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白島付近を通って 
尾木 正己(おき まさみ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 海軍総隊呉鎮守府呉海軍工廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 



当時、私は呉海軍工廠に勤務し、爆心地から20キロメートル離れた呉市吉浦町の火工部設計係において、火工兵器の設計に余念がなかった。勿論、室内で作業していたが、鉛筆を持った手が浮き上がるような衝動を受けた。状況から判断して、普通の爆弾ではなく、広島市近郊で、火薬の誘爆だろうというのが、ほとんどの者の見方であった。

私は、数分後にモクモクと上昇するきらびやかなキノコ雲に、数枚のシャッターをきった。

吉浦の近くではないことは事実であったし、作業に追いまくられていたので、私は別に意に介せず仕事を進めていたが、午後5時ごろになって、負傷者が続々と町に帰って来はじめた。吉浦駅で、衣服の引き裂けた血まみれの人、気の失せた人々が、何を考えるともなくホームを歩いている姿を見て、ただ事ではないと直感した。しかし、まだ原子爆弾ということは判らなかった。

自宅のある海田市町まで帰って、広島市内が大変だということを知ったが、どうする術もなく、翌7日朝、出勤してから、火工兵器の経験者として救援隊を出すこととなり、私もその一員に加えてもらった。

今思えば、的場町で単身トラックから降りたと思う。ガラス工場か?瓶の破片が溶岩のように溶けて、夏の陽光にかがやいていたのが印象的であった。

それから焼けくすぶる市内を、広島駅の方に歩いて、大須賀踏切から二葉の里に出た。東照宮の石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされており、大きな松の木も焼けはてて幹のみを残している。

常葉橋にさしかかったとき、川遊びをしていた裸の子どもらが、泉邸の裏の川辺に散在して斃れており、此処からは、被爆したそのままの姿が、まだ片づけてなかった。

常葉橋西詰(白島)付近は、炸裂下の凄惨な生地獄の最も典形的な状況を示していた。焼野ケ原の路上には、死体と、まだ命のある人間とが折重なって散乱し、中でも兵士であろう軍服が引き裂かれ、赤黒く焼けただれた背中の皮膚に、夏の強い日光が照りつけ、熱さと苦痛に耐えかねてか、隣の同僚の掛けているトタンの切端を、おぼつかない手つきで引き寄せて、自分の体にかけようとし、また、取られまいとして引きもどし、おそらくは、直射日光で熱くなっているであろう鉄板の切端を、遮光のために奪いあう姿。しばし、立ちどまって見ていたが、どうすることもできず、死体をまたぐようにして歩き過ぎた。

その時の自分は、それは救援活動ではなかった。行方不明の妹の捜索も目的であったけれども、今考えて、惨禍の予想外の大きさに心をうばわれ、ただ焼跡を無意識に歩いたに過ぎなかった。しかし、直接の被爆者でなかったためか、比較的冷静に観察したと思う。道端に数多く設備された防火水槽の中には、火傷の激痛に耐えかねてか、先を争って飛びこんだ様子が見られ、一個の水槽に折り重なって入り、水面に頭や顔を出している。赤く血に染まった水槽の水が、小刻みに震えて、断末魔の鼓動を漂わせている。時折り、大きく息吹く呼吸が、人間の死に到達する一里塚のように思われた。

同じ路地に、焼け果てた並木がある。それに直立不動の兵士が立ちかかっている。何か警備についているのだろうかと思いながら、前を通り過ぎて、振返って見ると、視線が動かない。立ったままの姿で被爆し、そのまま硬直して木に寄りかかり、倒れないままに息を引取っている。あたかも男のマネキン人形の顔のような、目は開いて、呼べば答えるような容相である。戸外で、火傷もせず、放射能線で死んだのであろうか。

また、爆発と同時に、家から飛出したと思われる15、6歳の裸の少年は、戸口でうつ伏せに倒れ、火傷一つしていない。時計が8時15分で止まっている。

つぶさに見ているうちに、白島の電車停留所(終点)付近に来ていた。そこには、バスに乗った人が、そのまま被爆し、火災にあったためか、皆前向きに坐ったままの姿で黒焦げになっている。勿論、男女の判別もできない。反対側には、電車が満員であったのであろうか、折重なって黒焦げになっている。バスも電車も焼け果てて骨格のみとなっている。

それから八丁堀方面へ出て行ったが、このあたりから、わりかた死体も片づけられていたが、キリンビヤホールの前の道路に、胴がはち切れそうにふくれ上がった馬の死体があった。本通りの惨状もものすごかった。(中略)

一日中、歩き疲れて、探し求める妹の姿も見あたらず、心の動揺をおさえながら、徒歩で10キロメートルの道のりを、海田町に向って帰途についた。その後、学徒動員で京橋町のミシン縫作業場にいて被爆した妹は、ミシンの下から這い出して、学友と一緒に、にわか雨の中を牛田方面に逃げて、幸い一命だけは助かり、8日に帰って来た。頭に負傷していたが現在も元気である。

出典 広島市役所編 『広島原爆戦災誌 第二巻』 広島市役所 1971年 224~226頁
 
  

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