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私の人生 
奥村 和子(おくむら かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所 広島駅(広島市松原町[現:広島市南区松原町]) 
被爆時職業  
被爆時所属 広島工業専門学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私の家族は父、母と兄2人でした。自宅は西国街道前の愛宕町にあり、広島駅も近いことから、汽車が通るとガタゴトと音が聞こえるくらいの場所でした。
 
私は、広島県立広島高等女学校が広島県立第一高等女学校(第一県女)に校名改称した昭和16年に入学しました。入学前、陸軍士官学校に行くために夜遅くまで猛勉強していた次兄のそばで、私も同じように遅くまで勉強していました。当時は家もそんなに広くないので、兄が机に向かっていれば、同じような行動をするのが当たり前だったように思います。
 
昭和20年当時、兄2人は東京に行っており、長兄は官吏として働き、次兄は陸軍士官学校に通っていたので、家族は3人になりました。父は、広島市役所の職員でした。いつ頃だったかは定かでないのですが、現在、原爆ドームとなっている広島県産業奨励館に宿直する日もあり、夜ご飯にとお弁当を届けたことが記憶に残っています。見たことのない、立派な建物だなと思ったことをよく覚えています。母の実家が府中町で米屋をしており、米や野菜を分けてもらっていたので、食べるものがなくて困ったという記憶はありません。ただ、実家は母の弟が継いでいましたので、たびたびお願いに行くことは難しかったようです。
 
自分で物事を考えるようになってから、私は、女性は男性や兄弟に養ってもらって生きるという日本の家族制度について、漠然と疑問に思っていました。子どものころから自立心が強かったのかもしれませんが、そのことについて、父や母と話をすることもなく、育ちました。
 
小さいころから読書が好きでしたが、たやすく本を買ってもらう時代ではなかったので、貸本屋から本を借りて読んでいました。吉川英治さんの「宮本武蔵」は非常に面白かった本の一つでした。
 
第一県女は、当時、広島県の女子小学生や保護者の憧れの学校で、難関校でした。私が通っていた尾長尋常小学校からは、私と近所の豆屋の娘さんの二人ぐらいが入学したのだと思います。先生たちから、「あなたたちは選ばれた粒よりの生徒だから、品行方正にしてしっかり勉強するように」と言われていましたが、なにをもって「粒より」と言われたのか疑問に思うこともありました。また第一県女には、弁護士や医者、会社社長の家の子が多く、お嬢様学校みたいな雰囲気もあり、違和感を覚えた記憶があります。
 
元気な学生は電車で通学することができなかったので、愛宕町の自宅から学校まで、30~40分かけて歩いて通っていました。当時、おそらく革製品は軍が優先的に使っていたのか、革靴は大変高価なもので手に入りにくく、下駄で通学していました。鼻緒は自分たちで作りました。途中、鼻緒が切れることもあり、自分で修理していました。
 
一生懸命勉強して入学した第一県女でしたが、入学した当初から、勉強したというよりも動員されて働いていたという記憶がほとんどです。1年生の時から、月に一、二回は勤労動員で被服支廠に行ったり、イモ畑の開墾や竹やり訓練などもありました。また安佐郡八木村(現在の安佐南区)には修練道場が開設されていて、泊まりがけで生活訓練に行きました。川で水泳訓練をしたこともあります。
 
高学年になると、ますます勉強をするということがなくなり、ほとんどが勤労動員となりました。安佐郡川内村(現在の安佐南区)にあった被服支廠で、各家庭から供出されたミシンを一人一台割り当てられ、ほぼ毎日、兵隊さんの軍服を作っていました。あの頃、軍国主義の中にあって、私は勉強するために第一県女に入ったのに、こんなに毎日ミシンかけばかりしていて良いのだろうかとずっと思っていました。
 
そのような時に、千田町の広島工業専門学校(現在の広島大学工学部)が、学徒出陣で生徒が少なくなったため、理数系と化学系の助手を30名ずつ募集しているということを知りました。理数系を受験したところ合格し、昭和20年の夏は、教授の助手として工業専門学校に通うようになりました。黒板を消したり、そのほか簡単な手伝いをすることで、学校に通っているという実感がありました。このような選択をした生徒は、第一県女からは私一人だったと思います。
 
●8月6日
8月6日は、広島工業専門学校に行くため電車に乗ろうと、広島駅で電車を待つ列に並んでいました。ふと空を見ると、B29が飛んでいるのが見え、何か白いものがツーッと落ちてくるのが分かりました。B29が落とすものは爆弾以外にないと思い、とっさに広島駅の中に逃げ、体を伏せました。音が先か、光が先か、あのときどんな状態だったかは全く覚えていません。伏せたまま、どのぐらい待ったのかも覚えていませんが、少し静かになったので起き上がって見ると、自分は鉄くずやら、いろいろなものをかぶっていました。駅舎は崩れていたように思います。今のように10階建ての駅舎であれば、生き埋めで圧死していたでしょうが、当時はそんな頑丈な建物でもなかったのでしょう、もろく崩れていたように思います。私は何とか外に出てみました。運よく無傷でしたが、駅の外にいた人たちは、皆、死んでいたのではないかと思います。
 
とにかく一度自宅に戻ろうと、死体を踏みながらではありますが、どうにか愛宕町の自宅に戻りました。家は全壊し、タンスは倒れ、押し入れもめちゃくちゃになっていました。そこにいたはずの母も、すでに逃げていたのか、自宅には誰もいませんでした。
 
近所の人たちと自宅近くの東練兵場まで逃げ、その夜はそこで明かしました。おにぎりなどが配られた記憶はないので、飲まず食わずだったような気がします。
 
●8月7日、母の実家へ、そして家族の再会
翌8月7日、母が自宅にいるのではと思い、もう一度自宅に戻る道中、皮ふが垂れ下がったり、顔がパンパンに腫れたひどいやけどをした人たちを見ました。目もあまり見えていないほどふくれあがった顔の方でも、爆心地から遠くに逃げないといけない、ということはわかっていたのでしょう。ぞろぞろ、ぞろぞろと中心部とは逆の方向に向かって皆、避難していました。あの光景は忘れることはできません。
 
あの当時、多くの家の前には、焼夷弾が落ちた時のためか、防火用水の水槽がありました。自宅に帰ってみると、私と同じぐらいの年頃の向かいの家の息子さんがその水槽の中で亡くなっていました。なんとか家までは帰ってきたのでしょうが、やけどをしていたのもあったのか、熱かったのだろうと思います。はっきりとしたことはわかりませんが、近所の多くの家の人たちが、あの日、仕事や学校で市内中心部に行き、被爆したのだと思います。
やはり母は自宅にいなかったので、おそらく、母の里の府中町に逃げているのだと思い、歩いて府中町まで行きました。思っていた通り、母は府中町の実家に避難していて、無事、そこで会うことができました。被爆当時、母は自宅にいて、スリップ一枚の状態で実家まで逃げて来たということでしたが、元気で無傷でした。
 
父の消息はつかめないままでしたが、3日ぐらい経ってから、どこかの収容所にいるとの連絡が入り、親戚の人が大八車で父を迎えに行ってくれました。戻ってきた父は、かなりやけどを負っていました。父も広島駅で被爆したようですが、詳しいことはわかりません。
 
●戦後の生活
父と母と私の3人は、秋口まで府中町の母の里に身を寄せていましたが、ほかの親戚もあり、いろいろと気をつかうこともありました。戦後、次兄が東京から広島に戻り、愛宕町の自宅を修理したので家族4人でそこに戻りました。借家や畑などもあったので、生活に困ることはありませんでした。私と母は無傷でしたが、父はやけどの治療もあり、しばらく白島の逓信病院に通っていました。被爆の影響もあったのでしょう、残念ながら長生きできず昭和26年に亡くなりました。
 
私は、昭和21年2月に、日本銀行が職員を募集していることを知り、面接を受けたところ採用となり、翌日から来てほしいと言われました。自宅に戻り、明日から日銀で働くことになったと報告すると、家族はみな、あ然としているようでした。その当時は、男性が外で働き女性が家を守るというのが当たり前の世の中で、女性は父や兄弟に養ってもらうものという感覚だったので、私がいわゆる職業婦人になることに対して、家族には不満があったのかもしれません。ただ、家族も私の性格をよく知っていましたので、就職に反対するようなことはありませんでした。
 
その後40年近くに渡って、55歳の定年退職まで日銀に勤めました。今も市内中心部に出て時間があると、袋町の旧日銀の建物を懐かしく思い、立ち寄ることもあります。
 
夫とは、日銀近くのビルで学生有志が主催していた社交ダンスパーティーで知りあい、結婚し、二人の子どもにも恵まれました。夫は、戦時中、予科練に行っていたため被爆はしておらず、戦後、広島に戻ってきて、実家の家業である呉服屋やクリーニング屋を手伝っていました。夫の実家は皆実町にあり、家族が被爆していたこともあって、結婚の際に差別を受けるようなことはありませんでした。
 
●激動の戦中、戦後を生き抜いて
戦争真っ只中の時は物資も不足しており、各家庭にラジオがあるわけでもなかったので、普通の爆弾ではなく、新型爆弾が落ちたのだと知ったのは、二、三日後だったと思います。その後、長崎も攻撃され、どちらも街が一つなくなるような壊滅的な被害を受けるほどの威力のある爆弾が落とされたのです。広島では昭和20年末までに14万人が亡くなるほどの爆弾が投下されたのです。本当に恐ろしいことです。
 
愛宕町に住んでいた時、町内会の勧めで被爆者健康手帳を取得しました。町内みんなで取るのだという感じで、申請したと思います。大きな病気などしたことはありませんが、今でも健康診断は受けています。
 
だんだん年を重ねると、仲の良かった方々とも連絡が取れなくなることがあり、寂しさを覚えますが、仕方のないことだと思っています。
 
私は、常々、男性が働いて女性が守られるという日本の家族制度に疑問を感じていました。それもあって、私は守ってもらって生きる道よりも、精いっぱい努力して、進学先も就職先も自分で決める道を選んできました。結婚してからも、子どもを保育所に預けながら育児や家事と仕事を両立させ、自立して生きてきました。
 
●今、思うこと
今の若い人たちに、あの時の戦争のこと、被爆のことなどを話しても、なかなか分かってもらえないように思います。あの悲惨な苦しみは味わったものでしかわからないとも思います。しかし、わかってもらえないからと言って、伝えることを止めてはいけない。原子爆弾や戦争によって、考えもよらない悲惨なことが実際に起こったのだと、伝え続けていかなければならないと思います。 

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