女手では弟をどうする事も出来ず毛布にくるまれ似の島へ埋葬されました。本当に可愛想な弟でした。その間父が八丁堀の出向いてた家で焼死したとその家の主人が私の父を火が早く回って助けられなかったと許して下さいとの事。私一人で八丁堀キリンビヤホール近くの焼跡から辺り一面焼野原でした。

ここにお宅のお父さんが座っておられたとの事で骨を紙に包んで涙をこぼし乍ら一人又弟の処へ行った悲しさは身に沁みます。そして其の夜弟は息を引きとりました。きっと父が歩いて私の頭の上で火の玉となって迎えに来たのかと思います。

翌日母と田舎能美町高田村へおばあちゃんの家へと宇品から船に乗りもう涙が出て出て弟の姿手も足も水ぶくれで(火傷で)腸は光線で下痢ばかり、本当に可愛な短い命の弟でした。似島へ弟が埋葬されてる共同墓地へもお参り行き、今では三滝に父と一緒に眠ってます。何しろお骨は似島へ埋葬でしたので丸坊主頭の毛を剃って爪を切ってそれが遺品でした。父は焼跡からお骨を紙に包んでもらって来ました。

私は原爆記念日の日平和公園へお詣りして冥福をお祈りして二度と戦争が起こらないようにと祈るばかりです。

市原
今迄思い出すと悲しくなり口を閉ざしてましたが後世のため書き残します。

追伸
八月十日弟が亡くなり母と二人、家が焼け住う処もないので父の故郷能美島高田へ船で行きました。私は暫くは原爆症か髪は抜け寝た状態でしたが少しづゝ快復しました。兄も復員(南のきかいが島)してあの当時の日々は憐れなものでした。

原爆投下当日の私の住いは
広島市千田町三丁目、 父、母、私、弟と四人で住まってました。

追伸
八月十日父弟が亡くなり父の故郷佐伯郡高田村へ宇品から船で祖母の家へ行きました。

父の弟四家族と母と私それは大家族です。叔父(三男)叔母は本川町で被爆し子供は助ける事が出来ず(火の回りが早かったとのこと)叔父、叔母二人で命からがら火傷を負ってやっと逃げ出したとのこと。十八日には、叔父、二十日に叔母と祖母の家で見守られ息を引きとりました。その時の光景は今も目に焼きついてます。体全体にガラスの破片がそこから夏のこと故うじがわき顔ははれ、叔母が手鏡を見てまるで豚のようと云った言葉が耳についてます。本当に地獄絵図です。今綴る中にも其の時の光景が目に浮かび涙が出ます。誤字が多く読みにくいかと存じますがお許下さい。
  

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