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在日韓国人二世の被爆証言 
李 鍾根(い ぢょんぐん) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 広島市荒神町 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 広島第2機関区 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●生い立ちから被爆まで
私は、父李鶴基(イ ハッキ)と母鄭点鳳(チョン チョムボン)の長男として、島根県西部に位置する匹見(現在の島根県益田市)で生まれました。両親は、私が生まれる前に朝鮮半島から日本に渡り、炭焼きや飯場の仕事をしながら、広島県佐伯郡吉和村(現在の廿日市市)と広島県安芸郡坂村(現在の坂町)を経て、広島県佐伯郡平良村(現在の廿日市市)に住居を移しました。姉で長女の李龍伊(イ ヨンイ)と妹の二女李東女(イ トンニョ)、弟の二男李鐘錫(イ ヂョンソク)、三男李鐘球(イ ヂョング)、四男李鐘考(イ ヂョンゴ)の6人きょうだいでした。

当時は、創氏改名(そうしかいめい)という政策により日本風の氏名に改名しており、私は江川政市(まさいち)と名乗って生活していました。国民学校高等科を卒業間近の頃、学校に私の就職採用通知書が届き、先生からその通知書を持って行きなさいと渡されました。私は通知書を開けて見ると、氏名の横に「朝鮮人」と書いてありました。朝鮮人ということで不利な扱いを受けたくなかったので、私はそれを消しゴムで消してから提出しました。かくて私は運輸省広島鉄道局に就職し、昭和20年8月には、広島第2機関区に所属していました。同月15日に誕生日を控えた満16歳でした。

●運命の瞬間
1945年8月6日の朝、私は母と口げんかをして汽車に乗り遅れてしまったので、宮島線の電車に乗って出勤していました。廿日市駅を出発して、原爆投下の目標となった相生橋を通過し、広島駅近くの的場町停留所で下車しました。猿猪川に架かる荒神橋を渡って、荒神町に入ったそのときです。

突如、黄色みがかった光線が走りました。その光は、2~3秒間漂っていて、私は「何だろうか」と考えながら周囲の様子をうかがいました。光の中で、目前の家が浮いて見えたことを覚えています。爆撃を受けたら、目と鼻と耳を指で塞いで地面に伏せる訓練を受けていたため、私はその場に伏せました。ドーンという音がしたと言う人が多いですが、私は物音ひとつ聞いていません。しばらくたって顔を上げてみると、朝8時過ぎだったのにもかかわらず、暗夜のように真っ暗でした。ものすごい爆風で、ほこりや煤が巻き上げられたのだと思います。爆心地から2キロの地点でした。

●被爆直後
そのままじっとしていたら、辺りがだんだん明るくなってきました。周囲を見回すと、火は出ていないものの、見渡す限り建物が潰れてしまっています。私は身につけていた制帽と眼鏡と弁当がないことに気づき、周辺を駆け回って捜しました。すると、20メートル以上離れた場所に、弁当が飛ばされていました。制帽と眼鏡も近くにあるのではないかと思って捜しましたが、見つからなかったため、弁当だけを持って荒神橋の下へ避難しました。

橋の下には4~5人の大人が避難しており、「これは新型爆弾だ」と話していました。その中の一人に「おい、あんた、顔の皮膚がちょっと変わっとるぞ」「首の方もちょっと変わっとるぞ」と言われて、触ってみると痛みを覚えました。「あんた、これやけどだよ」「皮膚の色が変わっているし、やけどだ」と言われて、初めて自分がやけどをしていることに気がつきました。私は鉄道局の制服と制帽を着用していましたので、暑い最中とはいえ長袖と長ズボンで肌の露出は少ない方でした。しかし、露出していた頬から首、手などが、熱線をじかに浴びてしまったのです。

橋の下にもそう長くいられないので、私は職場である第2機関区へ避難しようと思い、歩き始めました。突然、正面から一頭の牛が走ってきました。当時は、朝早く農家の人が肥料にするための下肥を市内に取りに来て、牛に荷車を引かせて運んでいました。その牛車の主の姿がなく、牛だけが猛然と走ってきたので、どうしたのかなと思ってよく覚えています。牛も驚いたのだと思います。道の両脇の家々が全て倒れて、がれきの山となっていました。その下から、多くの人の「助けてくれー、助けてくれー」という声が聞こえました。子どもの声もありましたし、がれきから首を出して「助けてくれー」と叫んでいる人もいました。私は、とにかく早く逃げたい一心で、その人たちの手を引くことができませんでした。16歳で子どもだったとはいえ、助けられなかったことが今でも忘れられません。

●第2機関区に向う
職場に着くと、建物は無事でした。機関車が出入りするために向い合う二面が開いた構造なので、爆風が通り抜けて倒壊を免れたようです。同僚は、出勤が遅れた私とは違って屋内にいたため、目立つ外傷を負った人は少なかったです。彼らは、私を一目見て「お前、やけどをしとるぞ」と言いました。私のやけどの症状は、皮膚がただれるというよりも、赤みがかった色に変色していたようです。「やけどなら油がいい」と言って、機関車の整備に使う油を塗ってくれました。それはもう、本当に痛かったです。食用油くらいなら何とか耐えられるかもしれませんが、工業用の油を塗られると何とも言えないくらい痛くて、泣いてしまいました。しかも、その油は真っ黒なので、私は顔から首にかけて真っ黒になってしまいました。

その後、近くの防空ごうに入って昼頃まで横になった後、おなかがすいたので携えていた弁当を食べました。今だったら被爆した弁当を食べる人はいないと思いますが、そのときは放射線の存在など知る由もありませんでした。

●東練兵場の惨状
私は、爆風でふき飛ばされた制帽と眼鏡を捜しに行くことにしました。途中で辺りの様子を見ようと、広島駅北側にある東練兵場に足を向けました。時刻は13時頃だったと思います。ものすごい数の負傷者が集まっていました。8月なので、みな薄着だったのでしょう。全身が焼けて裸同然の状態の人々がうめいていました。家族や知人の消息を尋ね合う声が、あちこちから聞こえてきます。その光景を見ながら、私はこんなに元気なのに、なぜみんなはあのような状態になったのだろうと不思議でした。あとから聞いたのですが、東練兵場から北に参道がつづく東照宮でも、大勢の人が亡くなられたそうです。その後、自分が被爆した場所に行きましたが、結局制帽と眼鏡は見つからず、職場に引き返しました。

●自宅までの悲惨な道程
16時頃、同じ方面に帰る同僚と一緒に歩いて帰宅することにしました。荒神橋を渡って稲荷町を通過し、弥生町に入りました。燃え盛る広島市中心部を避けて、東千田町の広島文理科大学の前を通りました。そこには黒焦げの死体がたくさんありました。大きな馬が半身焼けた状態で横たわっていたのですが、死んでいるのにもかかわらず、大きな目を見開いていたのが印象的でした。

その後、明治橋、住吉橋といくつもの橋を渡って西を目指して進んだのですが、橋のたもとには必ず大勢の人が集まっていました。全身真っ赤に焼けて、幽霊のような人々が「水をくれぇ、水をくれぇ」と言いながら、橋を渡る人の顔を一人ずつ必死の形相で見るのです。恐らく橋のたもとにいれば、身内や知人と出会えるかもしれないと考えての行動だったのではないかと思います。

19時頃、国道2号線に出たときには、山のように死体を積んだ軍隊のトラックが、何台も宮島方面に向って走っていました。やっとの思いで、平良村の自宅にたどり着いたときには、23時をまわっていました。

●家族との再会
家にいたのは妹と弟たちだけで、両親の姿がありません。聞くと、両親は私を捜しに広島市内に行ったというのです。私の勤務先の場所を、両親は知りません。朝鮮人であることを隠して働いていたため、伝えていなかったのです。それでも両親は、私を捜しに行ってくれました。母は、わら草履を履いていたので地面の熱さで歩けなくなってしまい、途中で引き返して翌7日朝に帰宅しました。父は地下足袋を履いていたので、もう少し先まで捜しに行き、同日昼頃に帰りました。母は私に、「ああ、お前、生きていたのか」と言い、抱き合って泣いて喜びました。しかし、広島陸軍被服支廠に勤めていた姉は、行方不明のまま、とうとう帰ってきませんでした。

●生と死の分岐点
実は8月6日の朝、電車で同僚の木谷(きだに)さんに会いました。私が、的場町停留所で降りることを告げると、彼は次の停留所で降りると言って、電車に残りました。その直後に、原子爆弾がさく裂したのです。彼は、電車の窓ガラスが全身に突き刺さって亡くなりました。私も一緒に電車に乗っていたら、命を落としたかもしれません。目的地は同じ第2機関区なのに、紙一重の差で生と死がわかれたのです。

●急性原爆症との闘い
私は、やけどの治療のために広島鉄道病院廿日市分院に毎日通いました。「これを塗りなさい」と赤チンを1瓶もらって、せっせと塗りました。しばらくするとかさぶたができて、それがはがれたらまた赤チンを塗るといった具合でした。当時貴重だった菜種油を農家の方から頂いたので、それも塗りました。鏡を使って、頑張って自分で塗るのですが、首の後ろだけがどうしてもうまく塗れないので、そこだけは母に頼みました。暑い時期だったので、患部にウジがわいてハエがまとわりつきます。栄養がたっぷりあるせいか、よく肥えたウジでした。母は、箸のようなもので、そのウジを一匹ずつ取り除いてくれました。母は泣きながら「焼けただれて見るに忍びない顔だし、首にウジがわいて、このまま大きくなっても一人前の人間にはなれないだろう。代われるものなら代わってやるけど・・・。早く死ね、早く死ね、死んで楽になれよ」とつぶやいていました。母の本心ではなかったとは思いますが、私も一緒に泣きました。そのときに私の頬に落ちてきた母の涙のぬくもりを、生涯忘れることはないでしょう。

私は、やけどの他に下痢の症状もあったのですが、4か月ほど床にふせた後に快方に向い、職場に復帰しました。父はひどい下痢が続いて、私よりも長期間寝込みました。その頃、髪が抜けたら死ぬという話を聞いていたので、毎朝起床後に髪を引っ張って確かめることが私の日課でした。髪が抜けなかったら、今日も一日生きられるのだという実感が湧いたものです。例えるなら、刑の執行を待つ死刑囚が、そんな心境だったのではないかと思います。

●被爆者として伝えたいこと
私は自分の過去について話すことに抵抗がありましたが、2012年にピースボートに乗って、世界を一周しながら被爆体験を話したことをきっかけに、証言活動を始めました。どこの会場で証言したときも、今日聞いたことを皆さまの御家族にも伝えてくださいねとお願いしています。

ニューヨークの国連本部で証言する機会を得たこともありました。原爆はむごいです。あんなものは二度と使ってはいけません。ただ、私は朝鮮人で、日本人とは立場が違いますと言いました。原爆を経て終戦を迎えたことによって、私は日本から解放されました。そうでなければ、私はその後もどれだけ苦労したかわかりません。私はそれまで「日本人」でしたが、終戦と同時に外国人になりました。そこからまた差別を受けることになるのですが、これもまた動かしようのない事実です。

私が証言する上で強調したいのは、被爆したのは日本人だけではなく、外国人の被爆者も大勢いたということです。私たち一家のような移住者や、徴用や徴兵で広島にいた朝鮮人、中国人、白系ロシア人、ドイツ人、インドネシア・マレーシアなどからの留学生のほか、自国が落とした原爆で亡くなったアメリカ人もいます。なぜ、その人たちが日本で被爆して死んでいったのか、こうした事実を伝えるためにも、被爆者の一人として証言し続けていきたいと今は考えています。

最後に、これからを生きる方々に一番伝えたいことは、思いやりのある人になってほしいということです。思いやりがあれば、差別やいじめもなくなり、ひいては戦争がなくなることにつながると思います。差別のない世界が、一日も早く来ることを切に望みます。

 

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