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広島ー原爆の記録ー 
P. アルペ(あるぺ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 イエズス会長束修練院(安佐郡祇園町[現:広島市安佐南区長束西二丁目]) 
被爆時職業  
被爆時所属 イエズス会 長束修練院 院長 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
(アルペ神父は元イエズス会総長として現在ローマにおられるが、当時、広島郊外長束にあるイエズス会修道院の院長ならびに修練長だった。この記録は二、三ヵ月ばかりのちに、アメリカのカトリック・ダイジェストのために書かれたもので〈Catholic Digest, April 1946〉、原爆直後の記録として特に興味深い。なお、アルペ神父はイエズス会に入るまえ、医学を勉強したおかげで負傷者の応急手当に大活躍したのである。したがってこの体験記にも医学的な見方が強く出ている。)

それは1945年8月6日の朝、8時15分ごろのことだった。そのとき、私は修練院の北側にある自分の部屋にいた。空襲警報サイレンが二度、B29の通過を告げたが、爆弾が落ちてくる気配はなかった。と、突然、強烈な爆風が建物全体をゆり動かした。梁がめりめり音を立てる様子は、まるで強い地震にあったときのようだったが、その衝撃は、下からではなく横から襲ってきたのであった。そして同時に、南側の窓ガラスは一枚残らず粉々に砕け散り、ドアというドアは、みんな廊下の方へはじけ飛んでしまった。本箱や戸棚や机は乱暴に投げ出され、瓦は屋根から落ち、壁にはひびが入り、聖堂の三本の重い柱は真ん中から折れた。まもなく家は大混乱におち入った。

そして突然、すべては静かになった。家中に舞い上がっているのはほこりだけ。幾人かは恐怖に青ざめ、血をしたたらせながら廊下に出た。私たちのうちの多くは、町の上に巨大な赤黄色の炎を見て、爆風が来るまでに数秒間あったので避難することができた。こうして、飛んできたガラスの破片で顔にけがをしたのは一人だけで、幸い重傷者は出なかった。やがて、私たちは外へ飛び出し、至近距離に落下したにちがいないと思われたその爆弾による被害状況を見に行った。しかし、どこにもその着弾点を見つけることが出来なかった。にもかかわらず、誰一人として、それが三マイルも先のことであろうとは考えてもみなかった。

私たちの修練院の立っている丘の上から見下ろすと、どの家の屋根からも火の手が上がっているのがみとめられた。町に近いほど、その火勢は強いように見受けられた。数分後には、黒い煙の雲がわき上がり、ますます暗さを増しながら、やがて空全体を覆ってしまった。そしてその空から大粒の雨が降ってきたが、そうした情景は、今なおありありと脳裡に焼きついて離れない。雷鳴がとどろき、稲妻が走り、黒雲は町の上に渦巻き、まるでハリケーンの来襲のようであった。私たちは最初の一機の後には飛行機を見かけず、また焼夷弾の落ちた様子もなかった。時折り爆発音が聞かれたが、大部分は爆薬庫の誘爆のように思われた。次第次第に私たちは、落ちたのはたった一発の爆弾らしい、ということに気付きはじめた。

私たちはまだ、自分たち自身の傷の手当てをしたり、家を直すための応急処置でいそがしいうちに、避難民の最初の一団があらわれた。そのほとんどのものが怖ろしいやけどを負っていた。最初にやって来たのは女工さんたちだった。続いて親を求めて泣き叫ぶ子供や、倒壊した家々の下からやっと這い出してきた半狂乱の老女や、隊列をすっかり乱した一隊の兵士たちがやってきた。彼らの焼けこげた衣服は、ぼろぼろになってたれ下がり、露出した肌のあちこちは火ぶくれにはれ上がり、他の部分は赤やら紫の色をした斑点に覆われて、やけどで黒ずんでいるところさえあった。恐怖にゆがんだ顔は、まるで地獄から逃れてきた人のようであった。彼らは苦痛と怖ろしさにふるえ、体力を消耗して放心状態となり、床の上に身もだえしていた。

ここには、わずかばかりの救急用のものを除いては全く薬の持ち合わせがなかった。今こそ私が修道会に入る前に身につけていた医学の知識を生かすべきときであった。私たちは、直ちに図書室と談話室を病室に、そして、院長室は手術室にあてた。患者の数はどんどん増えてきた。かれらは家を破壊され、すべての財産を焼かれ、迫り来る夜に雨露をしのぐ場所さえこと欠いていた。そこで、私たちは大きな聖堂までも難民のために解放しなければならなかった。夕方ごろには、予期していなかったこれらの客人が増えて、二十人ばかり収容できるように建てた修道院には、八十人もの人々を収容しなければならなかった。

そうこうするうちに、市内からやって来た修道女たちが到着した。彼女らの家は原爆によって倒壊したのではなく、火災で焼け出されたのであった。シスターたちは全員無事で、そのうち一人だけが手に軽いやけどを負っただけだった。

とうとう私たちは、もうそれ以上受け入れることが出来ない状態になった。市内から郊外へ通じているすべての街路には、気の毒な人々の列が切れ目なく続いていた。この絶え間のない行列の中で、半ば焼けただれた人影は、彼らの足が彼らを運べる限り遠くまで、あの恐怖の地から離れようとして、よろめきながら進んでいるのであった。町にあったほとんどすべての自動車は火災で破壊されていた。郊外電車は電源を失い、線路もあめのように曲がっていて使いものにならなかった。私たちの幾人かは、重傷者をもよりの救護所へ誘導するために急いで出かけた。

そこでやけどの処置の適切なやり方について問い合わせてみたが、医師たちは、この種のやけどは今まで見たこともないもので、答えることが出来ないという返事だった。それはどうも熱や火災の直接の影響によるものではなく、皮膚組織のかなり深いところまで、時には骨にまで及ぶ何らかの輻射線の影響によるものらしいということであった。最初の数日間は、薬やガーゼのたぐいは全然手に入らなかった。全市が一度に火災に見舞われたから、多数の医師が死亡し、あるいは負傷したのである。病院という病院はそのすべての物質と共に焼け落ちていた。郊外でかき集めてくることの出来た医薬品の量はきわめてわずかだったので、最初の日のうちに手当てを受けることの出来たけが人の数はごくわずかしかなかった。

午後になって、やっと私たちは市中にいた同僚と連絡をとり合うことが出来た。この教会は爆心地からわずか5、600メートル(実際は1キロメートル――編者注)しか離れていなかったが、このがん丈に建てられた家は、爆弾による倒壊を免がれ、あとから火災で破壊されたのだった。同僚のうち二人は重傷を負ったが、他のものはみな軽いけがで済んだ。

火災が或る程度下火になった日の夕方、私たちは二つの担架をかついで、倒壊し燃えている廃墟の中を通りぬけて、教会の同僚が避難所を求めて待っている場所へ急行した。そこ、つまり火災でほとんど完全に破壊された公園のなかでは、生き残った民衆の小さな一群が雑然と集まり、人々の援助から完全に見放されたまま、青天井の下、生きのびるための必死の戦いを続けていた。彼らの家々は、爆発で一瞬のうちに破壊されていた。今ここにいる大部分のものは、大声で助けを求めて叫びながら、焼け死んでいった家族や隣人をあとにして、命からがらにげてくるほかはなかったのである。この地域では、約三〇パーセントの人々が生き残っていたが、もっと爆心地に近いところでは、ほとんど誰も生きて逃れることは出来なかった。そこにはただ二つの可能性だけしかなかったのである。つまり、倒壊家屋の下じきになって死ぬか、あるいは、もしたまたま路上にいた場合には、原爆の放射能で一瞬のうちに焼き尽くされてしまうかのどちらかであった。あちこちに胸を打つ光景が展開されていた。或る者は、自分の愛するものの屍にとりすがり、あるいは瀕死の親しい者を見いだしてとほうにくれていた。そして、よそ目にもいっそう感動的だったのは、互いに死んだものとあきらめていた者同士が、無事再会のよろこびを分かち合っている様子であった。

私たちが、この不幸な町の燃える廃墟を通って帰る道々見たものは、同じ恐ろしい光景であった。町の中心部では、昔のお城のあたりから夕闇迫る空に炎が燃え上がり、まるで巨大な炬火のようであった。うすくらがりの中のここかしこから、傷ついた人々のあえぐ声が、そして水を求める叫びやうめきが聞こえてきた。これらの不幸な人々にとって、いやし難い焼けつくような渇きは、傷の外的なやけどよりも一層たえがたいものだったのである。からくも火災をまぬがれた空地には人々の助けの手も届かぬまま、苦痛にさいなまれつつ横たわっている多くの人影がみとめられた。彼らの衣服はほとんど燃えてしまい、彼らのかみの毛は焼けちぢれ、身体の多くの部分はやけどで赤やむらさきに変色していた。彼らは、真夏の三十度以上の暑さにもかかわらず、悪寒にうちふるえていた。燃えさかる家からのがれるために、或る人々は、消火のためにいたるところに備えられた水槽の中へ身を沈めたが、それはむごたらしい窒息死に終わったのであった。

私たちは家にもどると直ちに、ここに避難所を見いだした多くの負傷者たちの世話をするという重大な任務と取り組んだ。まず第一に、傷口を泥土とうみからきよめねばならなかった。それから傷口をガーゼで覆い、それを薄めた硼酸水で絶えずしめらせておかねばならなかった。しばらくおいて、ガーゼをとりのぞくと、その間に生じていたうみが一緒に出てくるのであった。この治療は非常な苦痛を伴うものであったので、たびたび傷をしばらくそっとさわらずにおくほかなかった。しかし、それでもこの方法によって、彼らは少しずつ快方に向かっていったのである。或る種の傷は、三ヵ月半たっても完全には治り切らなかった。もし傷口を絶えず清潔にしておかなかったら、敗血症にかかってしまったにちがいないのである。従って、このひどい患部の包帯をきちんと取りかえるために、絶えず看護しなければならないのであるが、そのために働いたシスターたち(それは援助修道女会のシスターたちであったが)は全く英雄的であった。このような治療法で、私たちのもとに身を寄せていた難民のほとんどすべてを救うことができた。一人だけ死者が出た。それは九歳の少年で、死因は火傷ではなく脳膜炎であった。

これとは対象的に、公立の救急病院では、病室をはじめ、医師や看護婦や医薬のひどい不足のため、おびただしい数の患者の大部分が、ぼろぼろの衣服をまとい、ベッドやふとんもなく、ガラスの破片などをお座なりにそうじしただけの板じきの床の上にずらりと横たわり、自分の治療の順番が来るまで、何日も待たなければならないのであった。私たちが手押し車に乗せて病院へ送り届けた重傷患者の中で、ただ一人も生きて再び会えたものはなかった。むしろ、私たちの仕事は、彼らのなきがらを引きとって葬ることだったのである。これらの犠牲者の大部分は、日本の習慣に従って火葬された。来る日も来る日も、多くの場所で、火葬の炎が燃え上がった。たちまちのうちに、火葬に用いる薪が足りなくなり、また火葬をしてくれる人を見つけることも出来ない状態になったので、ついには最悪の事態を避けるために、私たち自身で火葬場人夫の役をしなければならなかったほどである。

病者のうちの或るものは、苦痛を和らげるために、自分の手で傷口を油と紙で覆った。こうして空気を遮断するかさぶたが自然に出来上がった結果、その下の傷は化膿していった。こうして短い時間のうちに、うみは皮膚組織全体に毒素をまわらせ、それがやがて敗血症に発展して確実に死に至るのであった。

時ならずして、私たちから受けた適切な傷の処置のしかたの評判が近傍一帯にひろまり、その結果、私は多くの家庭に招かれることになった。原爆はほとんど例外なく、どの家からも犠牲者を要求していたが、その多くは、登校途中の子供たちや、普段どおりの仕事に従事していた労働者などであった。

彼らはある場合には、まずキュウリの汁を塗って傷口を洗い、それからそれを閉じるために、一般にききめがあると思われているジャガイモをすりつぶしたものと灰をかぶせていた。これらすべてのものは、うみとまざり合って、動かすたびに苦痛を与えるかたいかさぶたを形成した。最後に傷全体が油で覆われた。こうして傷口は閉じ、もはや苦痛は感じられないようになるのであるが、そのかさぶたの下では、大量のうみが生じ、もし手おくれになる前にとりのぞかれないと、身体の組織全体を毒素で犯すのであった。

また、或る患者のもとへ真夜中に呼ばれていった。親類のものたちは傷はもう治ったと主張していたが、患者は四十度の高熱を発し、明らかに危険な状態にあることを警告していた。私は彼らに傷を見せるようにと言った。その人の胸部は黒い灰で覆われていた。私がちょっとかさぶたを押すと、直ちにどっとうみが流れ出たのである。

数週間の後、やけどは少しずつ治りはじめた、ところが、又も、他の恐るべき病気の症状が現れはじめた。それは私たちになお大きな驚きを与えた。爆撃のとき市内にいて、わずかにやけどを負っただけの人や、やけどまでもいかなかった人の多くが、突然、一般的な健康の不調を訴えはじめたのである。彼らは四十度を越す原因不明の高熱におそわれた。鼻血が出、歯ぐきからも血が流れ、毛髪が抜けはじめた。歯も抜け落ち、下痢で体力が消耗していった。これらの徴候は、神経中枢の、突然でしかも異常に強烈な障害がおこっていることを示していた。さらに、それは白血球の数の減少によって引きおこされたものと考えられた。また或る者たちは突然、のどと食道に、あらゆる食物を通すことを不可能にするほどの障害をおこしてひどく苦しんだりもした。これがいわゆる原爆病であった。中には牛乳その他のビタミンの多い食物や、あるいはビタミン剤の注射などによって、こうした苦痛から救われたものもいた。明らかに原子の核分裂に伴う放射線がこれらの病症をおこさせたのである。

ひどい苦しみにもかかわらず、広島の人々はじっと耐え続けた。私は、彼らがこの危機に抵抗するやり方の静かさを賞賛しないわけにはいかない。東洋的なあきらめの精神が彼らを助けた。多くの人人は、このような犠牲がより平和な未来を保障するものとなるにちがいないという考えで、自分をなぐさめていた。

彼らは、憤るよりも悲嘆にくれていたように見えた。

次の文は『聖心の使徒』1981年6月号の「御聖体の思い出」と題するアルペ師の談話の一節である。被爆直後、長束の修練院に運び込まれ、あるいは救いを求めた多くの重傷者が癒されたことは、他の収容所の状況と全く異なるものとして、いわば伝説的になっている。その事実を、この一文によって理解することが出来るのではないだろうか。

ここで、もう一つの全く違った事情のうちに挙げたミサを思い出す。このミサこそ私たちのために苦しみを受け十字架上でご死去なさったイエズスが、苦しみのさなかに救いの恵を与えてくださることを教えてくれた。

1945年8月6日朝8時15分。最初の原子爆弾が投下された。その一瞬に広島全市が破壊され、家という家は灰の山と化し、八万人もが即座に殺された。郊外にあった私たちの修道院は、残された僅かな建物の一つであったが、ひどく傷んだ。強烈な爆風のため窓は一つも残されず壊され、ドアは吹き飛ばされてしまった。

その日、私たちの修道院は病院に変わった。聖堂の広間に約二百人の負傷者を収容し、できるだけ彼らを助けようと努めた。その翌日、死者を埋葬し負傷者を世話するに先立って私は朝早く五時にミサを挙げた。確かに、もっとも困難なときに私たちは神にすがり神の助けが如何に必要かを密接に感じるのである。

言うまでもないが、その日のミサは信心深く祝うような環境ではなかった。聖堂の半分は壊されており、祭壇の間近にまで負傷者があふれていた。彼らはそのまま床の上に横たわっていて、ひどく苦しんでいた。

私はできるだけ落ち着いてミサを始めた。いま祭壇の上で何が行われているかを全く知らないこの人々のあいだで。私が「主は皆さんと共に」を唱えて人々の方へ向かった時(あの時、ミサはまだ会衆に背を向けて行われていた)、どれほど大きなショックを受けたかを今もなお覚えている。この人間の残酷な悲劇を目の前に、私は動けなくなって手を広げたまま立ち止まった。なんと、人類破壊のためになる人間の知識と技術の進歩!

人々の目はみんな私の方を見ていた。恐怖と失望に満ちた目。しかしこの祭壇から慰めと救いが与えられてくるのを待っているように、実に恐ろしい場面だった。あと僅か数分たてば、かって洗者ヨハネが「あなたがたの知らない方が、あなたがたの中に立っておられる」と指して言ったあの方が祭壇の上に居られるだろう。

イエズス・キリストを知らない人々は、どんなにか孤独であることを、その時ほど感じたことはなかった。ここには、彼らのために自分の生命を犠牲になさった救い主がおられるのに、彼らは知らなかった。この大勢の中でそれを知っていたのは私一人であった。おのずと私は、あの原子爆弾を落とした残忍な人々のために「主よ、何をしたか知らないから、彼らを赦し給え」と祈った。また、私の前に横たわって体中のやけどで苦しんでいるこの大勢の人々のためにも「主よ、彼らの目が開かれるように、彼らに信仰を与え給え。その苦痛を耐え忍ぶために、彼らに力を与え給え」と願った。そして聖変化になってキリストの御からだをこの人々の苦しんでいるからだの上にあげた時、私は心から祈った。「わが主よ、我が神よ、この牧者なき羊の群れを憐れみ給え、主を信じる恵みを与え給え。彼らも主を知らなければならないことを覚え給え。」

その時、多くの恵みがこの祭壇とこのホスティアから人々の上に流れていくと確信していた。六カ月後、彼らがみんな健康をとりもどして(死亡したのは二人だけであった)家にかえったとき、何人かは洗礼を受けていた。しかし彼らみんなは、キリスト教的愛こそが真の同情をもち、人間の助け得る以上に慰めを与え、また自分の苦しみのさなかにもほほえみ、その苦しみの原因となった人を赦すことができる、といくらか解ってきたのである。ほんとうにこのようなミサのあいだに、信仰なくして理解できないことを神の光によってわきまえてくる。すなわち苦しみの価値と愛の偉大さとである。

出典 カトリック正義と平和広島協議会編 『戦争は人間のしわざです』 カトリック正義と平和広島協議会 1991年 68~76頁
  

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