当時、呉海軍工廠火工部設計係に勤務していた。室内で設計作業の勤務についたときだった。ドスン!と腹にこたえる轟音に鉛筆を持っていた手が浮き上がるほどの衝撃を受けた。地震ではない、空襲か、何かがあった。私は戸外に飛び出た。広島上空と考えられる方向に、見たことのない異様な雲が現れている。入道雲ではない。異常な事態が発生しているのだ、と思い、とっさに数枚写真を撮った。
少し時間をおいて帰宅命令が出たので、汽車や通りがかりの車を乗りつぎ海田町の自宅に帰り、広島が新型爆弾でやられたことを知った。海田町から坂町にかけて、広島市内から逃げてくる被災者はたいへんな人数で、そのほとんどの人が大火傷を負い、まさに幽霊の群らがりであった。
翌7日も、火工兵器を扱う経験者として救援隊に加わった。的場町近くでトラックから降り、広島駅、大須賀町、二葉の里方面を歩いた。東照宮の石造りの鳥居が跡かたもなく吹き飛び、大きな樹木が焼けはて幹だけの残骸を残している。尋常でない新型爆弾のすさまじさを驚嘆するのみである。
常葉橋付近の川辺で遊んでいたと思われる裸の子どもが数人、被爆したそのままの姿でまだ片づいていなかったが、あまりにもむごくカメラが向けられなかった。
出典 「反核・写真運動」編 『母と子でみる 7 原爆を撮った男たち』 株式会社草の根出版会 1987年 31頁
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