当時、広島市田中町に営業写真家としての写場があった。大正15年からの写真館で、私はそこで被爆。あの朝一人娘の澄江(済美学校2年生)が、カボチャの給食があるというので学校に出た。爆心地から近い、現在の上八丁堀で、原子爆弾にはひとたまりもなかった。妻は牛田町に居て助かった。存無為に過ごした。無惨な原子砂漠にたたずんでいたが、この広島の悲劇を記録にとどめておこう、それが原爆から生き残った一人の市民としての義務であろう、そう決意し9月上旬から写しはじめた。写真館を経営していたので、写真材料は豊富にあった。9、10、11月の3カ月で100枚近く撮影した。その後は広島の復興ぶりを1年おきに10年間写し続けた。
出典 広島原爆被災撮影者の会編 『広島壊滅のとき 被爆カメラマン写真集』 広島原爆被災撮影者の会 1981年 77頁
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