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語れなかった被爆体験 
雨宮 保和(あめみや やすかず) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所 東練兵場(広島市尾長町[現:広島市東区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二中学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●はじめに
被爆当時、私は広島県立広島第二中学校の2年生でした。古田町高須に一家6人で暮らしていました。動員先や自宅で家族全員が被爆しましたが、幸いにもみんな生き残ることができました。
 
私と同じ中学校の1年生は爆心地近くの動員先で被爆し、全滅しました。高須から通っていた6人もみんな亡くなり、その悲しみから逃れることはできません。戦後しばらくして、勤務先で私の被爆体験を話したことで、原爆ですべての親族を失った同僚が傷ついたことがありました。それ以来、私は被爆体験を語ることはできなくなりました。
 
●私の家族
私は、昭和6年(1931年)10月30日生まれ、被爆当時は満13歳でした。古田町高須の自宅で、両親と兄、姉、妹の6人の家族で暮らしていました。父・雨宮保造は当時55歳、江波にあった三菱重工業(株)広島造船所に勤務しており、職場で被爆しました。4つ上の兄・保彦は、私と同じ広島県立広島第二中学校の生徒で、動員先の三菱重工業(株)広島機械製作所(南観音町)で被爆しました。3つ上の姉・俊は、広島県立広島第一高等女学校の生徒で、高須にあった動員先の広島航空機(株)で被爆しました。46歳の母・今代と7歳の妹・弥生は、原爆が投下されたとき、自宅にいました。
 
家族全員が被爆しましたが、命に別状はありませんでした。
 
●8月6日、東練兵場へ
私たち二中の2年生は、いろいろなところに動員されていました。牛田で馬のまぐさの圧縮をしたり、瀬野で防空壕を掘ったり、被服支廠や糧秣支廠に行ったこともありました。原爆が投下される直前は、2年生と1年生が交代で、建物疎開作業に動員されていて、8月5日は、私たち2年生が中島地区で作業しました。翌8月6日は、1年生が爆心地に近い中島地区で建物疎開作業に動員され、全滅しました。1日の違いが、1年生と2年生の生死を分けました。
 
8月6日、二中の2年生は、登校日の予定でしたが、急きょ東練兵場で、6月に植えたサツマイモ畑の雑草抜きをすることになりました。もし、登校して西観音町の学校で被爆していたら、命がなかったかもしれません。
 
その日の朝、空襲の警戒警報が解除されたため、私は動員先の東練兵場に向かいました。自宅にほど近い高須の電停から宮島線の電車に乗ったのですが、たくさんの人でまともには乗れません。電車の外側にある手すりにぶら下がる状態でした。己斐駅で乗り換えた市内電車でも、手すりにぶら下がって広島駅に向かいました。無理して乗ったため、遅刻せずに東練兵場に着きました。
 
●B29を指さしたとき
愛宕の踏切を渡ったところが東練兵場の入口です。午前8時10分、「全員集合」の合図で、練兵場の真ん中辺りに向かって歩いていたとき、B29の爆音が聞こえました。南に向かって急降下していて、いつもより大きく見えます。上空には小さくピカピカ光る物体も3つか4つ見えました。隣にいた前田くんに敵機がいることを伝えようとして、右手で飛行機を指さした途端気を失いました。音や爆風の記憶はありません。
 
全身が火の中にいるような熱さで意識が戻り、黄色い煙につつまれていました。このまま焼け死んでしまうのだろうか。「お母さん」。思わず叫びました。
 
東練兵場に集まった生徒たちが直接爆撃されたのだと思い、両手で目と耳を抑えて伏せていました。しばらくして顔を上げると、白い煙が流れて、少しずつ明るくなっていきます。「逃げにゃいかん」。起き上がって、みんながいるところに走りました。
 
B29を指さすために上げた右手の甲の皮がはがれ、肉がむき出しになっています。自分で手の皮を寄せてしまったのかもしれません。強烈な痛みでしたが、がまんするしかありませんでした。熱線を受けた帽子、服、ゲートルの左後ろはきつね色に焦げていました。
 
南の上空に、円筒状の雲が、金属を燃やした時に光る黄・赤・茶・紫の光を発しながら、モクモクと上昇していきます。私たちは、きのこ雲の真下にいました。
 
「分散退避せよ」と、号令がかかりました。家に帰れば、やけどの薬もあります。一刻も早く家に帰ろうと思いました。愛宕の踏切に向かいましたが、東練兵場に押し寄せる人の群れがすさまじく、流れに逆らうことができません。市内は火が出たとの知らせもありました。やけどに機関車の油を塗ればよいと伝えられましたが、油がどこにあるのか分かりませんでした。仕方なく、東練兵場に引き返しました。
 
東練兵場には、やけどした人たちが多くいました。衣服を焼かれ、肌がむき出しになった女性もいます。襟だけ残って、丸裸です。私はどうすることもできず、うろうろ歩くしかありませんでした。
 
やけどの痛みを和らげるために、腕を上に、前に、後ろに、横にと探ってみると、幽霊のように、胸の前で手先をぶら下げる姿勢が一番楽なことが分かりました。全身やけどの人も同じかっこうで歩いているのを見て納得しました。
 
親切なお姉さんが、自分もやけどをしているのに、私の腕に包帯を巻いてくれるといいます。ところが、包帯を巻こうとするや否や、飛び上がるほどの痛さで、お断りしました。
 
赤ん坊を抱いた女性は、お経を唱えていました。
 
尾長国民学校に救護所ができたらしく、行ってみました。集まっている人を見ると、私のやけどは軽傷の部類です。医師自身も包帯で覆われ、目だけ出している状態で飛び回りながら、「そこの一斗缶の油を塗っとけ」と指示しますが、一斗缶は空っぽで、ここでも油を塗ることはできませんでした。
 
学校の窓に腰をかけ、周りの様子を見ると、すさまじい光景です。国民学校の男の子が、「先生、頭が痛いんです」と訴えます。上から見ると、その子の頭には大きな穴が開いています。それでも生きていることが不思議でした。
 
警防団の人たちは、動けなくなった人を担架で教室に並べて寝かせていましたが、近くで火が出たため、再度担いで練兵場の広場へ運んでいました。
 
●二葉山へ
尾長国民学校から東練兵場に戻り、1時間ぐらい過ごしました。被爆の瞬間に吹き飛ばされた帽子と弁当箱を探し出し、二葉山の中腹にある友人の家を訪ねました。そこから見た広島駅の火災はすさまじく、火炎放射器の炎のように横に走っていました。
 
多くの兵隊さんが山に上がってきて、道端に横たわり、おう吐、下痢をしていました。おそらく工兵隊の人たちでしょう。世界で一番強い日本の兵隊さんがこんなはずはないと驚きました。二葉山で弁当を半分食べて、夕食用に半分残しました。
 
●同級生4人で高須を目指す
時計を持ってはいませんでしたが、午後1時ごろだと思います。火災も下火になりつつあったので、高須の自宅に向かうことにしました。古江に住む前田くんと大州くん、井口に別荘がある世羅くんと私の同級生4人で山を下りました。
 
愛宕の踏切はスムーズに通れました。的場に出ましたが、対岸が火事で猿猴川を渡ることができません。猿猴川で、初めて死体を見ました。荒神橋も渡れず、川下に南下していきます。宇品線の鉄橋を渡り、段原に出ました。宇品線の線路伝いに比治山の東側から南端を回って、電車通りに出ました。街は焼け落ちていて、己斐の山の麓がすぐ近くに見えました。
 
比治山橋を渡ったのですが、焼けて真っ黒になった人たちがぎっしりと寸分の隙もなく座り、寝っ転がり、人一人が通れる幅しかありません。途中で知り合った工専の人を頼りに、焼け落ちた道を鷹野橋に向かいます。南から北へ吹く熱風で、左頬のやけどが痛みます。広島文理科大学で、校舎と樹木が熱風を遮ってくれ、一休みできました。一息ついて、明治橋を渡ったのですが、ここでも多くの被災者が座り、寝転んでいました。消火栓から道路に噴出した水の流れに、やけどした人が幾人も寝転がって体を冷やしています。防火水槽で手拭いを濡らそうと近寄ると、水槽にも人が浸かっています。重症の人たちから「水をください」と声をかけられますが、飲み水をもっていなかったですし、重いやけどの人に水を飲ませてはいけないと言われていたので、「救護隊が来るから頑張りんさい」と言って、逃げるようにその場を去るしかありませんでした。
 
●二中に立ち寄る
午後3時ごろでしょうか。人を焼いた臭い交じりの熱風が吹き、頬のやけどが痛みます。住吉橋、観音橋を渡り、塀を乗り越えて、二中の敷地に入ってみました。校舎は全て焼け、何もなくなっていました。
 
東練兵場で被爆したときは、わら草履を履いていましたが、逃げる途中に片方が脱げて、そのままはだしでした。その後、おばさんにわらじをもらいました。西大橋、旭橋を渡ると急に足が重くなり、歩くのがしんどくなりました。
 
●高須の自宅にたどりつく
夕方、6時か7時ごろだと思います。高須の自宅にたどりつきました。
 
爆風で窓ガラスは全部壊れ、天井の板は吹き飛び、屋根はふくらんだように盛り上がっていましたが、自宅が残ったのは幸運でした。黒い雨が降ったことは後から聞きました。
 
●急性障害
被爆した日の夜から翌日にかけて40度くらいの高い熱に侵されました。4日目には、やけどを覆っていた包帯の間から小さなうじ虫がはい出ていて驚きました。
 
江波の三菱で被爆した父は、被爆から3日後ぐらいに初めて帰宅したのですが、社用車で私を三菱重工業(株)広島機械製作所の病院に連れて行ってくれました。病院では、やけどで真っ黒になった右腕に当てていたガーゼを、うみと一緒にはぎ取られました。飛び上がるほど痛かったです。そこに、赤チンと油を塗って、包帯をしてもらいました。この処置で回復が早くなったのだと思います。2週間ぐらいで薄皮ができてきました。
 
9月から10月にかけては下痢に悩まされましたが、いつの間にか治りました。
 
●後輩の死
二中の1年生は、爆心地に近い中島地区の建物疎開作業に動員されていて、全滅しました。
 
家が近所の1年生の子とは、高須にあった上野ガーデンの下にあった店で、アイスキャンディーをよく一緒に食べていました。被爆し、傷ついて帰宅したその後輩が、「アイスキャンディーを食べたい」と言ったそうです。親御さんが、私に店のことを尋ねに来られました。被爆直後は電気も水道も止まっていました。店はあったとしても、アイスキャンディーがあったとは思えません。あの1年生は、亡くなる前にアイスキャンディーを口にできたのでしょうか。
 
隣の家のお嫁さんは、市内で被爆しましたがほとんど無傷でした。それでも、髪の毛が抜け始め、歯茎から血が出て、1週間も経たないうちに亡くなってしまいました。
 
●語ることができなかった被爆体験
全焼した二中は、校外の廿日市町、可部町、海田町に分教場を設けました。私は廿日市の分教場に通いました。私は旧制中学最後の卒業生となり、現在の広島観音高校に編入して、卒業しました。大学を卒業後、戸田工業(株)に就職し、定年まで勤めました。
 
働きはじめたころ、職場のみんなが私の被爆体験を聞いてくれたことがあります。ある日、私の話を聞いた女性社員がトイレで泣いていたことを知りました。彼女は原爆で親族を失い、一人きりになったとのことでした。
 
このことがあってから、私は被爆体験を話せなくなりました。
 
●二度と経験したくない
広島に原子爆弾が投下され、多くの人が傷つき、亡くなりました。今も苦しみ、悲しみは続いています。二度と経験したくありません。
 
私は、自分の体験をほとんど語ってきませんでした。若い人たちに話しても、分からないかもしれません。中学の後輩は、原爆で全滅しました。東練兵場で被爆し、一緒に避難した同級生も亡くなりました。戦争によってもたらされた事実、悲しみ、苦しみを若い人たちに伝えなくてはならないと思い、体験記にまとめることにしました。 

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