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正子を憶う 
入田 茂雄(いりた しげお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1957年 
被爆場所  
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 昭和二十年八月六日、原爆当時、私達一家は己斐町鉄道官舎に居住していましたが、当日家にいたのは、妻と県立二中三年の長男健一と正子の三人であった。長女の幸子は本川国民学校の教員をしていたが、疎開学童を連れて備後十日市に疎開し、己斐国民学校五年生の三女・澄子も同様に学童疎開で、世羅郡東村国民学校に疎開していました。私は広島鉄道局審査課長の職にあったが、新設四国鉄道局との引継事務打ち合わせ会議に出席のため、前日五日正午ごろ広島を発って、芸備線まわりで、福塩線府中町に出発していました。翌六日朝九時ごろ、府中町駅長室に行ったところ、警察の人が来ておったが広島との電話、郵便局も警察電話も通じない。鉄道電話をかけてみてくださいとのことであったが、これもまたかからない。何か変わったことが起こったのではないかと思ったが、十日市行の列車が来たので同行者四、五人と共に上下町に出かけました。白島在住時代の友人を矢野に訪ねて、夕刻宿屋へ帰ったところ、女中さんの話では広島は大変な騒ぎとのことであった。帰る汽車も無かったので案じつつも宿屋に泊り、翌七日朝五時の初列車で十日市まわりで広島に帰ることとなりました。

上り対向列車には避難の人々がよれよれの服装で乗っている姿を見て、広島は大変なことになったと思いました。安芸矢賀駅に着いた時、顔に繃帯をした人、松葉杖をついている人々、見覚えのある人だと思いましたが、当時の広鉄局長満尾君亮氏、総務部長唐沢勲氏、施設部長大森義文氏等でありました。試運転列車で広島駅まで同乗しました。駅に着いたところ官舎隣組の中田需品課長曰く、「君のところは二人帰らないぞ、僕のところは一人やられた」とのことであった。健一、正子二人ともやられたと観念しました。急ぎ己斐の官舎に帰ってみようと思いましたが、当時審査課は宇品鉄道局の建物疎開のため、流川の広島女学院内に移転していましたが、全滅と聞いたので、同行の課員四人と出かけてみたところ、全焼でありました。どうすることも出来ないので、一先ず己斐まで帰ることにした。帰り着いたのは十二時ごろでありました。兄・健一は無事に帰っておった。学徒動員として三菱造船に配属されていたが、六日は宮島沿線の宮内に三菱工場の疎開作業に従事しておったため、難を免れたとのことでありました。然し、正子は帰って来ませんでした。妻の話では、昨夜は正子等の身を案じて、旭橋のところまで出かけたが、炎々たる火の海を眺めてはどうすることも出来なかったとのことでありました。

己斐鉄道官舎内では男生徒新井君(市中一年)、中田君(県二中一年)、井内君(校名不明)、女生徒石川さん(市女一年)、土居さん(安田女一年)、岩見さんの六人が帰って来ませんでした。情報によれば学徒の負傷者は、鷹野橋から船で似の島に収容されているのではないかとのことであったから、翌八日朝、中田、土居氏等と宇品から似島に渡り探しまわったが、学徒らしい姿を見出し得なかった。帰途、作業現場であった住吉橋の近くに寄ってみたところ、累々たる黒焦げの死体の姿を眺めた時、正子はもう駄目だと観念した。

親心としては、なお行方を探し求めたかったのであるが、翌九日からは女学院内の審査課の焼跡の処理に、生き残りの課員と共に従事しました。出勤後、不幸犠牲となった遺骨十四体(女学院から派遣の学徒を含む)を収容して己斐官舎まで捧持した後、十五日、旭山の日蓮宗妙法寺岩﨑日計法師を頼んで法要を営みました。式半ばにして終戦の詔勅を聞き、女子職員はわっと泣き出すという有様でした。

式が終わってから午後、私は舟入町の市女に、娘の消息を知るために出かけたところ、六番目に死体が確認されたとのことでありました。万事休す。今日か明日か帰って来たりはしないものかと心待ちしておったが、十三歳を期として早世したことは実に感慨無量であった。遺骨を分けてもらい、帰ったのは夕刻でありました。

その後、私は勤め先・審査課の再建に忙殺されたが、この年十二月、在職二十六年余の国鉄生活と別れ、鉄道弘済会広島支部に十年近く勤めておったが、今は悠々自適の生活です。

姉は嫁して一女一男の母である。今年から小学校に通う孫娘由美子は正子によく似ている、生まれかわりというものであろうか。

兄は二中卒業後、広島高師(社会科)に進み二十七年卒業、山県郡加計高等学校教官を務めていたが、昨年九月から市立工業高等学校に転じ、教員生活を続けています。

妹は己斐小学校卒業後広島女学院に進み、二十八年卒業、横浜護謨製造株式会社広島支店に勤めていますが、今年三月十七日結婚しました。

正子は昭和八年一月三日、東京都中野区本町五丁目十九番地に生まれました。三歳の時、消化不良で東京鉄道病院に二度入院したこともありましたが、その後は丈夫に育ち、十年七月、広島鉄道局新設に際し東京より転勤、白島に住むこととなりました。二葉幼稚園で一年保育を受け、十四年四月、白島小学校に入学しました。翌年九月、下関運輸事務所勤務となり長府町印内の鉄道官舎に転住したので、豊浦国民学校二年に転校、十八年四月、広鉄審査課に転職のため己斐国民学校五年に転校、二十年四月、待望の市女に入学したのであります。

生来おとなしい性質の子でありましたが、学校の成績も良く、とりわけ作文が得意であったようです。疎開先の妹へは度々手紙を書き送り、姉としての温情、動員学徒としての純真な気持を述べています。

月日のたつのは早いもので今年は十三回忌を迎える。在りし日の写真、学校の成績表、遺作、遺品を眺める時、涙ぐましくなります。

すべては宿命、因縁であります。生き残りの家族は、神、仏の御加護によって息災です。正子の霊が守っておってくれるのであろうか、安らかに眠ってください。

出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)四四~四七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

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