国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
修道院の庭で 
伊藤 清子(いとう きよこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1990年 
被爆場所 煉獄援助修道会(援助修道会)(広島市楠木町四丁目[現:広島市西区楠木町四丁目]) 
被爆時職業  
被爆時所属 煉獄援助修道会 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日、この日は教会の中ではキリストのタボール山上での変容の祝日に当っていた。朝六時三十分から始ったミサの間に警戒警報がなったが、七時すぎミサの終る頃にはそれも解除され、眞夏の暑い陽ざしのもとにわたしたちは一日を始めようとしていた。朝食後、わたしは朝の念祷をするために家のうしろの空地にべンチをもって行き、祈りを始めた。当時わたしたちは共稼ぎの家族の幼児のための託児所をして居り、戦時中とて疎開などで子供たちの数はへってはいたが、それでも毎日、二、三十人の子供たちが朝から夕方迄来て居り、その朝も、園庭で「先生お早よう」と大声で挨拶する子供たちの声が少しづつきこえてきていた。突然頭上に屋根瓦がバラバラとつづけておちてきた。「地震」とっさにそう思ったが地面はゆれていなかった。「爆弾だ」そう思って次を考える余裕もなくわたしは地面に平伏した。途端にまわりがまっ白に輝いた。熱さ、光り、手で顔をおおい、目をとじても光りはさすようであった。何秒間だったのだろうか、しかし次に来たのはまったくの闇黒だった。何も見えなかった、そして頭の上、体の上、どこにでも瓦、土砂が降って来た。わたしはもう死ぬと思い、祈った。すごい音だった。やがてすべては静まった。全くの沈黙、何か死を思わせる静けさだった。そっとわたしはおき上った。生きているのだ。瓦が当って唇の辺が少し出血していたがポケットからハンケチを出してそこにあてる力をまだもっていた。修道院の他のメンバーはどうしたかしら、私は瓦れきで一杯になっている道路を通り前庭へ出た。七名いた全員が一人一人出てきた。みな土まみれで何だろうかと問いあっていた。その中の一人は聖堂から血まみれの姿で出て来た。ガラスの破片が顔にささったからであった。どこからもえ出したか、その時まで分らなかった火が修道院の塀をこえた裏の空地の麦束につき、大きなほのほの山となって修道院の方へ向って来る。丁度ミサを終え食事をすまされたイエズス会のP・コップ師は、首のところからひどい出血をされていたが「もう聖堂に火がついています。早く逃げなさい」そう云い終られてご聖体を出すために聖堂に入られた。わたしたちは園庭を横切って道路に出た。そしてそこでわたしたちは死んで道端に倒れている人達を何人か見た。殆ど衣もつけないで眞赤に焼けただれたような人たちだった。まわりの家々はもう燃えていたのでわたしたちは近くの太田川の土手にいそいだ。川端は一杯の人だったし、道路も一杯の人だった。お互いにどうしてよいか分からない状態だった。そしてその中には髪の毛をふりみだして子供の名を呼んで走る母親たちの姿も見えた。川のほとりに行くと空にはむくむくと赤、紫などの雲がうかんでいた。異様な雲、そして空には太陽が輝いているのに突然はげしい雨がふってきた。わたしたちは近くにあった竹林の中に避難した。その上、飛行機の爆音がする。今度は何がおこるのかしら、しばらくする内に首に血のにじんだタオルをまいた神父様がこられ、「もう修道院はやけました。ご聖体は防空壕にうめました。さあ、長束の修道院へ行きましょう。」神父様についてわたしたちは新庄橋をわたり長束への道をあるいた。道は一杯の人だった。「たんか」にのってかつがれて行くけが人、なき叫ぶ子供たち、道端のわらぶきの屋根は火がついてもえていた。怖ろしい光景だった。十二時少し前位にわたしたちは長束のイエズス会の修道院の下までたどりついた。院長のアルペ神父様が坂道を走りおりて来られ、コップ神父様を抱擁された。そしてわたしたちを修道院の二階に案内された。日本へ修道会が来てから十年、すべては灰になったのだ。

十二時半位に昼食を頂いているとアルペ神父様が来られ「やけどをした人やけがをした人たちが沢山つきました。手伝いに来て下さい。」本当に修道院の大聖堂、入口には沢山のけが人や火傷をした人たちがいた。神父様方や修道士の方々が修道院の中から布団をもって来て下さり、わたしたちはその人達を一応ねかせ、神父様の指図のもとに、そして外人シスター方の中でも看護の出来る人が二、三人あったので、その時から臨時看護婦としての仕事が始った。終日、終夜交替での看護だった。原子爆弾と云う新しい爆弾だと知らされたのは三、四日たってからだった。

あの日から四十五年、爆心地から程遠くない市内に居て、それも屋外でどうして助かったのかしら、人からも問われ、自分自身でもよく考える。そしてわたしはそこに人間の生涯の一つ一つの事柄の内に介入して居られる神の偉大なみ手をだけ感じる。毎年、梅雨期におこる可成りひどい貧血症状、又、骨粗鬆症による不自由さは持っているがでもまあ元気でまだ何かの形で人につくすことの出来る自分を考える時、私は心から感謝する、と同時にあの怖ろしい戦争が再びこの世界におこらないようにと心をこめて日々祈っている。又、以前研修会等で欧米の数ヶ国へ行った折りに依頼されいくつかの若者たちのグループに原爆の体験を語ったが、その少しでもが平和への種としてはぐくまれて行くことを希望している。

出典 カトリック正義と平和広島協議会編 『戦争は人間のしわざです』 カトリック正義と平和広島協議会 1991年 220~222頁

  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針