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深田 敏夫(ふかだ としお) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島陸軍兵器補給廠(広島市霞町[現:広島市南区霞一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 陸軍兵器行政本部広島陸軍兵器補給廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 



崇徳中学校(旧制)在学中、学徒動員令により、陸軍兵器廠に出動し、繰上げて卒業後も、そのまま同廠で勤労にはげんでいた。17歳の若い血潮は、日本の必勝を堅く信じ切っていた。

8月6日の朝、6時45分ごろ、張り切って大芝町の自宅を出て、白島の電車終点近くの自転車店に向った。この朝、物資欠乏の折りながら、ようやく手に入れた新車に乗りかえる日であったからである。

自転車店に行くと、もう2、3時間かかるとのことで、待っていれば出勤時間に遅れてしまう。やむなく諦めて兵器廠に向った。途中で、古い愛車ラージがパンクし、それを押して出勤したが、朝とはいえ、汗でビッショリ、暑い日であった。朝礼にぎりぎりで間にあった。

朝礼を終えて、二号館の西口に着き、今日の作業の指示を待っていたときである。もの凄く激しい、今までにない閃光がきらめいた。明るいダイダイ色のように感じた。「何かが起きたぞ。」と直感し、兵器庫の奥の方へ走りこんだ。その直後、爆風に吹きとばされた。兵器庫の中は、砂と埃で一瞬のうちに暗やみとなり、私はずっと更に奥の方へ転がされていた。幸いにも負傷はしなかった。左側を見ると、兵器庫の鉄の扉がひん曲り、その隙間から差しこむ光線が目に入った。それを目当てに駈け寄り、体をななめにして外に出た。まだ屋外は砂埃でかすんでおり、遠方までは視野がきかない。西方の上空を仰ぐと、もの凄い煙が立ち昇っている。「何かがあったな。」と思い、兵器庫の2階に駈け上り、北側の窓から首を出してびっくりした。かって見たこともない大爆煙である。

さて、この頃、学友のなかでカメラに熱中している者がかなりいて、私もその一人であった。私は、ベビーパール(小西六製)というベスト半截判のカメラを、いつもズボンの後ポケットにしのばせていた。フィルムも入手困難な時代であったが、わけのわからぬフィルムながら、ちょうど愛機に装塡していた。

思わずポケットに手がかかる。だが、ここは兵器廠内である。見つかれば銃殺ものである。市中においてでさえ、カメラを持つことは許されない時代で、その厳重な取締りは、現在では想像もできないであろう。広島市は軍事基地であったから、特に防諜にきびしかったとも言える。

しかし、手はカメラを取り出していた。級友の江田君か誰かに付近の見張りをたのみ、数分間のうちに4枚のシャッターを切った。

それが、世界最初の原子爆弾の爆煙であるとは、夢にも思わなかった。兵器廠内の将校も兵士も、また工員の誰もが、火薬庫か爆弾の爆発としか、思い至らなかったであろう。

そのあと、廠内を見ると、たくさんの負傷者が右往左往している。2階にいた女子挺身隊員は、ガラスの破片で10数人負傷、中には重傷の人もいる。鉄筋コンクリート建の油の倉庫では、油を積んだ鉄骨の棚が吹きとばされ、若い行員の1人は、それに頭をぶっつけ、油の中に顔を突っこんだ。それを引っ張り出して助けたが、数日後に死んだ。

午前10時ごろであったか、動員学徒に対して、家に帰れる者は帰れとの指示がでた。

電信隊(現在、進徳高校)の南側を通り、タバコ屋の所(現在、皆実町2丁目)を左に曲り、被服廠正門前に抜ける道の中間で、初めて倒れている婦人を見て身ぶるいをした。御幸橋、電鉄会社前の方は火災で通行できないと、すれ違う人から聞いたので、やむなく兵器廠に引返した。もうこの頃、無残な姿の負傷者が溢れていた。再び、家に帰って来るように言われて、今度は宇品線鉄道沿いに北へ道をとった。大洲鉄橋の中央まで来たとき、向うから来た人に状況を聞くと、大洲から広島駅、二葉山付近へは通り抜けできないという。私は、鉄橋の中央部の線路待避所に坐りこんだ。

的場町の方を見ると、電車停留所附近から南に向って、もの凄い火災である。何分たったか、大正橋近くまで燃えあがったのを見て、またも兵器廠に引返した。時間は、昼をまわり午後1時頃か。空腹にはなるし、家のことも心配だし、頭の中はゴチャゴチャである。どうしたものかと、廠内の職場にもどると、顔見知りの人が昼食を食堂でとるように教えてくれた。食堂は、いつも満員なのに、今日はまばらである。ほとんどの人が、負傷者の救護や収容作業についていたからであろう。

2時が過ぎた頃、また家に帰ってみるようにとのことで、三たび帰途についた。江田君と一緒である。こんどは比治山の南側の電信隊横を通り、鶴見橋を渡り、竹屋町か田中町の土手に出た。一面ただ焼野が原である。熱気にやられてはいけないと思い、江田君と防火用水槽で作業衣をビッショリにぬらし、頭からかぶって、建物疎開跡の道を右し左ししながら西へ向った。

ようやく大手町の川土手(現在の平和大橋の所)に出たときには、作業衣は熱さでパリパリに乾いていた。ここまで来る途中の惨状は、もう口では説明しきれない。川下の水主町辺の元安川の砂浜を見ると、何十人か何百人かの負傷者や火傷者が、悲鳴とも何ともつかぬ声をあげて、苦しんでいる。

中島町の方へ渡りかけたとき、将校と二人の兵士に出会った。土橋方面の様子を聞くと「お前たちは何処に帰るのか。」という。大芝町の自宅へ帰ると答えると、今から基町の師団司令部の様子を見に行くから、その方から帰ったほうが良い、一緒に行こうとさそわれ、そこから土手下の川べりを歩いて元安橋へ向って歩いた。元安橋の土手に上ってみると、電報配達の人が、自転車にまたがったまま、黒焦げになって倒れている。また、母親が乳飲み児を負い、もう一人の子を胸の内に抱いたままで死んでいた。

ここから、産業奨励館の残骸の立つ土手下を通って相生橋東詰に出た。何十人か、それ以上の人が倒れている。馬も焼けて火ぶくれになっている。

相生橋の上も惨憺たる有様である。ここで将校たちと別れて左官町に出た。電車通り沿いに歩いて十日市町の所から横川線の方へ曲った。横川の終点から国鉄横川駅の東側に出て、第二踏切(現在・国道54号線)の所から、大芝の自宅の方を見ると、やはり焼野が原である。大芝公園の記念碑の所に大きなドングリの木があったが、よく見ると、その木の葉がちらついているように見えた。ひょっとすると家は焼けなかったかも知れんぞと、一目散に走って行くと、大芝国民学校裏門近くから、煙にかすんだわが家が見えた。一っ気に走った。

家屋は、爆風のためにひどくやられ、ただ在るというだけの有様であった。家には骨折で寝ていた父と姉が2人、そして近所に嫁いでいる姉がいたが、いずれも無事であった。3番目の姉は、日興證券に勤めていたから死んだろうと思っていたが、前日に建物疎開作業に出て気分が悪くなり、出勤していなかったため、命拾いをした。

わが家も、二度か三度火がついたが、近所の人や大芝公園の防空壕にいた兵隊、鉄道部隊の兵隊、あるいは自動車学校の人などが消火につとめられて、火災を免れたと聞いた。

6日の夜は、ほとんどの人が公園で野宿したが、私は壊れたわが家の中で、蚊帳をかむり、日本刀を抱いて一人で寝た。近所の人々は夜遅くまで、焼跡に放水して延焼防止につとめていたが、そのため、わが家の所から大芝町のほとんどが火災をまぬがれたのであった。

終戦後、母の実家(現在・安芸町福田)に行き、疎開していた写真の現像液や現像タンクで、フィルムを現像し、小川で水洗いした。その中に、兵器廠の窓から撮影した「原子雲」四枚があったのである。

放射能の最も強烈な爆心地を通過したにもかかわらず、フィルムがやられなかったことは、今もって不思議でならない。
 
出典 広島市役所編 『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』 広島市役所 1971年 992~996頁
 
  

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