●戦前の暮らし
父、栗田要は私が三歳ぐらいの時に松山市から広島市に引っ越し、家族は御幸橋のたもとにあった父方の伯父の家でしばらく暮らしました。その後、矢野に移り住みました。父は安芸郡坂村で働いていましたが、私が国民学校にあがる一年前から東洋工業(株)に勤めることになり、仁保町小磯にあった社宅に住むことになりました。社宅の家は、隣の家と壁を共有している二戸一の平屋づくりで、同じ形の家が並んで建てられていました。
青崎国民学校に入学して一年生の終わり頃に、はしかにかかりました。今のようにいい治療がなくて、ずっと寝ていました。それで治った時にはもう二年生で、長く休んでしまったので、勉強嫌いになってしまいました。
●学童疎開
四年生の四月半ばか五月だったと思いますが、私一人親元を離れて比婆郡庄原町(現在の庄原市)の駅の近くの雲龍寺に学童疎開しました。食べる物もろくになく、寂しくて、脱走して線路伝いに歩いて広島に向かう子もありました。
八月の初め、父が安芸郡府中町鹿籠の小さな山のふもとに建てられたトタンぶきの監視小舎(=見張り小屋)で宿直として泊まるようになって、ここなら郊外で位置的に疎開しなくても安全ということで、私を庄原の疎開先から呼び戻してくれたのです。しかし、実際に住んでいたのは、小磯の東洋工業の社宅でした。当時は向洋大原・本町の方までずっと入り江があって、社宅がずらっと並んでいました。入り江には雁木もあり、その辺りには朝鮮からの徴用工の人たちの二階建てバラック宿舎が並んでいました。
当時、私たちより少し年上の国民学校高等科の子どもたちは、朝早くから東洋工業の工場に隣接した民家を建物疎開で壊した後の片付けに駆り出されていました。
●被爆時の状況
疎開先の庄原から戻って何日もしない八月六日の朝、家には身重の母・ミチヱ、九歳の私、五歳下の妹・優美江の三人がいました。母がついでくれたご飯を食べようと箸を持ったとたん、大きな飛行機の音がしました。私は飛行機見たさに立ち上がって窓を開けました。そのとたん、目の前が真っ白になるほどのものすごい光で、そのあと、爆風が襲い地震のように家が揺れ、ふすまやガラス戸が割れました。慌てて隣の部屋に妹と母の三人で転がり込みました。
それが収まると、好奇心の強い私は、すぐに表に飛び出しました。社宅から猿猴川の真向かいに黄金山が見えるのですが、その右手寄りに煙の柱が見えました。最初はチョコレート色でぽこっと盛り上がって、それがみるみるすごく大きく太くなって、黒い雲になり、ある程度の高さになると、次第に北の方へ流れて行きました。その様子をずっと見ていました。あれがきのこ雲だったのです。周りの大人たちは大変なことになったと騒いでいましたが、私は子どもですから、不思議に怖くありませんでした。爆弾の知識もなく、「ああ、これが爆弾というものか」と漠然と考えていました。それまで、広島にはほとんど空襲はなかったですから。
幸いに母も妹も無事でしたが、近所では天井が落ちたり、ガラスが刺さったりしてけがをした人もたくさんあったようです。
●被爆した近所の女の子を助ける
昼ごろ、私より二つ三つ年上の近所の女の子が一人でよたよたと帰ってきました。袖がちぎれたように皮膚がぶらさがっていました。近くまで来ると、私の方へ倒れかかってきたので、腕をつかんで肩に掛けてその子の家まで連れて行きました。その子の母親が驚いて飛び出してきました。
家に帰る途中に気付いたのですが、その女の子から付いた、焼け焦げた人の油と煤の臭いが自分の体から漂ってきました。その臭いは今も忘れることができません。しかし、その女の子は、三、四日後には亡くなられました。他には近所で戻ってきた人は見かけませんでした。
●父と市内を歩く
八月六日の夜遅くに父が両手にやけどの水膨れができた状態で戻ってきました。何でも、父は八時一五分には鹿籠の監視小屋にいてすぐに伏せたためけがはありませんでしたが、その後、東洋工業の上司宅の様子を見に行くためバタンコに乗り大洲橋を渡ると、道の両側にある電柱や家が燃えており、やけどを負ったのだそうです。
翌七日、父は友人の家が心配だったのか、私を連れて朝から歩いて市内に向かいました。向洋大原から仁保町渕崎に渡し船で渡り、仁保、丹那、翠町、皆実町へと歩きました。そして、御幸橋手前の友人の家が残っているのを見ました。
父は安心したのでしょう、二人で御幸橋を渡って、どんどん北の方角に歩いて行きました。白神社の辺りかと思いますが、道が土手のように盛り上がっている所まで行きました。周りは何もかも燃えて、場所はよく覚えていませんが、焼けた電車や遠くに中国新聞のビルが見えたのが記憶に残っています。焼け跡の中で自転車のリムを見つけ、子どもですから遊びに使えると喜んで持って帰りました。
●大やけどの娘さんを預かる
その後、社宅は工場が近いので、まだ爆撃があるかもしれないと、府中町の監視小屋で暮らすことにしました。その後二、三日して、大八車を引いた五、六人の家族らしい一団から「家に残った大事なものを取りに行きたいので、しばらく娘を預かってほしい」と頼まれました。見ると、全身大やけどの二十歳くらいの若い女性でした。母は「いいですよ」と、板の上に部屋の畳を一枚敷き、蚊帳もつってあげて、その女性を預かりました。
母はしなびかけた小さいジャガイモを私にすりおろすように言いました。やけどに効くと知っていたのか、母はそれを娘さんのやけどに貼ってあげ、見ず知らずの女性を看病しました。約一週間して、家族が迎えに来られましたが、その後娘さんが無事に生き延びられたのかは、分からないままです。
●避難場所となった国民学校で
ここから先、学校が再開されるまでの間のことは、なぜか何も記憶がありません。しばらくして学校が始まりましたが、板張りの講堂には全身大やけどを負った人たちが一面に寝かされていて、看護すると言っても赤チンを流すように付けるくらいしかなく、次から次へと亡くなっていきました。
校庭に八つもの穴を掘って、火葬をしました。私たちはその薪を運ぶ手伝いをしました。引き取り手のない遺体も多くあったようです。その後、食糧難のためその校庭で野菜を作ったりしていると、土の中から骨がいっぱい出てきました。
●終戦の日から
八月一五日、終戦の日、父が昼過ぎに顔色を変えて戻ってきました。「日本は負けた。わしらも殺されるかも分からん」と真顔で言ったことを覚えています。その後、青崎国民学校の校門の前に進駐軍のジープが来て、子どもたちにチョコレートやガムを配ってくれました。私も最初は後ろで見ていたのですが、手を伸ばしたらチョコレートをもらうことができました。
●中学時代の日常
青崎小学校を卒業して、新制の市立第一中学校(現在の段原中学校)に入りましたが、校舎が足らなくて、安芸郡船越町(現在の安芸区船越町)の日本製鋼所の中にあった二階建ての建物を分校のようなかたちで使いました。毎日、授業というよりも作業が多く、運動する場所もなかったので、焼き入れをするための水槽のような大きな池をみんなで土を運んで埋めて、運動場にしました。そんな状況ですから、習字をするにも紙はなく、新聞紙に書いたりしていましたので、勉強がますます大嫌いになってしまいました。
三年生の時に、冬になると頭の先から全身にじんましんができて大変でした。これが原爆のせいかどうかは分かりません。父は七〇歳の時に膵臓と胃にがんが見つかり手術して、それから一三年あまり元気でおりました。
●中学卒業後、鉄工所に就職
卒業してすぐ、一五歳で近くの鉄工所に勤めました。そこの親方は大酒飲みなのですが、すばらしく腕のいい人でした。戦後の物のない時代ですから、鍛冶で工作機械の道具から自分たちで作ったのです。何も知らない私に一から説明していろんな物の加工を教えてくれました。私もそういったことが好きでしたし、興味があったものですから、面白くて面白くて夢中になりました。
半年で鍛冶屋仕事は何でもできるほどになり、一通り覚えた頃、「おまえ一人で、この機械で全部の部品加工をやれ」と言われ、朝から晩まで同じことばかりをやり続けることになって、それがいやで辞めてしまいました。
ちょうどその頃、父が何かの特許を取ると言い出して、東洋工業を辞め、親戚や友達から大金を借金して大失敗。それからが私の苦労の人生の始まりでした。
●電気工事の親方との出会い
二十歳の時、友人の紹介で段原にあった電気工事店の仕事に就きました。とは言っても、私は何も知らないのです。それなのに、もう次の日に自転車に電気工事の材料を積んで民家の建築現場に連れて行かれ、家の間取り図のような図面を渡され、親方は「これ、やっとけ」と言って、その場からいなくなってしまいました。
「どうすりゃええんか」と思案していると、ひらめいたのです。表に建っていた新築の家は配線が済んでいて、まるで見本のようでした。しっかりと見て、「こうすればいいんだ」と見よう見まねで一気に配線工事をやり遂げました。もともと、器用なところがある私ですから、それに助けられたと思います。戻ってきた親方は、褒めもせずにまた、いなくなってしまいました。そんな親方に、借金取りにも行かされました。「おまえならできる」とやらせてくれたのだと思います。何も分からないまま、全て現場で覚えました。今になって思うのですが、こんな私を育ててくれて、すばらしい親方だったと思います。
父は借金だらけで、習ったマッサージの仕事もほとんどなく、妹二人もいるし、住む所も食べる物もなくてぎりぎりの生活でした。仕事をもらっていた建設会社の倉庫が霞町にあり、そこは台所も付いていて、生活できる部屋があることを知った電気工事店の親方が頼んでくれて、安い家賃で入らせてもらいました。家族でそこに移りましたが、今日食べる物にも事欠く状況で、とうとう電気工事店の奥さんに畑で作っている「ジャガイモを分けてください」とお願いしました。「好きなだけ持って行きんさい」と言ってもらい、ありがたいのと、人様に無心をした悔しさとで泣きました。そのジャガイモをゆでて食べましたが、付ける塩すらなかったのです。本当にありがたかったです。
三年半働き、何でもできるようになったおかげで私の仕事ぶりは評判となり、当時の工務店は繁忙期に互いに職人の融通をし合うことがあったのですが、私はどこに行っても引っ張りだこでした。ところが、会社を退社することになって、今まで住んでいた家を出なくてはならなくなりました。建築の仕事に行っていた霞町の家のおばあさんが事情を聞いてくれて、そばの家の蔵を安く借りる算段をしてくれたのです。父親も家の仏壇を売ってお金を工面し、何とか妹の優美江を高校に行かせてやることができました。
●結婚して
やっとみんなを養えるくらい稼げるようになった二七歳の時、母方の伯父の紹介で見合いをして、三歳下の妻と結婚しました。それからは、家庭内でもいろいろなことがありましたが、何より感謝しているのは、六〇歳を過ぎた頃、母が認知症になり、大変でしたが、八八歳で亡くなるまで妻が家で看てくれたことです。
仕事も三菱重工の下請け電気工事をする会社に勤め、担当者にもほめられるほど信用もでき、下請け業者で作る協力会の中国支部会長を無事務めることができました。
●人生を振り返って
何があっても、逃げるのは嫌いなんです。やってみて、できたとなると達成感がありますからね。どんなにつらいことがあっても逃げずにまっすぐ立ち向かうこと。人生振り返ってみて、あの時の貧しい暮らしが宝物のように思えます。貧乏という大変な苦しみの中を生きられたからこそ、今の私がある。済んだことを追ってみてもどうにもなりません。それより、そこからどうやって立ち直っていくか、苦難にどう立ち向かっていくかだと思います。
文句を言ってないで、自らが頑張って立て直す。それが日本人のいいところだと思います。戦後あれだけ悲惨な目にあっても、頑張って働いて、日本はどんどん復興していったではありませんか。
技術を持っていることは、生活していく上でも大事です。世界でもトップクラスの日本の技術を代々伝えて、残していく。それが日本の一番の財産だと思います。技術力を身に付けた人間は、仕事をする前もしながらでも、常に危険箇所を確認して自分の身を守ることを忘れません。これが本当の安全活動なのです。講習を受けて、認定をもらうことではありません。
●平和に対する思い
原爆は悪い。確かに憎いし、二度とあってはならないことです。しかし、どんなことがあっても、終わったことを責め続けるのではなく、自分たちの力で頑張って立ち直っていく。負けてはいけません。この精神だけは若い人たちに忘れてほしくないです。
「原爆はいけない、平和を」と、唱えるだけではだめなのです。心に届く話を若い人にしてほしい。そうすれば、引き継いでいってくれます。必ず。
どうすればいいのか、全世界の人にそれを考えてほしいと思います。みんなが幸せになるためには、いろいろな方向から全体を見て、判断してほしいですね。
今、世の中は競争社会です。そうなると、自分だけが大事、自分の利益だけを考えてしまいます。自分の欲ばかり。そうやって戦争になってしまったのです。大切なのは思いやり。いさかいがあっても、まず自分を振り返る。冷静になって我を抑えて話をすれば、絶対にうまく収まります。 |