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多木和子の被爆記録 
多木 和子(おおき かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1994年 
被爆場所 広島市楠木町三丁目[現:広島市西区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 多木和子の被爆記録

申述書(被爆証明書に添付したもの)の一部です。
 
 
Q1 原子爆弾が落ちた時、何処にいましたか。
A1  楠木町3丁目(※自宅は白島九軒町)
目標 太田川が近い。宗徳中学(旧制)田村ゴム工場と煙突
 
Q2  何をしていましたか。
A2 学徒動員で工場敷地内の木造建築の屋内。飛行機の発動機の部品作り。
   (※爆心地より約1,5キロの地点)
 
Q3  誰かと一緒でしたか。
A3 氏名(内藤須磨子)、続柄(同組)、生死(不明)
   建物の下敷きになり気が付いて、最初に声をかけ合い、7日朝迄共に
逃げた。他同組何人か居たが火の手が上りその后不明。
 
Q4 屋外にいましたか、屋内にいましたか。
A4 屋内、木造(※工場内で作業中)
 
Q5 原子爆弾が落ちた時、どうなりましたか。
A5 ガラス窓の外にオレンジ色の閃光と凄まじい音と同時に真暗になり、埃か土の様な物が口に入り呼吸が出来ない位になった。「助けて!母ちゃ
ん!」とかの叫び声や呻き声が遠くに聞こえたが、その后記憶なし。
気が付くと空が少し見え、人の気配を感じ、手を動かしたら、人の手が
触れたので名前を叫び合った。その後、どの様にして太田川の土手に出
たのかわからない。
外傷=頭部、足の裂傷、腰部打撲。
 
 

詳細記述
 
8月6日(8時15分)
〇ガラス窓の外にオレンジ色の閃光と凄まじい音と同時に真っ暗になり、埃
  か土の様な物が口に入り呼吸が出来ない位になった。
〇「助けて!母ちゃん!」とかの叫び声や呻き声が遠くに聞こえたが、その
后記憶なし、気が付くと空が少し見え、人の気配を感じ、手を動かしたら、
人の手が触れたので名前を呼び合った。
〇その後どの様にして太田川の土手に出たのかわからない。
外傷=頭部、足の裂傷、腰部の打撲
〇太田川の土手を大芝公園の方向へ歩きはじめた。誰の指示でもなく皆が
行く方向がそうだった。
〇右が桜並木になっているが、左の建物は次々と燃えて、はじける音。道は
ケガ人、すでに死んでいる人、助けを求める人、前を歩いていた人もバタ
バタと倒れてゆく。
〇桜の木の下にはやっとそこ迄たどり着いた人、手を差し出して助けを叫ぶ
人・・・男女の見分けがつかない人達で一杯だった。
〇この頃 爆撃に会った?!! やけど?!! と気が付いてきた。
〇こうした中を腰を曲げて歩く(腰打撲のため)私と内藤さんは手をつないだ儘、無言で只歩いていた。
〇黒い石油の様な雨で白い制服のブラウスが汚れていた。誰かの「川へ入れ!」の叫び声で胸あたりまで川につかっていた。その時も川の中で何人も倒れた。魚が死んで流れていた。川は満潮時だった。
〇再び歩きはじめる。時々知人に会ったが会話はない。崇徳中学の生徒は泳いで長寿園に渡ったと知らされた。
〇大芝公園をすぎ橋を渡った。
〇救護所(テント)で、頭、顔、足のケガの手当を受けた。
〇新庄町に着いた。人々は北の方向へゾロゾロ歩いていたが、私たち二人はもう歩けなくなった。
〇日が暮れた。家は傾いていたが家人に「どうぞ」と云われ家の中に入り水と下駄を貰った。
〇広島市街方向の空が真赤に燃えているのを見ながら、母の無事と家の無事を祈りながら一夜を明かした。(全くと云っても過言ではない何の感情もわかなかった!!)今は違う。あれは悲惨な地獄だったと思う。
 
8月7日(火)
〇母の安否を考えながら家のある白島へと歩きだした。(昨日とは逆方向)
 行き交う人々は泣き声、呻き声、無言で虚ろな表情の人、念佛を唱える人、目の前でそして後の方で倒れる人ばかりだった。時々陸軍のトラックが通り過ぎて行った。
〇三篠付近で内藤さんと別れ一人になった。(その後の事は不明)
〇三篠橋迄来た時、「どうして!」「どうなったん!!」目を見張った。昨日よりひどかった。橋の欄干に吹き飛ばされ打ちつけられた自転車が黒こげでタイヤがない! 橋の上から白島側へ下る道には兵隊さん、騎兵隊の馬、ケガ人、やけどの人、死人、防火用水槽に何人もの人が手や足を、そして体を半分入れたまま死んでいた。折り重なって。生きている人に「水!水!水を下さい!」手を出され、私の足に触られる。その中を。
〇実家近く来たと思って顔を上げると、そこは一面焼野原で遠く迄見渡せる。どこに家があったか分からない。人もいない。八丁堀あたりが燃えている。
 〇火が残ってくすぶる山陽本線の踏切を渡り長寿園の入り口付近に来た時、
隣りの満井さんに声をかけられた。母は背中全体をやけどして牛田の不動 院に行って待っているとの事。
〇不動院に着く。ここにも兵隊さんや一般人がケガ、やけど、すでに筵が
すっぽりかぶせてある人々で広い境内は埋め尽くされていた。
〇その中を一人一人の顔をのぞき込んで探した。日が暮れかけた頃、やっと
母を見つけた。
〇背中全部、両足、片手の背面全体やけどで筵(むしろ)に寝かされていた。意識ははっきりしていて私に会えた事を喜んでくれた。
〇それが何故か悲しかった。昨日からの事、満井さんに会った事、家は焼けてどこがどこか分からなくなっている事、市内はまだ燃えている事等を説明した。
〇母の背中のやけどの程度を私に見させて説明させた。ここまで来る道中に 出会った人々が「水!水!」と云っていたと同様に母も水を欲しがった。
2、3メートル先に溝があり、水が流れているのに気付き両手にすくって は運んだが母の所に着いた時は殆どなくなっていた。
〇それでも指先に残る水をおいしいと云って吸った。ハンカチを濡らして
口の中にしぼって入れた。これを繰返しているうちに夜が明けた。
〇市内の空は赤く燃えていた。
 
8月8日(水)
〇母は「明日からの生活があるから家に帰って茶碗や炊事道具を持って来るように」と云ったので、家に向かった。
〇門柱を頼りに焼け跡を探しコンクリートの流し台に釜と茶碗が残っていたので、それを持って不動院に帰って見ると、そこには母も周囲の人達もいなくなっていた。
〇軍のトラックで福屋デパートへ運ばれたとの事。再びトラックの後を追う様に市内へ向かった。
〇途中、軍人さんから(飯田准尉)事情を聞かれ説明すると「今日は日も暮
 れるし、無理だから一緒に避難所に行こう」と云われ牛田山の奥に行った。〇そこには多くの負傷兵と少数の一般人が避難していた。
 
8月9日(木)
〇夜明けを待って福屋デパートへと歩き始めた。今日から牛田山を拠点に
毎日探して歩くことにする。
〇福屋には一階から上階迄、床一面に負傷者が 寝かされていた。一人一人
の顔をのぞき込んで探した。
〇筵や毛布がかぶせてある人も・・・。 怖かった! 逃げ出したかった!
 ここには居なかった。炎天下の焼野原を毎日避難所をたずねて歩いた。
〇貼紙に書き出されている氏名を見落とさないように幾度も繰り返し読んだ。失望しても、次の日もそうした。
 (※8月10日~19日の間は思い出せないそうです、毎日一人で市中を母を探し回ったのでしょう)
 
8月20日頃
〇母の死を知らされた。似島に運ばれ8月15日に死亡と。夜空の星が美しかった。悲しいのに涙が出ない。(※似島は広島港より4Km先にある小島)
 
8月30日頃
〇呉市の叔父が迎えに来た。牛田山の兵隊さんも一般人も亡くなったり他へ行ったりで日に日に減っていった。兵隊さん達にお礼と別れのあいさつをした時、寂しさがこみあげて泣いた。
〇はじめて泣いた。広島を去った。
 
 

後記
被爆当時、多木和子は13歳と10ケ月の中学生でした。また母ツ子は自宅近くで軍属(陸軍工員)として働いていました。この文章は被爆者手帳の申請に当たり「申述書」として、1994年に多木和子が自分で作成されたものです。

しかし、下関市役所の担当官から信憑性がないとして申請却下された。

その後、多木和子の強い願いがあり私が代理者として、2013年に再度申請をして「被爆者健康手帳」が申請から20年後にやっと交付された。

その原文を修正せずそのまま活字にしたものです。貴重な証言として多くの人に読んで頂きたいと思い、多木和子の了解のもと公開することにしました。

その後、多木和子は特別養護老人ホームで生活を送り、2022年11月29日に永眠しました。(享年91)
 
多木親子は被爆中心地から2キロ範囲内で日常生活を送っていた。
1945年8月6日 午前8時15分 上空600メートルから原子爆弾が投下された。
3,000度近い灼熱が35万人の市民を襲った。
そして、一瞬に9万人以上が亡くなった。(2022年現在16万4千人以上が死亡)
 
   多木 ツ子(おおき つね)  被爆当時(49才)陸軍工員
  多木 和子(おおき かずこ) 被爆当時(13才10カ月)
  広島市三條国民学校高等科2年在学中
 
・広島追悼平和祈念館に「多木ツ子」の被爆者登録をしている。
・多木和子も被爆者登録を希望されて、2022年12月被爆者登録をした。
 
 
                          2023年8月6日
 
 
 
 
  寄稿者 篠原博之(多木ツ子の孫)
  山口県下関市垢田町
 
 
 

  

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