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未来への伝言 被爆の体験と証言 
尾崎 守夫(おざき もりお) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島陸軍幼年学校(広島市基町[現:広島市中区西白島町]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 陸軍病院 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市基町
幼年学校々舎内

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)

昭和二〇年五月末、(当時、既に東京は一望の焼け野原となっていた)現住地の杉並から広島陸軍病院(原爆で全滅)に入隊し、初年兵教育でしごかれる毎日であったが、運良く、バラック兵舎を取り壊すことになり、八月一日広島城内にあった陸軍幼年学校々舎に移住した為、命拾いをした次第である。

八月五日夜中に、B29の気象観測のための空襲が二度あり、何時もより一時間遅く、七時起床。警戒警報が出て、B29を一機見たが、警報は解除され、落下傘を投下して行ったのを眺めていたが、物凄い閃光が走り、何分の一秒後に火薬の臭いでは無い異様な臭気を含んだ爆風で吹き飛ばされた。漆黒の闇となり、暫くして夜明けの如く視野が広がり、潰れた兵舎から這い出したが、体中に硝子が刺さり、血達磨、腕の白い骨が飛び出していた。

兵舎は木屑の山と化し、その中から助けを求める声が聞こえ、下敷きとなって息絶えた者、血まみれの者、丸焦げになった者、目の前に聳えていた広島城は消えて我が目を疑ったものであった。敷布を裂いた包帯を作り、応急処置、下敷きになった仲間を引き出したりしている内に、木屑の山が猛烈に燃え始め、断末魔の悲鳴を後に、骨折した戦友を担いで逃げ出したが、半身が焼けた馬が走り、電車は直角に脱線、小学校から皮膚の剥けた子供が続々と出て来た。潰れた民家の屋根を乗り越え、常盤橋を渡ろうとしたが、火災に追われ樹木の多い公園に逃げ込んだが、竜巻が起きて、対岸の火災の火の粉で息も出来ず、川に飛び込んだが、一生の不覚、戦友を見失う。

猛火も下火となり、対岸に渡り、救護所で傷の手当をしたが、際限なく負傷者が続き、剥離した皮膚を切り、火傷の薬と赤チンを塗って日が暮れた。終結地に向かったが、途中の農家の藁葺き屋根は熱線で火がついて丸焼け、県道は行き倒れの人で歩くに難儀する。倒れては起きて夜半戸坂に着く。四キロメートル位の地点だが天井は落ちて、爆心に向いた硝子戸が破損したお寺に収容される。翌日からは、飯も水さえ通らぬ程、喉は痛く、傷口は化膿、下血、脱毛。硝子の摘出を看護婦がして呉れるが、麻酔もなく、傷口を搔き回すので、震えがとまらぬ劇痛であった。仲間が訳の解らないうわ言を言い出すと臨終、近くの学校の校庭には死体が山と積まれ、腐敗、死臭の部落となった。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)

島根県太田の女学校に移送され、敗戦。家族の疎開先の岡山に満身創痍で帰着。傷口の全治に約半年を要した。
アメリカの核脅迫により進学を断念。結婚に際して、被爆が問題となる。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)

再び被爆者をつくらない、それは、核兵器の全廃しかない。人類の存続の為にも、英知の結集を期待するのは、私たちだけではない。

三八年間要求し続けた「国家補償による真の援護法」の制定を切望する。


  

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