原子爆弾の炸裂直後、広島赤十字病院の北側にあった山中高等女学校から出火し、隣接の看護婦の寄宿舎に延焼、病院も危険に陥ったが、医師・看護婦をはじめ、入院中の軽症患者たちの必死の消火作業によって食い止めることができた。
火災の心配が去って、ほっとひと息つくひまもなく、こんどは被災者が市中からどっと押し寄せてきた。そのほとんどは熱線光によって、顔や身体を焼かれた人びとであった。
私が撮影した写真は、主として赤十字病院へ逃がれて来た人びとのうち、手術前と手術後の医学的資料である。50枚近く撮影したであろうが、このうち多くの方は、その後、亡くなられている。
病院に収容し切れず、廊下や庭先に横たわり、苦悶にあえぎながら医師の手当てを待つ、まさに修羅場の光景である。あの日の被災者を思いうかべると、いまでも思わず合掌するのである。
出典 「反核・写真運動」編 『母と子でみる 7 原爆を撮った男たち』 株式会社草の根出版会 1987年 53頁
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