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母の被爆体験記 
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性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2015年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私の母は83歳で大腸癌で亡くなりました。

21歳の時に幟町の自宅で被爆していますが、亡くなるまで、被爆体験を語ることはなく、それどころか、少しでも惨い事件とか災害のニュースにでさえ目を背けていました。

それほど恐ろしい体験をしたのだろうと家族は薄々察して、こちらから被爆時のことについて聞くこともしませんでした。

しかし、癌の進行に伴い、寝たきりになり、痛み止めの薬剤で意識もはっきりしていない中、あるとき突然手足をばたつかせ、「どなたか助けてください、どなたか助けてください」と懇願するようにつぶやきました。

手を握って「大丈夫だから、大丈夫だから」と言って心鎮めてやるしかありませんでしたが、たぶん、被爆直後のことがよみがえっているのだろうと察し、不憫でした。

最近、同じく被爆者であった父が亡くなり、遺品を整理していく中で、父が8月1日に白島の工兵隊に入隊し、たった5日で被爆して、自身も被爆者でありながら、10月まで死体処理や市内警備にあたっていたこと等の体験の手記を残していたのを見つけました。これは資料館に寄贈しましたが、おぼろげに親戚から聞いていた母の被爆体験はそれ以上に壮絶なもので、同時に被爆し亡くなった母の母(以後、祖母)、母の兄(以後、伯父)の供養のためにも、わかるところまで調べて、記録として残しておくべきだと思い筆を執りました。

その時、昭和14年に母の父(祖父)は亡くなっており、祖母と29歳の伯父の三人で暮らしていたようです。

家は旧幟町小学校(現、幟町公園)の近辺で、伯父は袋町の富国ビルの電信局勤務でした。

8月6日にも既に出勤しており、その時、かろうじて無事だった人がまだご存命だということが最近分かり、捜したところ、伯父が亡くなった時の様子を聞くことができました。それによると、被爆直後、その方だけが元気に動くことができたので、建物中の生存者の救出に当たられたそうで、そのさなか、4階の階段踊り場でガラス片で血まみれの伯父にあっており、その時は生きていたそうですが、痛くて動けないので、そのままにしておいてくれと言ったそうです。

その後、もう一度同じ場所に戻ってきた時に、自力で逃げようとしたのか3―4階の階段上で亡くなっている伯父を見つけたそうです。また、その時、祖母は家の勝手口に立っていて、母はしゃがんで洗濯をしていたようで、そのことが生死を分けたようです。

母は閃光を感じた途端、家の下敷きになって暗闇に閉じ込められ、たぶん何が起こったのかわけもわからず必死で這い出し、瓦の下敷きになっていた祖母を助け出したようです。

しかし、祖母は目が飛び出して、ひどい火傷を負っていたようです。この時の記憶が死の間際でよみがえって、最初に書いた「どなたか助けてください」と言ううめきになったのだと思います。

本当に原爆や戦争の非道さが身に沁みます。

ただ、母は奇跡的に火傷もひどい怪我もなく、それからたぶん母は祖母を背負って、市内を彷徨ったようです。

ある時、TVで原爆関連の放送をしていた時、よく言われるひどい火傷で皮膚が垂れ下がっている状態を被爆者の方が描いた絵をとりあげていて、ふと母に本当にああいう風になったのか聞いたことがあったのですが、その時、母は「みんな、ああだったよね。」と言っていたので、ほとんど無傷であった母は真に奇跡的だったと言えるようです。

ただ、父もほとんど無傷で助かっており(外にいた人は、ほとんど全滅だったようです。)助かった理由が2人とも屋内でほとんど閃光も爆風もあびていない状況が酷似しているので、奇跡的に2人とも簡易シェルターにいる状態になったのだろうと想像します。

ただ、いろいろなところから血は出たと母がぽつりと言ったことがあるので、放射能の影響は多少はあったのかと想像しました。

その後の母のたどった経路は詳しい証言がなく、戸籍から8月19日に白島東中町で母が祖母の死亡届を出していて、二週間余りの間、重体の祖母を抱えて2~3キロ離れたそこまで、どうやって来て、どう過ごしていたのか、想像すらできません。

また、母の姉が心配して、被爆翌日、身重の体で幼児を連れて郊外から市街に入っており、何時かはわかりませんが出会って、二人で檀家であった寺町の寺のお墓に祖母の遺骨を持って行って納骨したようです。

その後、原爆の実態を知らない近親者に、祖母は酷い状態だったのに母は比較的元気だったので、一人で逃げたのではないかと疑われたそうです。伯父の話を伺った方も、一人元気であったために、事実を知らない人たちから、謂れのない非難を受けたようで、そういった無知な人の誤解という被害もあったようです。

また、それこそ近隣は壊滅状態で、被爆者手帳を申請するのに、被爆事実を証明してくれる人がおらず、苦労したようです。

その後、突然、家も家族も失った母は縁戚や嫁いでいた姉たちを頼って転々としたようですが、ある意味幸いにも、何故か知り合っていた父の縁戚の女性の仲介で程なく父と結婚したようです。

後日、聞いたことからの想像ですが、父の姉も勤労奉仕で当日入市しており、その消息を一族で探していたその女性と知り合ったのではないかと思います。

ただ、ここでも、それまで市内の街の生活しか知らない母が、突然、田舎の生活、しかも父の4人の幼かった兄弟の面倒を見なければならなくなり、かなり苦労を味わったようです。

以上で母の記録は閉じようとおもいますが、現在の広島には保存されている被爆遺物(原爆ドーム他の建造物や資料館の遺品、市内所々に点在する痕跡)以外あの惨劇を感じさせるものはありません。

それだけ人の復興能力の高さを感じさせますが、現在の核兵器はその復興さえできなくなり、一発でもその被害は全世界的に影響する(使った側にも)威力があり、大げさでなく人類を滅亡させるということを人類一人一人が自覚し、絶対に存在させてはならない兵器だと全人類が認識しなければならないと今回、父母の被爆体験を調べ強く感じました。

戦争、武力闘争そのものが、本当は、絶対に正当性のない一部権力者のEGOによる大量殺人だと認識されてきてはいるようですが、そういった意識が全世界に根付くのにはまだかなりの年月が掛かりそうなので、せめて核兵器だけは、わかりやすい広島、長崎の被害状況をより全世界に開示して廃絶に努めなければならないとひしひしと感じています。

また、遺物はどうしても劣化して無くなっていってしまうのは止めようがありませんが、映像や文書は永遠に残しえるので、我々二世以降の人間や広島、長崎ひいては日本国民は根気よく継承活動を続けていかなければならないと思います。 

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