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青山 恭子(あおやま やすこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所  
被爆時職業 教師 
被爆時所属 広島県立吉田高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
オバマ大統領が、大統領就任直後「核の無い世界にしなければ成らない」と強調された。
 
久々に、少し希望の持てる言葉を聴いた気がした。世界中で一番先に核の洗礼を受けた「広島市」……。一発の核爆弾を受けて、当日だけで一四万人~二〇万人余りの生命を失われたと伝えられた。木造家屋も多い広島市で、街は見る見る内に火の海となったとか?…。水を求めて川に降りそのまゝ還らぬ人になった人もあった。
 
直爆を受け、体のあちこちに、火傷をした儘、広島市から脱出しようと……目的地を決めないで…足の向く儘、芸備線に乗り、下車する駅も決めてなく思い付く儘に下車し……救護所を探し駆け込んだ人も在った。そんな人は救護所へ来た安心感も有ってか元気そうだった人が救護所で二十時間の生命を保たれる人が殆ど無かった。病院へ運ばれた人も、結果は同じ様だった。核爆弾の威力を思い知らされた様な気がした。
 
私は当時現在の安芸高田市吉田町の、毛利元就公の御城の在った郡山の麓に、県立「吉田高女」が有り、女専卒業後帰郷すると吉田町の地方事務所から吉田高女へ赴任の通知を戴き「吉田高女」の教師となって二年目の新米先生だった。勤務し始めは学校に四年生も居たが、二学期頃から学徒動員で、呉海軍軍需工場へ行って、居無くなった。砲弾仕上げの用事をする為に生徒の多くは学校を離れた。
 
工場は呉市の広、宿舎は吉浦に有り、生徒さんは毎日広―吉浦を往復していた。軍歌を唱いながら。宿舎のお世話は女教員が担当。三ヶ月交替で寄宿舎当番に行かなければ成らなかったので校内の職員も男性は召集令状が来て軍隊へ行って数が減り、校内も充分に学校の雰囲気が無かった。戦時中で誰も不足らしい言葉は出さなかった。誰も少し宛苦しい生活なんだから?…。と思っていた。
 
一九四五年の八月六日は朝からよく晴れ、ハンカチの離せない日だった。相変らず天井の低いボンネットバスに揺られ吉田町へ着き、学校へ急いで、教員室の自分の机の上に荷物を置いた直後、青白い閃光が窓外に光った。何だろう。…と不思議に思えたがその後数秒は静かだった。が、七、八秒位経った時だったか?地の底から届く様な音がドドーンとお腹に響く音が来た。光と音の時間差が有ったので近くで何かが起ったので無いだろう…と少し安堵感は出て来た。…と思うのも束の間、二〇秒も経過しない内に、「あっ!B29だ!」…と叫ぶ声が聞えた。「今日は気味悪い日だね!」と誰かの声も聞こえた。
 
B29は校舎の上を旋回しながら北の方角へ去った。B29が飛来しても空襲警報は出なかった。
 
町の役場からも、地方事務所からも学校へ何の連絡も無いので、学校としては、予定通り、出征兵士の家の山の近くの畠の開墾のお手伝に行く予定だったので、そちらを実行する事になった。一年生は十二才で二年生はそれより一才多いだけ、年で人の力や能力は決められないけれど鍬を持って現場迄二十五分余り歩いて行かなければならないので気の毒な気がした。「街の子供だったらしないだろうに」…と思いながら私も付いて行き、当家のおば様に用事の説明をして貰い、畠の開墾をした。夏休で家へ帰っていた生徒さんも有り十五名位だったが真面目に用事をして呉るのでお昼頃には、何とか予定に近い仕事は出来た。私は当家の方へ「上級生は動員で呉の方へ出て居りますので充分なお手伝にならなかったと思いますが、猫の手よりちょっと位良いかも知れません。又御用があれば学校の方へお知らせ下さい。お気に入る程のお手伝が出来ませんが済ません」と述べお手伝の家を出ようとした時、一人の生徒さんが南西の空を指し「あれは何?」と大きな声で叫んだ。皆も視線がその方へ向いた。大きな傘を広げた様な黒い雲が見えた。何だろうねと…皆…解らないと。答が出ぬまゝ学校へ帰った。丁度十二時を廻ったお昼に帰った。
 
昼食を済ませたら、「少し休んでください。自由時間にします。」と教頭先生からのお計らいで、生徒さん達も良い時間を過していた様だった。私は教務日誌を書いたり、雑用も少し片付けている間に一日の勤務時間の終りと成り、「又明日…」と教頭先生の声で、帰り支度と成った。
 
暑い中、生徒さん達も疲れただろうからと、同じ方向に帰る人達同志で組を作り、「怪我をしない様に注意して無事お家に着いてね」とよく頼んで、「サヨナラ」をした。自分の帰りも急がなければならない時間だったのでバス乗場まで急いだ。運良く、バスの出発準備が遅れていて、列車に間に合うかな?…とバスに乗っている人は皆、落着かなかった。「案の定」吉田口駅に着くと列車は出発した後だった。しかし駅前は普段の様子とは全く違う風景だった。
 
いつも列車の出た後は殆ど人影は無くなるのに、六日の夕方には十数人の人が何か賑やかにされていた。よく見るとカッターシャツを纏っては居たが、あっちこち破れたり、千切れたり、半袖から出ている腕の、大変大きい火傷の皮膚が破れ、その皮膚が指先までブラ下り、その手を振り上げ、大声で今朝爆弾が落されて後の数時間の広島の様子を詳しく説明して居られた。時々傷が痛いのか腕の傷を難しそうに見ては「僕の友達も火傷で背中を焼いたが、何処へ行ったかのー」…と、一人言の様に言いながら座り込んでしまわれた。近くに居られた女性二人に列車を待つ間に、この方々を救護所へお連れしましょうか?と、相談し三人で救護所まで案内する事にした。火傷の破れた皮膚を自分で見ながらその手を振り上げたり、ゼスチャーを交え今朝の広島の惨状を大声で伝えられるので倒れられたら私達の手に負えない事になるだろうと…。救護所が近くに出来ましたから、そちらへ御案内します!と女性三人で案内し、救護所で「お名前を聞いたり」、「高田郡に親戚が有ますか?」と聞いたり、本人も少し安心される様にと希望を聞いたり…少しお手伝をした積りで、自分の帰る事も考え、吉田口駅まで行き下り列車を待った。
 
吉田口駅前で今朝からの広島市内の惨状の様子を部分的に聞き、青白い閃光の事、ドドーンと聞えた音、等々いろいろが朧げながら今朝の事が駅前で聞いたお話の中で結び付き、少し理解出来た様に思えた。自分の帰宅の事も忘れた人の様に遅い列車に乗り次の駅だからと思ったのが災いして八時半過ぎた列車で向原駅に着いた。擦れ違いの上り列車には吉田口で逢った人の様に怪我をしたらしい人が重り合う様に沢山乗って居られるのが目に入った。列車から降りた私はフラフラで倒れそうになったが、救護所が降車場近くに準備されていたので、人手も少い様に見えたので一時間程お手伝して帰った。
 
家に帰ったら玄関で私の頭の上に父の雷が落ちた。「帰りが遅い!」…と今迄聞いた事の無い様な声!…。私は何と弁解すれば良いのか分らなかったが「今日広島市へ大変な爆弾を落され、広島市は無くなった様子よ!罹災者が沢山、芸備線で逃げて来られ、その人々の介護や、心の支になってあげられる様に、話を聴いて勇気付けてあげる事も、元気で居れる者の勤だから…」と、私は父へ反発していた。…
 
翌日(七日)いつもの様に学校に着くと…、県庁から「吉田病院で七日から罹災者の介護に携る様に…、と学校へ指示が来て居るので、生徒一三人位でいいから声を掛け介護の仕事を手伝って下さい。」…と言われ、生徒集めに時間が掛らなければ良いがと思ったが幸な事に意外と早く一五人が決り、吉田病院へと…急いだ。吉田病院へ着くと院内のベットは総て片付けられ床に藁で編んだ筵が敷かれ運ばれた罹災者が寝かされて居た。背中を焼かれている人は寝て貰う事も出来ず、机に凭れる様な形で我慢して貰うようだった。私達が日常、料理中に火傷をした小さい傷でも、すごく気に掛るのに背中全面が赤く膨れ上り中に体液が溜っている様な姿を目の前にするだけでも、…私の背中も痛い様な気がした。初日だから先生の姿が見えれば「適切な処方を教えて下さい」と…先生の指導を受けられる事を、喜んでいた。生徒さんの中で、この介護に加った人の中に後日看護師さんになったり、薬剤師になった人も数人有り、此の介護から出発したのかもしれないと思った。
 
世界で始て核爆弾の被害を受け、罹災した人も、とてもお気の毒だった。私達には核爆弾がどんな物か理解出来ないが、体内の臓器はどんな影響が有ったんだろうと疑問を持った。罹災者の内殆ど怪我も受けて居られず、動作もお話も元気そうに見えていた人が、翌日火葬場行きに成られる方が多く、介護する者の力も抜けて仕舞そうな気がした。介護の日を重ねるに従って少し宛でも元気が出て呉れば「私達も頑張らねば」…と気も引き締るだろうが、毎日火葬場へ送る人の方が多くては、気持も引締らなくて悲しい思いが溜るばかりでは困ると、つまらない心配をする私だった。生徒さんは、不平も言わず、毎日独楽(こま)の如く良く動いて御世話してあげて呉た。どんなに介護の方で頑張っていると思っても、毎日火葬場行きの人は絶えない。やっと気が付いた様に、「核爆弾って恐ろしい物だね!…」と会話の中に度々言葉が出て来た。八月八日、二日目の介護も終り「また!ネ」と病院の看護師さんと交替し、帰途に着いた。
 
吉田口駅で列車に乗ると女学校時代の同級生と逢い、女学校時代の友達の話の事が出て、仲良くしていた「Kさんが相生橋の上でうろうろしていたのに出逢ったがどうなったかしら?…」と話され、それを聴いた私は偶然と言う事が有るかも知れないと思い向原で下車せず広島駅迄行った。夏の陽長とは言え、広島駅に着いた時は陽は落ちていた。
 
市内の地理を充分に知っていない田舎者が大胆にも、電車道を伝って行けば相生橋の方へ行けるだろう…と、歩き出し五分位歩いた時、右足首を誰かに掴まれた。その力はとても強い。不意の事でもあるし、思わず私は「何ですか?…」と叫んでいた。「手を放して下さい…」と言っても放さず「水を下さい!」「水を下さい!」と何度も言われた。「此の近くに飲める水が無いようだから飲める水を探します!―」と言うと、「ほんまじゃのー!」と何回も、何回も言われやっと足首を掴んだ手を放して貰い!歩ける身となった。田舎者の私が何処に水道の蛇口が有るか解らないのに…ようこそ手を放して貰えた!恐しい!と、私の足は広島駅へ向っていた。
 
駅には水道の蛇口も有が、水を入れる瓶も無いし、水を所望された人の居場所が私には、もう分らない。こんな事で、従姉や友達を探し得ない事が納得出来たので、向原へ帰ろうとし、広島駅へ着くと丁度「上り列車芸備線、三次行き」が有ったので、列車の人となった。帰る列車の中でも「水を下さい」と言われた声が何度か浮び、水を見付けられなかったのが、良かったのか?…悪かったのか?…私の頭の中は混乱した。本人が水を欲しがっても、時と場合に依ては、体の為に飲さない方が正解の場合も有る様で……飲んで命を落されたら与えた方が悪い立場になる…と思い、水を持って行かれなかったのは、良かったのかも知れない!と…自分を慰めておいた。
 
被爆七〇年を迎えようとする日が近付いた今、思い出したくない一件では有けれど…
「不親切だったかな?」…と責められている様な気もするが。…終わった事を悔いても、どうにもならない。…と割り切る事にする。
 
何時の日だったか、テレビで多田富雄先生が平和公園の中の慰霊碑にお詣りされ、「我々化学者が作った核が此の様な形で多くの方々の生命が奪われてしまって済ません」…と…慰霊碑に合掌されたのを拝見した。先生の頬には涙が留処無く流れていた。その画面を拝見しながらこちらも貰い泣きした。今思い出しても優しいお心がまた私の目頭を濡らす。
 
私達の七日から吉田病院での介護も十一日迄続いていた。十一日午後二階から一階へ急いで居た私は、珍しく院長先生とお会いした。その時院長先生は「御苦労さん、お盆も近くなったし、二、三日お休をあげます。又声を掛けたら、お願いしますよ」…と言われた。お休みが頂けると生徒さんも嬉しそうだったが、私達の心は火葬場の方へ向き、絶え間なく天に昇って居る煙を見て居た。偶然ではあるが、私は何故?…と考えた。皆、少し深刻な顔をしている様に感じた。何故?…と考えているうちに、私の頭を横切った生徒の心配そうな顔があった。その顔を見ながら考えた。あの顔は三日お休をして次に来た時に今日御世話した人の顔が見られるだろうか?「その心配顔」の様に思えた。
 
八月七日、初日に吉田病院へ送られて来られたおじ様の左足踵の傷が化膿し始めてから少し時間も経ったので、メスを入れると医師が言われ、私達も手伝わなければならなかった。六日原爆が落ちた時家から建物の無い所へ行こうとして踵で大き目のガラス片を踏込んだ…と言って居られた。
 
先生のメスが入ると大量の膿が出て、皆どうしたら良いですか?と落付かなかった。
 
先生も意外だったのか、漸く考えて居られた。中位の膿盆へ受け切れない位、多量の膿が出た。白血球の活躍で傷の化膿が出来、体内の黴菌を体外に出す役目をする、と聞いていた私は、…体の中の悪質な物が体外に出され、此のおじ様は元気になられるだろうと思った。
 
明日から二、三日は吉田病院へ来ないんだ!と思うと、罹災されて病院に運ばれた人達の事も気になるし、私達の体も少し休めておけ…と言う事なんだろうと思い、休ませて頂きます……と自分で納得!帰り支度を…と思っている時…、又新しく車が着きました。……と看護婦さんの声が聞えた。着かれた人は女性で、若い方だった。担架に乗せられている人の顔を見て私は驚いた。京都で学生時代、同じ学校の一年先輩の方だった。課は異るが広島市の方でよく覚えて居た。私の方から、お名前を尋ねた。「中原さんですか?」と私が尋ねると、「ハイ」と…小さい声が返って来た。私の名前も「福間さんネ」と言って下さった。こんな偶然って有るの?…!と言いたいようだった。もう一つ頭の中を走ったのは、今日踵の傷を綺麗にして貰われた方は、此の人のお父様だ!と気付いた。毎日私と目が合う度に、家族の不明を嘆かれて、爆弾が落ちた日の事を話される時寺町の「真行寺」と言われた。お寺の名前を耳の底に止めていたのを思い出した。間違い無いと自信が持てたので、娘さんの方へ…「ちょっと待って下さいね、お逢いして戴きたい方をお連れしますから」…と。お父様の処へ私は移動しようとした。親子対面が実現するんだ…と思うと、私の胸がドキドキして居た。少し間を置きお連れするのも…お互を驚かしては駄目だし…と少しの間考えた。私なりの方法で…と思い私の台詞を考えた。七日に吉田病院に来られて毎日の様に、私の家族は皆居なくなった……と諦めて居られるので刺激的にしては駄目、おじ様の娘さんだと自信が持てた私の言う台詞で、考えたが良い案も浮ばず、お父様の所へ行き「先程、私の学生時代の知人が吉田病院へ運ばれて来られたのですが、お逢いになって下さいますか?…」と正しくも無い作り言葉になってしまったが。聞くと、「貴女の知人なら逢わせて下さい。私の家族は皆何処へ行ったか分からんのですから!」と言われた。此の台詞は八月七日からずっと毎日聴かせて頂きました。…と言いたい程だった!が
 
「手術された足の方は大丈夫ですか?今日は痛くて駄目でしたら少し良くなられてからでも…」と言ったが…御本人は「大丈夫!」と言われ特室に入られた御部屋の前までそろそろと御案内した。お部屋のドアが少し開いて居たので部屋に入られる前に「お!…」と声を出された。親子対面が出来て良かった。…同じ病院に運ばれても逢えなかったと言う事も有るのに良かった…と私の方が自己満足に陥っていた。
 
「片付けが残って居ますので私はちょっと失礼致します」とお部屋には入らなかった。病院のお薬や包帯等を整頓した。お休みを二、三日と言われたので片付けておかねばならないと思って頑張れたのであろう。少し病院にも馴れた(気持的に)様な錯覚が有ったかも知れない。帰り支度を済すと看護婦さんが「又来て下さいねー」…と見送って下さった。
 
バス、列車も順調に乗り継ぎ帰宅。家に着くとすぐ「明日から三日間お休み!」と言って夕食を戴いていると、玄関へお人が来られ、「吉田から恭子さんへ電話が掛って居ますから来て下さい。」と呼びに来て下さった。当時は各家に電話が無かったので「はーい」…と箸を置き、四十メートル程を走って受話器を持った。「明日二食分のお弁当を持って学校へ朝八時までに来る事。広島市内の看護動員で市内で十日余りを手伝って貰うので着替も少し用意して下さい。県庁からの通達です。」…と。 

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