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祖母伊藤キヌの最期について 
伊藤 眞一郎(いとう しんいちろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2016年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
大正15年、祖母キヌは36歳で夫昌一郎を亡くし、あとに、12歳の秀夫(筆者の父)、4歳の恒雄と康男(双生児)、満1歳を迎えたばかりの邦雄の4人の男児が遺された。女手一つで食べ盛り・育ち盛りの4人を養うのは楽ではなかったと思われるが、娘時代に身につけた素養を生かして茶華道の師範を職とし、4人を上級学校に進ませ、それぞれを無事独り立ちさせた。小町の国泰寺の近所で米穀商を営む実家が同じ町内だったので、その支えにも助けられたようである。8月6日はその実家の弟の命日で、ちょうど五回忌法要が予定された日だった。

キヌは、当日は朝から、法要の手伝い・参列のため、建物疎開で小町から移転したばかりの江波の住まいを出て、実家(あるいは菩提寺の常念寺〔大手町6丁目〕だったかもしれない)に出向いた。原爆の投下に遭遇したのが、その途中だったか到着後の法要の場だったかは、定かでない。が、当時、市内電車は、舟入・江波方面には通っておらず、また、バスも市内を迂回する路線を乗り継がねばならなかった。仮に遠回りを避けて、バスにも乗らず徒歩で向かったとすれば、朝早くに江波の家を立ち、住吉橋、明治橋を渡って鷹野橋に出、大手町筋を進み目的地のすぐ手前、おそらくは国泰寺町辺りに至って、8時15分を迎えたのではないかと推測される。戸籍簿記述に、死亡の日時・場所について「8月6日午前12時」、「国泰寺町番地不詳」とあるからである。ただしそれには、県の西警察署長報告にもとづく死亡受付(報告日は昭和20年12月1日、受付日は同年同月4日)となっていて、届出人名の記載がない。警察の手による死亡状況・遺体の確認による死亡受付と読めなくもないのだが、受付年月日からすると、実状不明のまま他の多くの被爆死者と共に、後日一括して書類上処理された可能性もある。キヌには被災を免れた市内在住の妹3名がおり、キヌの江波の居宅や遺品整理を行ったらしい。その際に、いずれかの妹が何らかのかたちで届け出た可能性も考えられるが、確認できていない。享年56歳、キヌの遺骨は未だに存否不明のままである。なお、当日の法要施主であった実弟の妻、そして甥二人と姪も、同日全員被爆死を遂げた。

手元に、キヌの手紙が一部を欠き紙も朽ちかけて残っている。旧満州奉天に在った秀夫の妻佐那江(筆者の母)宛てのもので、日付は「昭和20年7月3日」とある。同年4月1日に徴用船阿波丸の船員として南方海上で米潜水艦に撃沈され命を落とした末子の邦雄のこと、建物疎開に伴う家財類の処置のことなどが記され、「この手紙を出すのが最後かも知れません。死んだら後を宜しく頼みます」とも綴られている。邦雄の訃報が届く少し前にはすぐ上の兄康男の病死をも看取っていた。相次ぐ二子の死や日毎の戦況悪化に、死を身に迫ったものと予感してのことだったのだろうか。その言葉通りに最期の手紙となった。

この度、広島原爆死没者追悼平和祈念館に死没者登録するに当たっては、前述の通り、ひとまず戸籍簿の記述にしたがったのだが、終戦後、シベリア抑留あるいは旧満州引き揚げの後にそれぞれ帰郷した秀夫と佐那江(筆者の父母。いずれも故人)が、キヌを知る者から伝え聞いたという話では、6日、キヌは即死は免れて、茶華道師範をしていた縁から廿日市方面在住の弟子筋を頼って広島市街を脱出、8日後の8月14日に死亡したという。その他にも、比治山方面に逃げたらしいとか、似島収容所に運ばれたらしいとかの伝聞もあった。家族の消息を尋ね回る中、「彼此の方面に逃げるのを見かけた」といった類いの伝聞は、被災後の広島中に数知れずあって、大半が行方不明のままのようである。先日、市の原爆罹災者名簿が公開された。ひょっとして…と淡い期待をいだき赴いたが、名前は見い出せなかった。キヌがいつどこでどのように亡くなったのかは、現段階では「不明」とするのが正確かもしれない。因みに、生前の秀夫は、キヌの命日を、仏壇に収めた過去帳には「8月6日」と記す一方、墓碑には「8月14日」と刻んでいる。

広島市の推計では昭和20年末までの被爆死者は約14万人という。この数字にしたがえば、キヌのような最期は、8月6日とその後の数ヶ月の日々の最期14万件中の一つということで、おそらく特別のものではない。が、それはまた、キヌ一例の14万倍にも及ぶ数の、普通の市民の家族や知友との暮らしと命が、一挙に破壊され奪われて、その少なからずが最期すら定かでないということでもある。

先の5月27日、原爆慰霊碑の前に立ったオバマ米国大統領は、「71年前の明るく雲一つない朝、死が空から落ちてきて…」と、その朝も夏空の下に、普段通りの一日を始めようとしていた市民の身に想像を馳せることから、所感を述べ始めた。そこには、現職米国大統領としての現実的・政治的立場への周到な配慮のみならず、事前に自ら被爆の惨状に関する資料と向き合い、そこで得たことにもとづく想像を介して犠牲者に寄り添おうとする、バラック・オバマ個人の意思もまた窺われた。

終戦二ヶ月後の旧満州生まれで、祖母のことは写真や父母の断片的な話でしか知らない筆者には、「死が空から落ちてきた」後の祖母の身の上については、今は乏しい手がかりをもとに、あれこれ想像するほかはない。しかし、出来事の当事者でない者にとって、残されたより確実な手がかりにもとづき想像することこそが、当事者に寄り添って出来事を考え、行動する第一歩でもある。祖母キヌが弟の法要に出かけたあの朝からはや七一年目、筆者自身の齢と同じ歳月が流れた。ずいぶん後ればせのことではあるが、キヌの事績については、これからも手がかりを求めて心当たりを調べ、得られた成果は記しとどめてゆきたいと思う。それが、この夏に広島だけで優に30万を超した被爆死者への、ささやかな供養にもつながることを願って。

(平成28年8月6日・記) 

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