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語りたくない思い出 
岡本 泰枝(おかもと やすえ) 
性別 女性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 広島市南観音町[現:広島市西区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 観音国民学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●はじめに
私は一〇歳のときに被爆しました。爆風で飛んできたガラスの破片が七〇年以上たった今も鼻の上に残ったままです。
 
目にした惨状、原爆症に苦しんだ母や先に亡くなった弟のことなど過去を振り返ることはつらいのです。これまで、私の被爆体験について、二人の娘や孫から尋ねられたこともありましたが、語り尽くすことはできませんでした。
 
でも、私の体験、経験を伝えることで、子や孫や他の人たちが原爆の恐ろしさや平和の大切さを考えるきっかけになるのではないかと思い、体験記として残すことにしました。
 
●被爆前の生活
私は昭和一〇年五月五日に、空鞘町で生まれました。昭和二〇年、被爆した当時は、母の楊井ウメ、四歳下の弟幸男と三人で暮らしていました。
 
父熊野次郎は私が小学校に入る前に亡くなりました。戦地で体調を悪くして帰ってきて、二度目の招集がかかりましたが、体調が悪く再び帰ってきて、空鞘町の家で亡くなりました。父は招集される前は舞踊の先生をしていました。父の記憶はあまりないですが、父が踊っている写真を見ると、かすかに覚えている気がします。
 
両親の名前が違うのは、一人娘だった母が、父が亡くなった後、旧姓の楊井へ戻ったためです。私と弟は、母が熊野家からもらい受けて育てることになり、養子縁組しました。私は戸籍上は母の養女になっています。
 
父が戦病死したので、母が働かなくてはいけなくなりました。「戦死したら恩給があるのに、家で亡くなったら何もない」と母は愚痴をこぼしていました。母は、父の兄が勤めていた関係で、相生橋の所にある広島県商工経済会(現在の広島商工会議所)に、清掃作業員として勤めていました。でも、清掃作業員の仕事だけでは二人の子どもを育てられないため、南観音町にある三菱重工業広島機械製作所の食堂でのご飯炊きの仕事に変わりました。
 
昭和一九年、私が国民学校三年のとき、夏休みを利用して空鞘町から南観音町に引っ越しました。私は、本川国民学校から、観音国民学校に転校しました。
 
総合グランドの西側、今の南観音公民館から広島中央自動車学校となっている辺りは、その広大な敷地の中に五、六軒ずつがつながった平屋建ての三菱の社宅がずらりと並んでおり、私たち三人はそこで暮らしていました。
 
疎開の話はあったのですが、「子どもだけが生き残っても後で困るから、どうせ死ぬのなら三人で一緒に死のう」と母が言って、疎開はしませんでした。
 
広島西飛行場があった辺りは当時、まだ埋め立てが完成していませんでしたが、既に埋め立てられた場所にはたくさんの防空壕がありました。あの辺りに住んでいる人が全員入れるぐらいの数があったと思います。
 
広島はあまり空襲されませんでしたが、総合グランドがある辺りには大砲みたいなものが置いてあり、そこから一、二度撃っていた記憶があります。弾に当たった敵の飛行機が墜落し、乗っていた米兵が何人か捕まりました。顔に布切れのようなものを被せられて運ばれていくのを見ました。私にとって初めての外国人でした。

空襲警報が鳴って防空壕へ避難するときは、防空頭巾をかぶっていました。貧しかったため、中が綿ではなく、わらみたいなものが入っていて、布の間から松葉のようなとげが出ていて、被るとチクチクしました。いつも腰から防空頭巾をぶら下げて、寝るときもぶら下げたまま寝ていました。
 
●八月六日
被爆した時、私は国民学校の四年生でした。八月なのにみんな学校に行っていて、夏休みがなかったような気がします。観音国民学校は東観音町一丁目にあり、南観音から通学するのに一時間もかかっていたので、三日に一回ぐらいしか学校へ行っていませんでした。
 
八月六日も、友達が学校へ行こうと誘ってくれたのですが、「今日はお休みするね」と言って家にいました。母も自宅にいました。母は食堂で主に昼食と夕食を作っていたので、その日の朝もまだ仕事に行く前で、割とゆっくりしていました。朝食はまだ食べていませんでした。友達がみんな学校へ行ったので、私たちはどうしようかねと弟と話していたら、空襲警報が解除になったのに飛行機が飛んでいたのです。飛行機の姿は見えていなくて、B二九かどうかは分かりませんでしたが、音だけ聞こえました。不思議に思って、弟と二人で家の中から窓越しに外を見上げるようにのぞいた瞬間、ピカッと光ってドンと来ました。爆風に遭い、私は全身に割れたガラスを浴びました。ガラスの破片で顔や頭を負傷し、傷口から血が流れて前が見えないほどでした。母が包帯の代わりにシーツを裂いて巻いてくれました。弟はたまたま私の後ろにいたので、全然けがをしていませんでした。
 
後に、母が「血が目にも入って目が見えないほどだったのに、泣かんかったね」と言っていました。泣くことすら忘れていたんだろうと思います。怖いというより、あ然としていたのかもしれません。そのときの気持ちは表現できません。
 
家から防空壕に避難する途中だったと思うのですが、黒い雨が降ってきました。血が流れる、黒い雨が流れる、暑いから汗は流れるで、私だけ大変な状態でした。防空壕には入ったきりで、食事も何にもしていません。逃げ込んだまま、音を立てずにみんなじっとしていました。
 
●八月七日
夜が明けて明るくなったら、誰かが「ここの防空壕も危ない。三菱が飛行機の部品を作っとるけ、ここは襲撃に遭う。とにかくどこでもええけえここから山の方へ行きんさい。疎開先がある人は疎開先へ、ない人はどっか行ったら誰かが助けてくれるけえ」と言っていて、防空壕にいた人たちはそれぞればらばらになっていきました。
 
私たちには親戚がなく、避難先がないので、とりあえず己斐の方へ向かいました。途中、橋が落ちてしまっていたので、川におりて潮が引いたときに浅いところを見つけて、張ってあった綱を伝って渡りました。とにかく避難しなければならなかったので、腰の辺りまで水につかりながら渡りました。川は太田川だと思います。このときはまだ流されてくる人はいませんでした。全然人影もなくて、「川がきれいだね」と誰かが言ったのを覚えています。
 
己斐まで来ると、皮がむけたり、頭から血が出たりしている人のほかに、死んだ人もあちこちに転がっていました。必死にはいずりながら逃げていく人たちの中を三人で歩いていきました。

己斐から三滝を越え、山の奥へと進み、現在の安佐南区の方まで行ったのだと思います。私は、吹き飛んだガラスを浴びたままで、手当てらしいことはしていません。病院はなかったし、救護所に行くことも考えられませんでした。早く逃げることが先決で、とにかく行ける所まで山の方へ歩きました。頭や顔から血が出て前が見えず、目だけ拭いて歩きました。血を流している私を見て、「どしたん、お水ぐらいあげるけん、おいで」と親切に声を掛けてくださった農家がありました。そこへ八月一〇日過ぎぐらいまでいさせてもらいました。見ず知らずの人で、名前も聞かなかったです。
 
その農家にはほかにも避難してきた人がいました。家の外へござを敷いて寝たり、死にかけている人は外へ座布団を敷いて寝かせてあげたりしていました。私たちは座敷へ上がらせてもらい、水をもらって足や手を洗いました。私のけがによる出血はその晩には治まっていました。ガラスの破片が入ったとはいえ、傷も浅かったのだと思います。
 
●伯父の捜索
避難していた農家から基町の広島県商工経済会の辺りへ伯父を捜しに行きました。このときは、まだ怖いとは思っていなかったのですが、実際に街へ行ってその様子を見て、怖くなりました。
 
現在の安佐南区の辺りでは家はそれほど崩れていなかったのに、横川辺りでは、見渡す限り建物も人の気配もなくて驚きました。炎は出ていなくて、くすぶっているような感じでした。
 
市内中心部で、窓のない電車を見てびっくりしました。焼けた電車でした。窓ガラスがなく、車掌さんも乗ってないのですが、線路の上をちゃんと走っているようにさえ見えました。
 
相生橋まで来ると、橋の上にも川にも、どこからこれだけの人が来たのかというくらい山のように人が転がっていて、歩ける状態ではありませんでした。自分たちが行こうと思う方向に人が倒れているので、悪いと思いながらも、その背中やおなかの上を踏んだりしながら歩きました。歩いているときに誰かが足を引っ張ってきたり、すがりつかれたり何度もしました。そうして進んでいると、重傷で倒れている男の人が両手でがばっと私の足をつかんで、全く動けなくなりました。すごい力で足をつかまれ、一人では身動きが取れなくて母に引っ張ってもらって振りほどきました。私はびっくりして、すごく怖くて、これ以上行きたくありませんでした。私が「行きたくない」と言っても、母は「義理の兄がいるからどうしても行く」と言い、私が「一人で行って。怖いけん、行きたくない」と泣いても、「あんたらも来にゃいけん、一人じゃ行けん」と母に言われ、結局三人で歩いて行きました。しかし、伯父を見つけることはできませんでした。
 
●被爆後の南観音
避難していた農家の辺りでは最初の頃はそうでもなかったのですが、二日、三日たつとだんだん死体の山が増えていき、すごかったです。
 
少し落ちついてくると、自分たちの家の様子がどうなっているか気になったので、一度帰ろう、ということになりました。「三菱は危ないから、帰らないほうがいいよ」と言われましたが、また農家でお世話になったり、行ったり来たりしていました
 
南観音の自宅は一部が壊れ、ガラスや瓦が飛んでいましたが、建物そのものは残っていました。自宅に戻ってからもけがの手当てらしい手当てはしておらず、血が止まったらほったらかしで、自然にまかせていました。時々痛いなと思うと、ガラスの破片が両腕や腿の前側から出てきていました。破片はけがをした直後から、何時間かたってぽろっと出たり、頬をかいたら取れたりしていましたが、出てきたら取り除かないと痛いので、その都度ガラスを取っていました。戦後しばらくたって医師から言われるまで意識することはなかったのですが、今も鼻の上部分にガラスが入ったままになっています。
 
三菱の社宅があった敷地には、広島市内から運ばれてきた死体の山がいくつも築かれていました。「死体の山を見に行ったらいけん」と母から言われていましたが、何とはなしに友達とそばまで行っていました。上へ上へと死体を重ねて、材木を置いて燃やします。下の方の人の手が動いているように見えるので、水を欲しがっているように思えて、じっと見ることはできませんでした。今でも思い出すと苦しくなります。
 
次々に死体が運ばれてきては焼かれ、まだ完全に骨になっていない上にさらに死体を重ねて焼くということが、寒くなる時期まで続きました。
 
●終戦の日
戦争が終わったことを、ラジオ放送で知りました。私の家にはラジオがなかったので、ラジオがある家に近所の人が集まって、聞こえにくいので音を大きくしたり、「子どもは静かにせえ」と怒られたりしながら聞きました。私はラジオで何と言っているのか分かりませんでしたが、大人たちがうわっと泣き出したので、なぜ泣いているのか不思議でした。大人たちは「戦争が終わったみたいよ」「うそじゃろう」と言い合って、母は「こんな目に遭って負けて、もうちょっと頑張ればいいのに」とおいおい泣いていました。私はそれを聞いて、これだけひどい目にあっているのに、まだやる気なのかと思いました。でもみんなが泣いているので、もらい泣きで少し涙が出ました。
 
まだ戦争に勝てると思っていた人もいたようで、「日本は絶対負けんのじゃ。まだ今からやのに、もう戦争が終わったんか」と怒鳴る人や、「戦争が終わったけえ、よかったのう」と言う人に、「よかったのう?負けとるんだよ、おまえら」と言ってけんかになる人、わあわあ泣いている女の人や、普段大人しいおじさんがこん棒を持って殺気立っていたり、殴り合いがはじまりそうで怖かったことを覚えています。
 
●母の後遺症
母は、九月に入ってからぼつぼつ髪の毛が抜け始めて、「髪をとくたんびになんで毛が抜けるん」と一人で騒いでいました。母はショックだったみたいです。
近所の人から「お兄さんを捜しに行ったけえ、そうなったんじゃないの」と言われ、そのときは、まさか原爆で髪が抜けるとは思っていなかったので半信半疑でした。私たちは八月八日には相生(あいおい)橋の方へ行っていたので、今思うと、それが原因かもしれません。
母の髪は一年以上たっても生えませんでした。帽子などなく、本人は恥ずかしがって、いつも日本手拭いを頭に巻いていました。一年以上たってからぽつっぽつっと少しずつ毛が生えてきましたが、生えそろうまでずっと手拭いで隠していました。髪が抜ける以外は特に母の後遺症には気付きませんでした。割と元気で、弱音を吐かない人だったから、どこかが痛くても言わなかったのかもしれません。
 
●枕崎台風
九月の半ばに大きな台風が来ました。私たちが住んでいた社宅は全部床下まで水が入ってきてくみ取り便所があふれて大変でした。テレビもラジオもなく、あったとしても今のような台風情報がなかったので、台風が来ることが全く分かりませんでした。雨がひどく水があふれてきて初めて知ったので、そのときは原爆よりも台風に突然襲)われたことに恐怖を感じました。
 
●終戦後の生活
 
終戦後も母は三菱の食堂で仕事をしていたので、家族三人はずっと社宅に住んでいました。母は従業員のお昼や残業する人のご飯を作っていて、そこで余ったものを持って帰って私たちがいただいていました。貧しく、家族三人が食べていくのが精いっぱいでしたが、母は明るい性格で、仕事も毎日楽しくしていました。
 
原爆で東観音町一丁目の国民学校が焼けてしまったので、私は三菱青年学校(現在、リョーコーテニスクラブがある場所)で六年生まで勉強していました。その後、観音中学へ入学しました。母が一人で働いていたので、私も中学校からずっとアルバイトをしていました。夏休みに近所のお店屋のかき氷を手伝ったり、夜に近所の子どもをおんぶして子守役をしたりして。スポーツが好きな私は、一年生からソフトボールをしていました。
 
中学校を卒業して、観音中学の前の方にある広島製缶という会社に就職しました。一日も遊んでいる余裕がなかったので、すぐ働き始めたのです。
 
夫とは同じ会社で知り合いました。製缶するブリキに印刷をする職人で、大阪から派遣されて技術を工場の人に教えていました。結婚しても観音に住んでいて、子どもが生まれて家庭に入るまで私は仕事を続けていました。
 
結婚するとき、夫に原爆の話は一切しませんでした。私は被爆しているので、結婚ができなくなるから被爆者健康手帳はもらわない方がいいと母から言われていました。被爆者健康手帳を取得したのは今から二〇年ほど前です。入籍すると、戸籍謄本の生まれが空鞘町なのになぜ、南観音にいるのかという話になり、被爆したことを夫に知られました。でも、すでに子どももいたので、夫婦の間では問題にはなりませんでした。
 
ただ、結婚するときに被爆したことを言わなかったために、夫は親から「何であんな嫁をもらったのか。年をとったら原爆症(げんばくしょう)が出てきて髪の毛が抜けるんじゃないか。子どもにも原爆症が出るんじゃないか」と責められたみたいです。広島で原爆に遭った者同士ならまだ理解できたのでしょうが、県外の人にはなかなか理解できなかったと思います。結局夫とは離婚することになり、私はもみじまんじゅうの箱をつくる仕事に就き、以来五五年働いています。六〇歳の定年後はパートにしてもらって、今でも続けています。
 
四歳年下の弟にも結婚を考えていた女性がいました。しかし、弟も被爆者であるために、相手の親に反対され、結婚できませんでした。独身のまま六九歳で亡くなった弟をかわいそうに思います。
 
私はスポーツが大好きです。バレーボールの選手として、コーチとして活躍しました。長い間、地域の体育団体の会長も務めました。今も、小学生にテニスの指導を続けています。娘二人、孫六人、みんなスポーツを楽しんでいます。
 
●語れない想(おも)い
原爆や自分の経験を子どもたちにも詳しく話したことはありません。私が被爆したことを子どもは知っていますが、孫には「口では言えんぐらいすごかったよ」と言ってぼやかしています。孫から、学校の勉強で原爆の体験を聞かれた時も「ばあちゃんは忘れた。誰かに聞いて」と言って、話していません。六人の孫全員に対してそうなのです。家族と一緒に平和記念資料館へ行ったこともありません。他人なら話を切り上げることができても、家族に次から次に聞かれるとごまかせません。実際に被爆しているのだから、本当は全部伝えてあげたら一番いいのでしょうが……。そう思いながら、話す気になれないまま、忙しい日々を過ごしてきました。あの体験を思い出しながら家族に話すのはとてもつらいことです。でも、八月六日の原爆の日は、娘も孫も全員連れて慰霊碑に行くことを欠かしたことはありません。
 
戦争を知らない人が、戦争を紛争解決の手段のように発言することがあります。原爆の悲惨さを知れば、軽々しく言えることではありません。被爆体験を記録し、残していくことが大切です。どんなことがあっても、戦争だけは絶対にしてはなりません。 

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