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未来への伝言 被爆の体験と証言 
青山 正雄(あおやま まさお) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部潜水輸送教育隊(暁第2940部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
海田市
日本製鋼所広島工場内 矢野部隊派遣隊兵舎内 下記(一)参考のこと
 
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
 
私は昭和二十年一月、陸軍船舶特別幹部候補生(香川県小豆島土庄町)教育終了し、愛媛県伊予三島の暁二九四〇部隊矢野部隊(陸軍潜水輸送教育隊・通称まるゆ部隊)に転属。同年五月迄乗組員として訓練を受けた。同年五月、広島県海田市の(株)日本製鋼所広島工場内・海田市派遣隊に転属。まるゆ1,011号艇の乗組員として同工場にて艤装中であった。
 
(投下時の状況)八月六日の当日は兵舎内にて学科教育があるため集合待機中のところ、突然右頬に強い熱気を感じたので思はず屋外に目を移すと、中庭奥の便所屋根上に大きな火の玉がゆっくりと落下して来た。その直後閃光、大音響大振動が起り、恰かも巨大なガスタンクが一度に数基爆発したかに感じられた。幸い爆心地より約七キロ離れていた為、直接人体に被害は無かった。
 
(爆発後の状況)その後間もなく被爆避難者(歩ける人々)が続々と市内より来り。我が隊にても救護治療に当った。火傷の手当としては、亜鉛華澱粉をオリーブ油にて溶いたものを患部に塗布するが、オリーブ油が不足の為、種油にて溶かした事を記憶してゐる。
 
(広島市内への救護出動)その間、呉の海軍部隊より救護隊が広島市内へ向うのが見受けられた。我が隊も午前十一時頃より医薬品・食糧(乾パン)を携行し、山陽本線沿いに広島駅に至る。広島駅舎の鉄筋コンクリート柱は高さ一〇米附近より折れ傾き、又市内電車のトロリー線支持鉄骨柱さえも瞬間爆風にて約三十度も折れ曲っているのが見られ、その威力の絶大さを物語ってゐた。なにぶんにも火災のため市内へ向う事不能に付、比治山方面に南下し、状況掌握のため同山頂に向った。登山道の両側には真黒に焼けたゞれた死の直前の人々が口々に「兵隊さん水、兵隊さん水」とかすかな声にて求め、その姿は頂上迄続き、特に子供や若い女性(動員学徒)の姿があわれであった。この様な状況にて我々には手の施し様も無く、当日は帰隊した。
 
引続き七、八、九、一〇の四日間は広島駅前より相生橋の間の大通りの死体整理・清掃作業に従事。路面には軌道より外れ屋根が押しつぶされた路面電車や、焼けた消防車、瓦、煉瓦、コンクリート片等にて通行不能の状態であった。尚出動後何日か経過後も腹部が異様に膨らんだ真黒焦げの死体が散見された。
 
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
だんだん戦友が被爆の関係もあり死亡して行くのが大変つらい。
 
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
 
今にして見れば原爆を投下しなければ大東亜戦は終了しなかったかどうか疑問であるが、いずれにしても残酷極まりない攻撃であった。
 
今後再び平和利用の中でも、特に安全に留意しこの様な事が無い様に訴へて行きたい。
 
【「まるゆ」は「〇」の中に「ゆ」と書きますが、環境依存文字のため「まるゆ」としています。】 

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