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ヒロシマを語るコンサートと手記 
佐藤 慧子(さとう けいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市庚午北町九丁目 [現:広島市西区庚午北三丁目] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 広島高等師範学校附属国民学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
補記・川崎優美

1991年1月、湾岸戦争で多国籍軍がイラクを空爆・ミサイル攻撃のニュースが、日本で一斉にテレビのニュース番組で流れました。夜に閃光する空爆の落ちる様やサイレンの音が映像で目の前に突然流れたその時、一緒にテレビでニュースを見ていた私は、その映像を見つめる母の顔に驚きました。大きく見開いた目からボタボタと大粒の涙を流し続けていました。小さな子供が、悲しくて途方にくれているようでした。その音や映像を見て、母の中で、7歳の時の広島での被爆体験の記憶が蘇り、大きく感情をゆさぶられたのです。
 
その後、私の母・佐藤慧子(旧姓・渡辺)は、楽器演奏や歌(フランスの反戦歌・シャンソンなど)の力を借りながら、自分の被爆体験を言葉にして「ヒロシマを語るコンサート」を、50代も半ば、たった一人で企画し始め、1993年8月から続け、20年目の2012年8月28日が最後となりました。最後のコンサートは、40年以上住み慣れた横浜の自宅のある地域の会場でした。横浜の郊外で子育てや主婦業に奮闘していた30代からの思い出のつまった地域の方々にコンサートを聴いていただきました。「このコンサートが終わったら精密検査を受けるから、予定通りコンサートをしたい」という本人の強い意志で、病院に行くのが延し延しになってしまい、それからまもなく10月30日の早朝に、急性白血病で亡くなりました。
 
横浜、鎌倉や東京はもちろん、広島や福島など色々な場所での開催に、沢山の方々に支えていただきました。しかし、家族の私から見ると、皆様の前に一人立って語ることに、大変なエネルギーが必要で、疲れ切っている母の姿は、きっと家の中でしか見せない姿だったかもしれません。家族の各々のできること(父は会場運営や写真、姉は伴奏や歌の賛助出演、私と夫はチラシやパンフレット作成や楽屋スタッフなど。)を見つけて寄り添うことができました。
 
コンサートの録音を聞き返すと、こんな言葉がありました。「(聴衆の方々へ)若い人たちに何も考えないで暮らすのはせっかく人間に生まれてきてもったいない、あなたが幸せになる選択しなさい、なんかしなさい、という方向にもっていってくださるとうれしいです」「この間こんなコンサートやっていたよ、笑顔で幸せに暮らすのはどうしたらいいかね、という話題にしてくださるとうれしいなと思います。」と。母の語っている言葉に、広島のイントネーションが自然と出ています。母は20代で結婚して広島を離れ、普段は広島のイントネーションが全く出ない人でしたが、このコンサートで広島を語っていると、本人が気づかないうちに心はもう広島、1945年8月6日の当時7歳だった子供が受けた衝撃に戻っていたのだと思います。
 
2011年3月に起こった東日本大震災の後、母のメッセージは「原爆のことを真剣に考えていたら」と原発の問題のことを考え続けていました。それ以前から福島とご縁があり、福島日仏協会には2009年10月に「ヒロシマを語る」コンサートを支援いただき、福島でも行いました。福島でのコンサートの後、裏磐梯を訪れたことを、こんな風に書き残していました。「山々の紅葉が山の斜面に映えて美しく、見とれていると諸橋美術館が現れました。広島に原子爆弾が投下されその威力と衝撃からダリが描いた『ビキニの3つのスフィンクス』という絵に出会いました。私は被爆体験の語り部コンサートを今まで色々悩みながら続けてきたのですが、何かの力でこの奥深い山の中でこの絵に引き合わしていただいたような衝撃を受けました。」
 
「佐藤慧子」がどんな人だったのか、それは彼女を知る人それぞれ違うと思いますが、コンサートの録音(体験語り部分)と本人が書き綴っていた原稿資料を広島で保管していただけることを本当に感謝しております。本人も亡くなる間際に病室で、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で被爆体験記や追悼記を集めていることに心を寄せていました。
 
原稿は手書きやワープロなどありましたが、これらは元々、コンサートの中で被爆体験をお話しするための原稿でしたので、書面で出させていただく形を取っていませんでした。そのため、幾分言葉が簡略、また口語も多いのですが、編集を敢えてせず、本人の言葉そのままにしてあります。

以上



2009年8月22日「ヒロシマを語るコンサート」原稿
(「ボヌールの会」と名付けていました。ボヌールはフランス語で幸せの意味です。何に幸せを見いだすか、考えていく気持ちを込めていました。)
 
 佐藤(旧姓・渡辺)慧子(けいこ)
 
広島市内は川が7本流れ、とてもきれいな町でした。広島の川は、川といっても海に繋がっているので潮がありました。夏になると川で潮干狩りをしたり、真っ黒になって遊んでいました。母が女の子なのに真っ黒になってとこぼしていたものでした。爆心地のあたりの川には材木が繋がれていて、冬になるとお料理をいただく牡蠣船の電気がついて出ていました。西に住んでいて、東の広島駅に行くにはチンチン電車に乗って7つの川を越えて行きました。小学生の初めての夏でした。台所では母が食事の用意の音や、お父さんがぐずぐずして仕事に出かけるのが遅れてと言っていました。太陽はぎらぎらとぴかっとひかった。電球のように。それからの時間は数秒数秒でのことでした。庭の裏にいた祖母が「志づみさん、慧子(けいこ)ちゃん出てきなさい」と大きな声で叫びました。私たち3人は庭に掘った防空壕に逃げました。さっきあんなにまぶしかった景色がどんより灰色でした。灰色の空気の上には、キラキラとアルミ箔のちぎったようなものが見えました。爆風で地上のものが全部吸い上げられ、それが落ちてくるものだった。大人たちは「近くに大きな爆弾が落ちたらしい」と口々に言っていました。私の家は、当時は郊外っていう感じで西でした。畑もあって住宅街でしたが、一人でじっとしていたら、遠くから何か動くものがこっちへやってくるのです。だんだんゆっくりと近づいてくる。最初の人は女学生だとわかりましたが、ほとんど裸だったのですが、家から母たちは着物を出してかけてあげたのですが、やけどに張り付いて後で取るのが大変だったそうです。
 
初めの頃の人は髪がちりちりとアフロヘア。焼けると人間の皮膚は、ずるっとぶらさがって、それがワカメのようにゆらゆらとゆれていました。段々やけどのひどい人が増えてきました。宮島へつながる道でした。夕方になると人が溢れ、夜には人間の色が黒一色でした。広島市内の方は火柱が燃え上がっている景色でした。7時13分に警戒警報が解除された頃に爆弾が落とされました。私は、キノコ雲は見ていない。二度の爆発があったので、広島の人はピカドンと言います。大人も段々様子がわかってきて、色々な話をしていました。とんでもないことが起きたと右往左往していました。
 
私はちょうど防空壕を出た時に、墨汁をぽたぽたっと落とすようなものが聞こえてきました。白いシャツを着ていたのですが、西の方に向かって降ってきました。シャツが黒くなっていきました。
 
兄が3人いて、真ん中の兄は勤労奉仕で整列して門を出たところで被爆しました。壁の下敷きになって、そこから早く這い出して、友達を引っ張り出しました。火がどんどんまわってきて、そこからは置いて逃げたそうです。風上へ逃げて、東に向かって。4日うちに帰ってきませんでした。朝早く勝手口の外に立っていました。当日の話を聞こうとしてもいやがって兄は話をしませんでした。3日ほど人を踏んで歩いて、今12歳の男の子がそんなことをするのかと想像するとぞっとしませんか。二番目の兄を捜して一番目の兄が町を探して歩きました。「想像してみろ。あのきれいだった川が真っ黒で数倍にふくれた人でいっぱいで水がみえない。防火用水、プールでも人が溢れ、水、水と求め息絶えた姿がたくさんあった。電車は瞬間焼けて真っ黒焦げで、中にいた人も同じようになっていた。橋の上には自転車に乗ったまま真っ黒になって欄干にもたれて死んでいる。」と1番目の兄が話してくれました。馬や牛も内蔵が出て真っ黒になって死んでいたそうです。若いお母さんが真っ黒になって息絶えていたが、前に抱いている赤ちゃんはまだ少し息があったので引き離そうとしたが、どうしても離そうとはしなかったのであきらめたそうです。
 
町に少しずつ避難所ができはじめ、顔ではわからないので、大きな声で名前を呼んで確認したそうです。水がほしかったけど飲むと死ぬっていうから我慢していた男の子は、お父さんに会った途端にお水を飲んで死んでしまったそうです。
 
今度は自分の家族に会っても、運びようがない。肉が腐って板に乗せて運ぶとか、5歳くらいの男の子がお父さんを引きずって帰っている。まったく音のない、真っ黒な町を想像できるでしょうか。爆心地の近い方は、ベッドごとふき飛ばされ、 目玉が出て中のリンパ液が固まっている。
 
宇品-瀬戸内海に島がたくさんあるので、生きている人はそこへ運ばれたそうです。そこにいる人は、どうしてそこに自分がいるのかわからないといった人たちばかり。ケラケラ笑っているか。赤ちゃんにお乳をあげたくてもリンパ液が出て。
 
夜になったら、真っ黒になってぴゅっぴゅっという音がある。なんだろう?やけどについたウジ虫が孵化する時の音でした。
 
人間と命はこんなものかなと。あの日、父は出勤が遅れ、「ぐずぐずしていて」と、母がこぼしていました。8時15分には、いつもなら原爆ドームの近くに父は行っているはずでした。自転車で通っていましたが、あの日はパンクしていて自分で直しているので時間がかかっていました。宮島よりの一番西の橋の上で被爆しました。半袖のごわごわした、ゲートル、前をやけどして、塗り薬はないので、灰などをつけたりしたくらいでした。手が焼けて下ろすと痛いので、父は両手をいつも万歳のようにして生活していました。なかなか癒えなくて、翌日からウジ虫がわいてきて、毎日毎日私がピンセットで取っていました。とても痛かったようで、顔をしかめて我慢していました。でも生きていてくれました。あの時もし父が死んでいたら、私もどうなっていたでしょう。小学校になって登校したら両親のいない子供もたくさんいました。孤児院も特になかった当時でしたが、運動会とかあると、お祖父さんやお祖母さんが来る人が増えました。子供だったのでよくわからなかったけれど、両親のいない人も多かったはずです。
 
原爆ドームから2キロ半は一瞬にして焼き尽くして、文化も町もそれで壊されてしまいました。友人の話ですが、御真影に向かって深く頭を下げて振り向いたら、柱と木の陰でやけども爆風もあわずそこから無傷で逃げることができた。でも振り返った時の光景を思い出したくない。とのことでした。友人のお父さんは、勝手口が開いていたので閉めようとしたらぴかっと爆弾が落ちた瞬間で、木陰にいただけで助かった人でした。生きているんじゃなくて生かされているんだなあと思います。そういった話は数々あります。手記を読むと軍人の人のものが多かったです。翌日から電車が動いて、軍人が町中にたくさん入ってきて、「私たちは軍人だから巻き込まれても当たり前だけど、戦争に関係ない女性や子供がどうしてこんな目にあうのか」という感想が多かった。
 
ちょっと郊外で静かなところに公園があって、夕方に町内会からお知らせが来る。近所の誰さんが荼毘にふされるので、皆さん集まって下さいというお知らせです。木を組んで葉っぱを乗せたりして、遺体が何体も何体も運ばれて来て火をつけます。毎日毎日送る日が続きました。私の家は宮島に向かって畑でした。トラックに死体が炭のようになったものをごろんごろんと置いていきます。燃料をかけて火をつけていくのです。夕凪が広島では夕方6時くらいになる。ぴたっと風が止まる。その時に、家の窓ガラスが壊れたままで、その臭いが充満してくる。そのうち、小学生は昼間でも走らないように、大人でも外出しないようにといったことを言われるようになった。焼け残った肉を犬が食べるようになって、人間の味を覚えたためにとても危険になった。犬にかまれて狂犬病になった人もいた。夜になって雨が降るとリンが燃えます。ぽっぽっと火が燃えて、火の玉で生きていたのが突然切られてしまった怨念。広島は建物を建て直すことになっても、人骨や人がたくさん眠っているので静かに歩いて下さい。と言われたものです。
 
皆さんがストーブとかで髪の毛が燃えたりしたら、いやな臭いがしたことがありませんか。人間が一人焼けるのは何十倍もの臭いがするのです。これが町中にあふれたら、これが戦争のにおいです。どこで深呼吸すればいいのでしょうか。
 
こういう話をすると、よく「私のところも空襲がありました」といったことを言う人がいます。でも広島と長崎は違います。原子爆弾は日本だけです。3代続きます。小学校へ行ったらケロイドの人がたくさんいて、女の子は結婚できない人もいました。64年前にこんなことがあったのです。この不幸なことが今は広島に行くとまるで何もなかったような光景です。でも忘れてはいけない悲しい過去です。
 
こんな活動をしていると、被爆者だと言っていいのと言われた。
毎日思っているわけではない。
結婚するとき大丈夫かなと思った。子供が生まれるとき。
毎日原爆原爆と思っているわけではない。その先にどうやって幸せに暮らしていこうかということを考えていきたい。
 
以上
  

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