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荒木 禮子(あらき れいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島駅(広島市松原町[現:広島市南区松原町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立第一高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

まな板に、のせられた、コイ、のように背中を切られ、腹を切られ、だんだんに今度は、どこを、切られるのか、と思うと、今、生きて居る時に、お話しして、おかなくては、ならない、原爆の、おそろしさを、ぜったいに。人類が、生きて行くかぎり、口で約束しても、書類で、せいやくしても、地球が、無くなったらおしまいです。写真を見ても、フイルムを、見ても、目の前に、浮かんでくる、その時の出来事は、言いあらわせない。でも、何とか、少しでも、近づいて、知っていただけたら、と、お話し、いたします。

広島駅の構内で、被爆、いたしました。一・七キロメートルと、言はれています。私と妹は一つちがいです。広島駅より、一駅、となりの向洋、という駅から、汽車で、広島の、学校え、通学していました。

八月六日も妹と、一緒に、家を出ました。そして、広島駅に、着きました。その日は、汽車が、おくれていたのです。改札口を出て、市電に乗る、列に並びました。列が長いので、駅の構内まで、続いていたのです。妹が、お姉ちゃん、どれくらい並んで、居るのか、見て来るよ、と言って、前の方え、見に行った、瞬間の、出来事でした。重いものが、のしかかるように、「ズサー」と、前にのめりました。どれぐらいの、時間だったでしょうか。よたよたと起き上り、ました。右左に、たをれて居る、人を、よけてはい出ました。私は、体が、小さかったので、なにかの下に、投げとばされて、いたのです。立ち上った、しゅんかん、頭から、血が、たらたらと落ちて、目が、あかないのです。やっとの思いで、駅前にはい出ました。

私は、ガタガタになった、駅前を、ぼうぜんと、ながめて立ちすくんで、いました。ばくだんが、落ちて来るから、という声で、我にかえり、人々が、さけんでいる声を聞きながら、夢中で防空ゴウの中にかけこみました。防空ゴウの中は、人で一ぱいでした。「お水、お水ちょうだい」私の子供が下敷に、なっているから助けて、下さいと泣き叫ぶ、声。手の皮の、ぶらさがった人、背中から、皮が、はげて、ぶらりと、むけている人。顔から、皮が、むけて、ぶらり、とたれている人。びっくりして、私も自分の、顔を、なでまはして見ました。

顔から血が流れ、足が痛むのです。着ているものは、血で、そまり、メチャメチャ。「ここに居てはあぶない」という声で、妹がいない、どうしよう、駅の裏の、レンペイ場、え逃げろ、と言う声で、みんなと一緒に、ついて逃げました。

途中で、父に出合ました。会えてよかった。和子は、妹の名です、はぐれちゃった、さがすから、家の方え帰りなさい、と言う声を、あとに、父と別かれました。レンペイ場え、たどりつき、水たまりで手を、あらっていると、汽車で、一緒だった、友達と合い、ああよかった、生きていたのね、と抱き合って、泣きました。その後、その友達も、原爆症が、悪化して、亡くなったと言う事を、うわさで、聞きました。

やっと駅よりはなれ、あたりを、見廻す事が、出来ました。あちらこちらから、火の手があがり、ほんとうに、こわかった。

もし汽車が、定時に、広島駅に、着いていたら、電車の、ツリ革にぶらさがったまま死んでいたか、爆心地で、みんなと、一緒に、くろこげに、なっていたか、と思うと、ゾーッとします。

夜になると、何にも、無くなって、しまった、街に、ただ、あちら、こちらに、光る、青白い、光。人間の、たましいでしょうか、お父さん、お母さん、たすけて、と、言う声が、聞こえて、来るようでした。

妹は、三日目に、やっと家え、つれてかえりました。死んだ人と一緒に、レンペイ場で、ねかされていたそうです。カンパンを一袋持たされ。

父がその同じ場所を三回目にやっと、「オトウチャン」という、声で、妹と、わかったそうです。毎日二センチ三センチと、うんで行く、ヤケドの傷を、赤ちんで、おさえると、「イタイヨイタイヨ」と、見ていても、どうする事も、出来ないのです。カヤをつっていてもハイが入って、来たのだろう。ウジ虫が顔からはって来て、生きて居るのに、こんなものまでが、と父が、おこっていました。お姉ちゃん、口が、あかない、とかすかな、声を、聞きながら、二週間目に、いきを引き取りました。

私は、その後、学校の、召集があり、コワレ落ちた、橋が、わたれないので、やっとの思いで、電車の、通っていた、まくら木を、またぎ、手でつかまりながらわたりました。道ばたには、ヤケコゲタ死体がさんらんし右を見ても左を見ても上を見ても、すさまじい、そのままの、じょう態で、なんと表現してよいか、わかりません。学校は江波と、言う所に、あります。校舎は、めちゃめちゃでした。生き残った人はクラスで二、三人しかいません。みんな、死んで、しまった。私のクラスの先生も皆んなをかばって、生徒の上え、おおいかぶさって、死んでいたと、聞きました。生き残り組は、さぼり組と言われました。

私の学校は、そのとうじ広島第一高女と言います(市女)です。

元気だった、父も、原爆症には、勝てず、病院を出たり入ったり、数年後、急に、バケツ、一ぱいの、血をはいて、亡くなりました。五十才あまりで、まだまだの人生だった父なのに、私も、父を亡くし、妹や、弟が、小さかったので、私、一人、生きて行かなくては、ならない、さみしさに、一時期は、どうして、よいか、わかりませんでした。

私も、舟入高校(元の市女)を出て、上京いたしました。上京しても、広島ベンは、ぬけません。「広島でしょう」「原爆に合ったの」、そう、原爆手帳を、ソット、カバンの片すみに、かくし、広島の事は、忘れよう、としました。

会社に勤めかけると、病気。でも、当時は、自分自身の、病気だと、思い、あまり、苦にも、しませんでした。入院、退院、入院、と三年ごとに、起きて、来る病ま、とたたかいながら、やっと、皆様の前に、出られるように、なりました。

これからも、元気で、いるかぎり、長い苦しい、人生行路は、何時間、あっても、お話が、出来ない、くらいです。生きて、行く事は、皆様と一緒です。でも、虫ばまれて行く、自分の体では、人の、二倍、三倍、働らかなくては、正常に、ついて行けない。それが、さみしいです。山のように、つまれた、死人に、なってはいけません。

二度と戦争があってはいけない。みなさまと一緒に核兵器はいぜつをうったえて行きたいとおもいます。

 

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