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被爆体験について 
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性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市雑魚場町[現:広島市中区国泰寺町一丁目] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 専門学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
ピカ・・・・・・・・ドン・・・・・・の表現は爆心地から三キロメートル以上も離れて被爆した人達の体験談であり、私はピカ・・・・・・しか記憶が無い。

一瞬の内に暗黒の世界に気絶の形で閉じ込められたままだった。何分経ってか盲目の世界が、あの暑い光々たる真赤な太陽が、薄ぼんやりと次第次第に見え始めたときは「生きている」の不思議さが本能的に感じ取れた一瞬だった。痛くも痒くも何とも感じなかった。起き上ったとき、廻りには人影は無く倒れた家の瓦礫ばかりが目についた。きょろきょろしている内に何処となくうめき声が洩れ始め「助けてくれ」の叫び声を合図にあちこちから悲鳴が聞えて来た。まさに生地獄。阿鼻叫喚の巷とはこのことを云うのだろう。まだ火は出ていなかった。漸く動く人影もあちらこちらに見えて来た。「オイ手を貸せ」の声に呼ばれて下敷になっている人々を何人出しただろう。「オイ逃げろ。火事だ」の声で人々の逃げる方向に走ったり歩いたりで自宅とは逆方向とは知らず歩き続け、たどり着いたのが吉島の飛行場だった。後を振り向けば市内各所からの火の手は上り、赤黒く猛々と炎は天を焦しこの世の最后を思わす姿だった。この時点でも体の異常(火傷、切傷等)には全く気付かなかった。防空壕に入り横になったがそのままぐったり寝込んでしまった。これが当時、理工科系専門学校在学中三日間の建物疎開就労初日の半日間の出来事だった。

場所は(被爆の)市役所裏手の爆心地から一キロメートルの雑魚場町であった。その日は動くに動けず「水」だけしか無く、火の漸く下火になった翌朝早く、五キロメートル離れた我家方向に向って廻り廻って着いたのが昼前だった。我家は比治山の蔭にあった為、焼けずに残っていた。しかし傾いてガラス窓は一斉無かった。一番先に飛び出して来たのが母だった。顔は真黒だったらしい。母の声で父も駆けつけ水とタオルで拭こうとした途端「駄目さわるな火傷だ」と止め、母が冷したガーゼをそっと当てながら少しづつ汚れを取り始めた。ここで漸く左半身が火傷を負っているのが判った。着ている積りのシャツも左半分はボロボロだった。横腹には深い切傷もあったが血のシャツでぺったりくっついていた。

被爆して丸一日過ぎてようやく亜鉛化軟膏と赤チンの応急手当を受けたが、医者の治療は受けられる環境ではなかった。左の耳は半分落ちかけていた。姉は到々帰ってこなかった。(即死)。幸い火傷、切傷も順調に回復し三週間位で治癒しかけた頃、今度は毎晩熱が三九~四〇度と出始め、それに体中斑点(内出血)が出て来た。朝、目がさめれば枕に頭の毛が手のひらに乗せられる位抜けていた。歯茎からは出血し出したら仲々止まらなかった。

父が頼み廻って漸く軍隊が引上げた呉の海軍病院に何とか入れて貰うことになり、よろよろ歩き汽車に乗せて貰い、病院のベットに寝かせて貰ったのは八月の下旬になってからだった。毎日死線を彷徨うこと四〇日。一〇〇パーセントダメと宣告されながらこれと云う特効薬のない当時、ビタミン剤とブドウ糖位しか注射してくれなかったのがどうして生き残ったのか不思議でならない。頭は綺麗に坊主だった。歯茎は紫色で健康色ではなかった。それでも死んでいなかった。

その後、米国大統領直轄のABCC(原爆調査委員会)が比治山に出来、生き残りのモルモットとして三食昼寝付で一定期間毎の入退院を繰り返した。現在厚生省に移管されたが、その後も追跡調査でTEL又は問診の形で聞いて来ている。やはり不思議なのだろう。これも前世からの宿命である。

  

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