今から七十四年前、当時私は爆心地から二キロの旧広島工業専門学校の学生でありました。
昭和二十年八月六日の朝八時頃、警戒警報解除の状況下でした。まだ眠っていた学友のM君を南竹屋町の下宿に「一足先に行くぞ」と言い残して私は駆け足で学校に向かいました。
実験室に着いて、ブンゼンバーナーに点火する瞬間でした。右の頬に強い衝撃を感じたとたん、両窓からは猛烈な閃光とザーッという音と爆風が起こりまして、とっさに実験台の下に潜り込みました。
暗闇の中、薬品の臭いと天井や壁の崩れ落ちた埃が室内に充満して、気が付いた時には白衣が真赤に染まり背中に痛みを感じましたが、何とか外に出ました。
外には悲鳴、怒号の叫び声を上げながら逃げようとする人たち、腕や手の先から皮膚が垂れ下がりながら歩く人たち、どの顔も血に染まり腫れあがっていて、水を求めて川に飛び込む様子など、言葉では言い尽くせないほどの正に地獄絵でありました。
当時広島市内には家屋疎開勤労動員といいまして、空襲があったときに重要施設への延焼を防ぐ目的で、家屋を撤去し防火地帯を作るための作業をする人たちが数千人いました。広島でも本当に大勢の中学生がその作業にあたっておりまして、途中渡った御幸橋にも一列に酷い姿で蹲る中学生が沢山いました。みんな水を欲しがっていましたが、どうすることもできず断腸の思いで通り過ぎようとした時、蹲る人たちの中に背中側半身、足の皮膚まで垂れ下がる友人T君を見つけたのです。私はT君の自転車に彼を腹這いに乗せて、幸いにも山の向こうで被曝していなかった戸坂にある彼の実家に運びました。途中不気味なキノコ雲を見ましたし、黒い雨にもあって白衣には黒い縞模様が出来ていました。
翌日、下宿の学友M君を探しに戻ったのですが、途中練兵場の側溝には鉄兜を冠った軍人達が黒焦げで一列に並んでいました。市電の中には吊り革に手を伸ばしたままの黒焦げの遺体が立っていました。思い出すのも辛い光景ばかりでありました。下宿は探しましたが一面瓦礫の中で諦めざるを得ず、原爆投下の十五分前に別れたM君の消息は後に彼の郷里に尋ねて行ったものの、結局分かりませんでした。
今月、日本は令和という新しい時代を迎えましたが、昨今の世界情勢は核廃絶には程遠く、とても不安な状況であると感じます。
本当に私は、たまたま運よく生かされた被爆者の一人として、強く核廃絶を訴えたいと思っています。
令和元年五月十五日 平和行進 出発式にて |