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死線をこえて 被爆証言 
井上 典民(いのうえ のりたみ) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市仁保町金輪島[現:広島市南区宇品町〕 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
その日、昭和二十年八月六日、私は、広島市宇品町にある陸軍船舶隊第六一四〇部隊(暁部隊)金輪島糧秣厰に、学徒動員で級友と共に出動していた。あの忌まわしい原爆が広島市に投下された日のことである。時代が進むにつれて、やがてそのことが昔の物語として語り去られることを寂しく思うのであるが、それは、私が原爆の洗礼を直接経験した数少ない生き残りの一人であり、私の人生における大きな出来事であったからである。被爆五〇周年の今日、このことを多くの人に知っていただきたく、今ここにその時の様子を再現してみたいと思うのである。

八時一五分、朝礼前の私たちは、島(金輪島;爆心地より約一〇キロメートル)の兵舎前広場で遊んでいた。突然、「ピカッ!」と白い閃光が走ったかと思うと、ものすごく熱い熱が波状になって押し寄せてきた。「熱いっ!」私はとっさに反対の方向に走り出していた。その途端、猛烈な強い風(爆風)によって四・五メートルほど吹き飛ばされ、地面にたたきつけられてしまった。日頃、訓練させられていたので、無意識のうちに目と耳を両手で押さえていた。その時、「ドーン」と爆発した音であろう大きな音が聞こえた。危険を感じて、急いで横穴の防空壕に走りこんだが、頭上から土砂が落ちてくるので「生き埋めになる!」ととび出した。「何が起こったのだろう?」と、海を越えて一望に見渡せる広島市街の方を見ると、雲のようなものが市全体を包むように広がっており、その中央の部分がもくもくと空高く立ちのぼっていた(きのこ雲)。島の建物の屋根は吹き飛ばされ、窓ガラスは跡形もなく無くなっていた。屋内にいた級友たちが、血を流しながら出てきたが、何が起こったのか全く分からなかった。

広島市上空にもくもくと高くのぼっていく雲(きのこ雲)、やがてあちこちから燃え上がった火の手や煙を見ながら、私たちは不安の中で、命じられた作業を始めた。九時三〇分ごろだったろうか、ようやく新型爆弾の投下によるものだという情報が入るとともに、負傷者がぞくぞくと島に送られてき始めた。同時に、市内にある(爆心地より約二キロメートル)下級生の寮が倒壊し、行方不明者がいるので救援を要請してきた。ようやく私たちにもどんなことが起ったのかが分かってきた。

無傷だった私たちは、昼前、救援のために市内に帰った。しかし、そこには筆舌に尽くしがたい光景が展開されていたのである。町の全ての家は倒壊しており、私たちが行く道の川向うの町は、猛烈な勢いで燃えていた。道には、火傷で顔や背中が焼けただれ、暑い日差しの照りつける土の上を苦しさに転げまわる者、たまらず川に飛び込む者、水をくれと叫ぶ者、焼けただれていて男女の区別もつかず、幽霊のようにふらふら歩いている者、まっ黒こげになって死んでいる者、手足が折れてぶらつかせている者、頭や顔をはじめ体に傷をおい、血でまっ赤になっている者、今まで生きていたのにと赤子を抱いて泣く母親、泣き叫ぶ者、急いで避難して行く者などでごったがえし、正に生き地獄そのもののようであった。五体満足で行くのは私たちだけであったが、助けを求められてもどうすることもできなかった。

いつしかきのこ雲は消えており、それにとって変わって、市内の燃える火の粉と煙が空高く舞い上がっていた。

下級生の寮は全倒壊していた。私たちは早速、木片や瓦礫を取り除き始めた。約一五〇名の下級生が寮の下敷きになり、ほとんどの者が自力で脱出していたが、一名は柱と柱の間にはさまれていたものの生存していた。しかし、残念ながら四名は死体となって発見されたのである。

その夜、町はずれの方にある私たちの寮に帰ったが、傾斜していて危険だというので、毛布を持ち出し、寮のまわりのぶどう畑に敷き、赤々と燃える火が空に映るのを見ながら寝た。(この火と煙は二・三日続いたろうか)

翌七日、私の部屋の者五名は、背中全面に火傷をおわれた学校長夫人の看護を命じられ、近くの小学校に設けられた臨時救護所へ、治療のために担架にのせて通うことになった。救護所となっている小学校は、教室が負傷者の収容所になっていて、どの教室も負傷者でいっぱいであった。負傷者のほとんどは火傷で、全員が白いチンク油もぬられていて、異様な光景であった。火傷独特の異臭、体の前面がやけて男女の区別がつかず、目だけがギョロギョロしている者、苦しさにうめいたり、泣いたり、叫んだりする者、助けてくれとすがる者、水をくれとせがむ者たちが、無造作にむしろの上に座ったり、横たわったり、うつ伏せになったりしていた。私たちも看護を手伝ったが、負傷者は次々に亡くなっていった。看護兵たちは、手がないためにそれらの死体を蔦口で引っ張っていき、校庭に積み上げ、重油をかけながら焼いていた。

学校長夫人は、二日後の八日夕に亡くなられた。私たちは、長崎に原爆が再び投下された九日、岩国市が爆撃されているのであろう音を耳にしながら、米軍艦載機の襲撃を受ける中で、学校長夫人を校庭の防空壕でダビにふしたのである。

このようにして、一瞬のうちに多くの尊い人命が無残にも奪われたのであるが、その年の終わり頃まで、川の土手のあちこちで死体を焼く煙がたちのぼっており、頭蓋骨や焼け残った死体の一部があちらこちらに転がっていた。

以上が私の経験した原爆投下時の様子であるが、現在、日本や世界の多くの国の人々が、平和で落ちついた暮らしができることは、何と幸せなことであろうと思わずにはいられない。多くの自治体では「非核平和宣言」を採択しているが、二度とこのような悲惨なことが起こらないよう、核兵器の廃絶と戦争のない平和な世界の訪れを願うや切である。

※以上は、逗子市被爆者の会である「つばきの会」発行の『被爆証言集』(一九九二年刊)に掲載してあるが、一部加除訂正して述べたものである。

 


  

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