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消えることのない傷 
市木 一恵(いちき かずえ) 
性別 女性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所 本願寺広島別院(広島市寺町[現:広島市中区寺町]) 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私の家は寺町の本願寺広島別院近くにありました。家族は父・新林豊九(四四歳)、母・イツ子(三五歳)、長男・和則(一三歳)、次男・宏(一一歳)、三男・恒美(九歳)、私・一恵(七歳)、妹・満恵(二歳)の七人家族でした。

父は戦地へ行っていて、次男と三男は疎開で比婆郡(現在の庄原市)に行っていたため、寺町の家で暮らしていたのは、母、長男、私、妹の四人でした。
 
私は国民学校に通っていましたが、当時、学校は軍隊が使用していて、三年生以上は郡部に疎開し、低学年の児童はいろいろな所へ分かれて授業を受けに行っていました。
 
●八月六日
私たちは本願寺広島別院へ通っていました。八月六日の朝、私が家を出るときに、いつものように母が送り出してくれました。別院は川に近く、寺の正面入り口は寺町通りの方にあり、裏口は本川の方にありました。一旦、正面から本堂へ入った時には四、五人来ていましたが、まだ自分の友達が来ていなかったので寺の裏口へ迎えに行きました。私は裏門の近くで本川の方に向かって立っていました。八時一五分のほんの二、三分前、それほど長く立っていた訳ではありません。ひどいやけどを免れたのは、体が小さく何かの陰にいて熱線が遮られたからかもしれません。
 
原爆が投下された瞬間、まともに爆風を受け、その勢いで私は飛ばされました。突然のことで、光や熱を感じた記憶はなく、飛ばされた時の記憶もありません。
 
私はお寺にあった墓石の所まで飛ばされて、どれくらいたっていたのか分かりませんが、目が覚めたときには、ちょうど墓石にすがっている状態になっていました。「あら、これは墓石なんじゃね」と思いました。
吹き飛ばされたときに、墓石の角で頭と腕にけがをしました。頭はちょうど二センチぐらい切れて、腕も切れ骨が見えていました。その時は意識が朦朧としていて、痛みは感じませんでしたが、今だったら大手術しなければならないほどのけがでした。
 
周囲を見ると、大勢の人が歩いていたので、人の波について行きました。あまりにも大勢の人が立ち止まっていられないほどの勢いで歩いており、もし、そこで転んでしまったら、そのまま大勢の人に踏みつぶされてしまうほどでした。中にはけがをした人もいたのでしょうが、私には分かりませんでした。どこへ向いて歩いているのかも分からないまま歩きました。頭がぼんやりしており、私は家に帰ろうという考えもありませんでした。
 
歩いていたら途中で、「一恵ちゃん」と自分の名前を呼ばれました。「お母さんが捜しよったよ」と言ってくれた人がいたのを覚えています。誰だったかは分かりませんが、ぞろぞろと人が歩いている中で、誰か知った人が私を見て声をかけてくれたのでしょう。「お母さんはおるんじゃね。ああ、お母さん、お母さん」と思いました。
 
人の波に付いて歩いていると、大勢の人が避難している山に着きました。三滝の山かどこか分かりませんが、そこで雨が降り出したことを覚えています。
 
そこには知り合いは一人もいませんでした。何も食べず、意識が朦朧としたまま、二晩過ごしました。
 
●家族と再会
山へ避難していた人たちが、段々少なくなっていき、最後は五〇か六〇人くらいになったのです。みんなが山から下りて行くので付いて行くと、大きな建物があり、そこで兄・和則に偶然出会いました。兄はどこかに動員されていたのだと思いますが、けがもなく無事で、血を流している私を見つけて「ああ、一恵、どうしたんや」と言って抱きかかえてくれました。
 
兄に出会う前にも、私を見た人が「あの子、見てみんさい。すごい血もぐれで服も着とりゃせんが」と言っていました。頭も腕も切っていたからすごく血が流れて、体中が血まみれだったのだと思います。「おお、すごいこと血が出とるわ」とみんな言うのですが、誰も助けてはくれませんでした。自分の命を守ることに精いっぱいで、誰かを助けようという余裕はなかったのだと思います。
 
私は頭を打っていたせいか、人に言われて自分のことかと思うくらいで、血が出ているから怖いと感じた記憶は全然ありません。
兄が建物の中で治療している人に私のことを「診ちゃってくれ」とお願いして、治療してもらいました。
 
被爆直後で麻酔がなく、兄が私の手足を押さえ、釣り針のような針で縫われたのですが、痛くて狂いそうだったことを覚えています。
 
一三針縫ったと兄は言っていました。骨が見えるような重症でも、骨をそのままくっつけるような処置しかできない状況で、今でも腕は歪んでいます。それから兄は妹を捜しに行くと言って出掛けていきました。
 
そこで兄は、原爆が投下されてから初めて寺町の家に行ったそうです。家は壊れていましたが、不思議なことに焼けずに残っていました。戦争中に母が、家の部屋の下に一メートルぐらいの穴を掘っていました。ちょうど人が入って隠れることができるくらいの穴で、いざというときはそこへ入るつもりだったのでしょう。
 
爆風で床が落ち、妹は偶然その穴に落ちていました。兄が見つけたときは、砂を口いっぱいにくわえていたそうです。兄が「待っとけ、掘っちゃる」と掘りだしたと言っていました。妹は二日間穴の中にいたのですが、無傷で助かりました。
 
寺町の家で妹を見つけた兄は、妹を連れて戻りました、小さい頃のことで記憶があいまいになり、母がどこでどうしていたか思い出せないのですが、母とも合流しました。兄と母もけがしていませんでした。
 
それからすぐに母、兄、私、妹の四人で母の実家がある比婆郡庄原町永末(現在の庄原市永末町)に行きました。
 
●療養生活
永末で生活を始めてから八月半ばごろに、一センチくらいの赤い斑点が私の体中に出て、四〇度以上の熱がずっと続きました。原爆の放射能の影響でしょう。薬もないので、母はドクダミを煎じて、飲むことができない私の口に脱脂綿で含ませてくれたそうです。症状があまりにもひどいので、医者に一里歩いて来てもらったのですが、その先生が「この人はかわいそうだけど、もうだめだから、お母さん、末期の水を飲ませちゃってくれ」とおっしゃって、母は脱脂綿に浸した井戸の水を私に飲ませたそうです。
 
それからも熱が冷めたり、出たりの繰り返しで、結局一カ月ぐらい熱が続いたそうです。斑点も治らないので、また医者に来てもらったそうですが、二回目の診察でも「お母さん、これはこの間も言うたように、だめだから」と言われました。それでも兄の和則は私を助けてやろうと、お大師さんにお参りしたり、馬のふんを煎じて飲んだらよく治ると聞いて、乾いた馬のふんを取りに行き、それを煎じてくれたりしたこともありました。
 
腕の傷もウジが湧いてきました。そのウジが身に食い込むと痛いのです。母が手でウジを取ってくれるのですが、ウジも逃げまいと肉に食いつくので、ものすごく痛くて、今でもその痛みを覚えています。手にウジが湧くたび、母は取ってくれていました。薬がないからヨモギをもんで傷口へ付けて何回も取り替えたと言っていました。
 
この頃のことを思い出すと、よく生きたなと涙が出ます。
 
●終戦後
それから三年くらい元気になったり悪くなったりの繰り返しでした。町内では、「あれが原爆に遭ったんじゃ、うつる」と言われました。田植えをしている人も、稲を刈っている人も、私が歩いたら作業を止めて立ち上がって見ていました。
 
三年位経って永末の小学校に入学したのですが、みんなが「原爆じゃ、原爆じゃ」と言って指を指すので、父の実家がある比婆郡高村(現在の庄原市高町)へ移りました。父方の祖母と三男の兄と三人で生活し、私は高村の小学校へ入学しました。高村では、私が被爆したことを誰も知りませんから、原爆と言われることはありませんでした。
その頃、他の兄たちはすでに勤めに出ていたのではないかと思います。父は双三郡(現在の三次市)の拘置所に勤めており、母と妹は父の下宿先で生活していました。その後、父が吉島町の広島刑務所へ転勤になり家族で江波の市営住宅に転居し、私は中学一年生の時に江波中学校へ転校しました。その時には弟も生まれていました。
 
江波では、被爆している人も多かったですが、原爆に遭ったことは誰も自分からは言わなかったですし、私も言いたくありませんでした。母だけが、私の腕の傷を「この傷は勲章じゃ思え」と言っていましたが、「何が勲章か」と情けなかったです。
 
中学卒業後は高校へ進学せず、就職しました。勤めるようになっても、半袖の服を着る季節になると、腕の傷を見られるのが恥ずかしくて、いつも包帯を巻いていましたが、そうしていると「どうしたん、どうしたん」と包帯のことを聞かれるので、勤め先をやめていました。夏になれば辞めていたように思います。
 
傷がひどいので、未だに恥ずかしくてサポーターをしています。傷が鍵型になっているのですごく目立つうえに、切って骨が出た部分と肉がついている部分があり、山のようになっているのです。若い頃に、現在の広島赤十字・原爆病院で、腕の肉を切り取り、傷が目立たないようにしましょうかとも言われたのですが、腕にまた傷ができるので断りました。
 
私は昭和三八年三月一一日、二五歳の時に見合い結婚しました。夫は被爆者ではありません。夫には被爆したことも傷のことも言わずに隠していたのですが、結婚したら分かりますよね。被爆したことが夫に分かったときも、「もう、結婚しとるんじゃからしようがない」という感じだったのだと思います。長女が昭和三八年に、次女が昭和四三年に生まれました。
 
結婚した後、夫の実家に住んだり、娘と江波の家に戻ったりしていましたが、これではいけないので、お金をためて家を買おうと考えていたところ、アメリカ人のフロイド・シュモーさんが被爆者のために建てた江波二本松の家に住めることになり、シュモー会館の裏の少し高くなった所にあったその家に移り、そこに住みながら近所で喫茶店を始めました。
 
自分が経営する喫茶店なら年中長袖を着ていることができました。昭和五八年ごろから二〇年ほど営業し、みなさんによくしてもらいましたが、私ががんになったのでやめました。
 
喫茶店を経営しているときに安佐南区相田の家を買い、現在も夫と二人で住んでいます。
 
●原爆症
被爆者健康手帳は母が申請してくれて、母と長男の和則と私と妹の満恵は被爆者健康手帳を持っています。
 
母は病気をいろいろして、長く入退院を繰り返していました。長男もいろいろ病気をして、腎臓か膵臓かを患って、五〇歳後半か六〇歳位で亡くなりました。妹は、甲状腺に異常があり、原爆の放射能によるものということで、今、手当を受けています。
 
被爆して一番病気がひどかったのは私です。ポリープが体中にでき、原爆の影響なのか、肺がんも甲状腺がんもしました。ここ何年かの間もいろいろ病気をしており、腎臓に石がたまっていますし、膵臓に袋のようなものができて、それが大きくなっているから、医師からは「もう年だし、膵臓は手術しても助からんから天命じゃ思いなさい」と言われています。
 
一三年ぐらい前に肺がんを患ったとき、入院中も酸素吸入器を持って、いつも病室を歩いていたのですが、先生が「市木さんは肺がんでもこんなに元気なんじゃけ、次に入院する人が来ても、絶対助かるからと言うちゃってくれ」と言ってくださいました。それで私は、肺がんの患者さんの病室へ行って「肺がんになっても助かるんよ、私はこんなに元気なけえね。」と言ったことがあります。
 
私が肺がんで入院中の平成二〇年に母が亡くなりました。母の葬儀のため家に帰らせてもらったのですが、それを機に退院して家に戻りました。退院後は肺の運動をしたら元気になるからと、階段を上がったり下りたりして、肺を一生懸命鍛えました。今でも胸を締めつけるような痛みがあり、ものすごく痛みますが、半年に一度の検診では転移は見つかっていません。しかし、肺がんを患ってから一年くらいして、甲状腺がんになりました。
 
長女は子宮頸がんを発症して今、五年くらいです。
 
●平和への思い
これまで生きてきていろいろな病気をしましたが、幸せだなと、八〇歳になって初めて思います。原爆によって亡くなった方も大勢いらっしゃるから、私は病気をしても死ぬまではできる限り明るくしていようと思います。
 
しかし、被爆したことは私にとって、本当に大変なことでした。自分が苦しみに遭って初めてよく分かります。だから、核兵器を作るべきではありませんし、戦争はすべきじゃないと思います。
みなさんも「ああ、原爆か」と受け流すのではなく、自分のこととして考えてほしいです。自分の子どものこと、親のこと、家族のことを思う心があれば、核兵器を使うなんてできないことです。私みたいに核兵器の犠牲になれば、子どももかわいそうですし、家族もかわいそうです。
 
戦争もそうです。かたき同士と思うより、仲良くしたほうが楽だと思うのです。
自分のことを大事に思うのなら、人のこともいたわり、憎しみあうことなく平和であってほしいです。
  

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