国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
水分から見た原爆投下の瞬間 
山田 精三(やまだ せいそう) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第3中学校,中国新聞社 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 



原爆の恐ろしさは誰もが知っている。このまま使用されれば地球は破滅すると思う。最初の原爆を見た一人として、投下直後の不思議な光景を書いてみたい。

雲一つない青い空。上空をB29が飛んでいた。当時、もうB29は珍しくなかった。その下に見えた3つの落下傘がなかったら、そのまま山に入っただろう。

その日の朝、幼友達の吉田四郎君(旧姓石田)が水分峡(みくまりきょう)へ飯ごう炊飯へ行こうと誘いに来た。彼は広島商業に通っていたが、たまたま動員先の工場が休みだった。私は昼間は中国新聞社で働き、夜は広島一中(現・国泰寺高校)に併設されていた広島三中に通っていた。新聞社の仕事は駅や郵便局で送られてきた原稿や手紙類を受け取ったり、県庁や市役所の記者クラブを回って原稿を集めたりするのが主な仕事だった。もし吉田君が来なかったら広島駅かその近くで被爆していたに違いない。天地がさかさまになったような光景を見ることもなかった。

二人の家は今の山田2丁目。水分峡は近い。榎木川沿いに上り、静養院からしばらく歩いて山にかかった辺り、ちょうど水分(みくまり)の登り口辺りでB29を見た。

落ちてくる落下傘を見ていたら松林の下から虹がわき出てきた。虹は雨上がりに天空にかかる。それが池に小石を投げると波紋が広がるように次々とわき出てくるのだ。青い空の下、しかも地下からわき出る虹。何だろう。目を疑った。その時、目の前で写真のフラッシュをたかれたような光と暖かい風。そして、まるですぐ近くに爆弾が落ちたようなごう音に襲われた。二人ともとっさに地面に伏せた。しばらくして起き上がったが何事も無い。キョロキョロ見回すうちに松林の向うに火の玉が見えた。ちょうど太陽のようだった。太い松がまだゆれていた。

火の玉は、ぐんぐん上がった。それを押し上げる雲。不思議な光景に、持っていたカメラを取り出してシャッターを切った。

その後、二人は水分峡の一番奥の砂防ダムまで登った。広島は煙に包まれていた。食事をすませた頃、吉田君の母親が心配して来られた。あの山奥へ、よく一人で来られたものだと、今でも思い出し母親の愛情の深さを感じている。

家に帰った私は広島へ出てみることにした。

今のひかり保育園のある前の道を通った。そこで私と同年輩の学生が「痛い、痛い」と言いながら帰って来るのと会った。顔も手も黒い皮がたれ下がっていた。芸備線の矢賀駅は担架に乗せられた人など負傷者でいっぱいだった。私は線路伝いに荒神町の踏切を渡り市内に入った。しかし踏切の向こうは両側が焼けていて熱気でいっぱい。とっさに帽子を防火用水の水につけて顔に当て走った。

流川の中国新聞社まで行ったが、大きい道路を選んで走ったので死体は見なかった。
 
出典 広島県安芸郡府中町編 『安芸府中町史第五巻 別冊 府中町被爆体験記』 広島県安芸郡府中町 2010年 101~103頁
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針