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気象台から見た原爆・黒い雨 
北 勲(きた いさお) 
性別 男性  被爆時年齢 34歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1989年 
被爆場所 広島地方気象台(広島市江波町[現:広島市中区江波南1丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島地方気象台 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
広島気象台で仕事をしていました北勲です。原爆の折は34歳でした、あれからもう44年経ちましたがまだ何とか生きております。一時は体調の悪い時がありましたが、15年くらい経ってから持ち直しました、それまでは肝臓がはれまして、よく医者に注意されました。

昭和20年8月6日の朝は、前日からの当番勤務中で、朝7時前から天気図作成用の気象無線を受信中に被爆したわけです。

昭和26年春まで広島気象台に勤めて、その後四国、近畿の各地の測候所長をしてきました、伊吹山測候所という高いところにも行きました。昭和35年末に大阪管区気象台に移り、調査官として、地震、津波、地盤沈下、高潮予報……などの仕事につきました。大阪に4年近くおりまして、山陰の浜田の測候所長に出まして3年経ち、昭和42年6月に再び広島に戻ってきました。

広島では気象レーダー観測の開設など手がけて、47年4月に気象庁を退官しました。その後、ご縁があって、県庁の方で公害関係の仕事で、大気汚染予報とか調査をして約10年勤めさせていただき、70歳まで働くことができありがたく思っています。

さて広島に原爆が落ちた当時は、一般人は黒い雨については、それほどやかましくは言っていなかったのですが、私共はこれに注目して、記録や報告にとり上げたしだいです。26年に広島を出た頃でも、まだ黒い雨についてさほど問題にされてなかったように記憶しております。

私が広島に戻ってきた頃から、黒い雨が問題になり、48年頃になると、関係者の間で熱心にとり上げられ、私たちも、当時のことを思い出して、ご相談にのったりして、一般の方たちにもだんだんわかって貰ったと思います。

その頃元NHKの記者だった柳田邦男さんが「空白の天気図」という本を出されましたが、この作品の資料の一部は私からも提出したのですが、この本には詳細に書いてあります。

その後にも、新聞、放送関係から取材されまして、その都度私は当時のことを思い出してはお話しておりますが。ことの起りは、敗戦の直後に、日本政府の各機関が、広島、長崎の原爆の災害調査を学術の面から実施しましたが、報告を急ぎその年の12月に収集し、いちおうの報告会が東京で持たれましたが、何しろぼう大な資料で、刊行を考えていた折に、占領軍の指示で検閲を受けることになり、発刊が大幅に遅れることになりました。昭和26年に日本学術会議がこれを引継ぎ、日本学術振興会の名で昭和28年5月にやっと刊行されました。添付した実物写真をご覧下さい。本文は2冊に分かれていて、合計1642頁に及び、他に図面も多く添付されています。この報告書の中に私共、広島気象台が実施した調査報告が含まれております。

この間2年近く待っても音さたが無く、被爆関係の資料として「気象」その他が要求されるので、必要な内容だけをガリ版刷りで印刷し、部内関係と関係官庁に配ったらと、印刷したところ、どこでもれたかGHQの網にかかり、まかりならぬと持ち帰ってしまいました。後日になって残部が少々出てきましたので、部内など特に必要とする向きだけにわけましたが、とに角不自由な時代でした。原爆の調査は、被爆してから間なしに始めたのですが、報告を急ぐ、日数の制限があり、色色と苦労がありました。

聞き書き調査は大変にむつかしくて、当時市内にいた人は外からきた人もいて、詳細を聞いてもわからないし、始めから市内にいた人は、大抵ケガ人か病人で、話がしにくいし、話しかけても拒否されましてね。それでは近郊を回ろうということになって、田舎の方を約半月から20日間くらい歩き回って、資料を集めてきました。それでも件数にして160位でしたか、それだけの人々に聞き出したものです。

範囲が広大なものですから、資料のある所がばらついていて、これをどう扱うかということで議論したんですが、見てわかるようにしないことには、話はできないし、後から使う人も困るからというんで、一応の線引きをすることにし、少ない材料で、不確実を承知で、意見を交しながら線引きしていったんです。その結果できたのがこの長卵形の図面です。

長径19㎞、短径11㎞の大雨区域、長径29㎞、短径15㎞の小雨区域を求めたわけです。その当時からこれは暫定的なものだという感じは自分たちは持っていました。

しかし、後日印刷されると、これが正確なものとされ、何しろ一つしかないものですから、それが一人歩きをしたといいますか、各方面で資料として使われました。

近年になって、色々な資料が得られて、かなり批判を受けております。雨の範囲とか、降り方とかだんだん訂正されております。黒い雨にしても、始めのうち30分くらいに黒いものが沢山混っていたんです。それ以後更に白い大雨が降って、かなり黒い成分を流し去ってくれました。あれがそのまま溜っていたんでは、たまったものではありません。

調査した時は、戦後の混乱期であり、我々の少ない人数では、もう精一杯のところでした。実際に一番よく働かれたのは宇田道隆さんという方で、ご紹介しますと、私より6歳年上でしたが、当時宇品に船舶練習部というのがありましたが、そこで、敵軍の上陸作戦に備えて、自爆ボートで敵艦に体当りして防ぐというような部隊の幹部に教育していた将校で、その方は神戸海洋気象台長の現職中から軍に召集されていました。敗戦になって軍が解散され、気象界に復帰され、最初の仕事が、広島にいたから、広島原爆の調査をせよということで、中央の指令を受けてこられたわけです。

我々と話を交したのは9月に入ってからでしたが、この調査は直ぐにやらねばということで、その翌日から早速調査を始めました。

東京の方で12月までに作成せよとの指示が出て、これは大変だという訳で若い人も動員して4名ほど、全部で7名位で調査を進めました。私は従前から広島気象台の技術主任をやっていた関係で、先ず一番に気象方面を担当しました。

原爆でやられた直後ですから、皆いろんな点で大変苦労したし、役所のたてなおしにも随分力をさかれ、この調査もまた大変で、結果的には宇田さんが調査の6割をやり遂げられ、私は2割くらいやったと思うのです。総括的なとりまとめは宇田さんがやられました。これらの原稿を12月5日頃東京の方へ提出しました。以上が大体の経緯です。

さて本日は黒い雨についてご関心があるようですから、それを重点に、質問をまじえながらお話をしていったらと思うのですが。当時の状況は調査活動には非常に都合が悪いものでした。乗物といえば自転車ぐらいで、古い自転車を使い、特に遠いところ、安佐地区などは行くのが困難で、朝早く出て、帰宅は夜の8時頃になり、現地で実際に調査できるのは正味2時間ぐらいでした。その間はテクテク歩いているか、人と話しているかで能率がとても悪いんです。泊れる所があればいいのですが、当時は食糧事情が悪く、農家でも気易く泊めてくれる所はありません。

こんな事情で、完全とまではいかなかったですが、我々気象屋のやる仕事は良心的でかけ値はありません。学問的に使えるものをと、その辺は確かなものです。数は少なくとも、取り上げたものは信用の置けるものです。

最近になって増田善信さんの調査など改善されたものができてきました。同氏は調査に当って私の所へも見えて、相談を受けました。私からは、昔の事情をよく話して、この程度しかやっていないから、今からでも努力すれば、それなりの資料が得られるのではなかろうかと。但しよく注意してもらいたいのは、利害関係がからむと、多少とも自己に有利なように話す人が無いとも限らぬと。

あの当時の事を憶い出すと、実際私たちが現地を回って、調査の話をしかけるんですが、まだ戦時中の気分が抜けず、当時のことは語りたがらない。事実を後々の記録に残すためだ、こういう目的でやっとるんだから、ぜひとも聞かせてほしいと、気をほぐしてやっと話してもらいました。

宇田さんは昭和57年に77歳で原爆症で亡くなられました。骨の組織がこわれる病気で約2年間、東京の病院に入院治療されたんですが。当時、一緒に働いた人間で、現在広島に住んでる者が4人ほどいますが、この春に1人原爆病で亡くなりました。今日来ましたのも私が生きているうちに、皆様のお役に立てばと思い、お話しに参りました。

雨の図面を作ったのも、その当時はこれを黒い雨対策用に使う目的ではなくて、原爆のような大きな変動が起った場合に、周囲の気象状況はどのように変化するものか、どのような雨が降るかという研究調査ですから、後で医療対策に使われるのと目的が多少異なっております。聞きとり記録の中にところどころ出ていますが、どういう病状が出たとありますが、参考ていどに書いていますので多少落ちているものもあると思います。

被爆当時に原爆の雲が立ち上りまして、どの方向へどう行ったか、雨はどう降ったかをここでひと通りお話ししましょう。

私が爆発に気付いたのは、無線電信を受けていて、パッと光り、顔を上げたら青白い光の幕が大空に拡がっていくのが、目の前の窓いっぱいに見えたのです。窓の大きさは横90㎝、縦180㎝の縦長のもので、丁度向うの方角に本川筋が見える位置です。「あれっ」と思って、さらに0.5秒ほど後に、今度は赤色の光が目に入り、続いて橙色の熱波がグァーッと押し入ってきました。これはものすごく熱く、圧力を感じました。爆心からの距離は3.7㎞あったのですが、屋外にいた人は火傷をしました。

これはすぐ側に爆弾が落ちたと思い、イスをはねのけ床に伏せました。その様な時でも、我々は職業柄必ず時間の測定をやります。で光ってから爆風の来るまで何秒かかったか秒数を数えます。これはもう癖になっていますが、そうしたところ5秒たってから爆風がきました。爆風がゴーッときて、机上にあった無線受信機が吹き飛び、身体の上に落下しました。窓ガラスは砕けて飛び散り一部は壁や扉に突きささりました。私は伏せるのが早かったため軽傷ですみましたが、台内の職員は重軽傷を負いました。屋外を歩いていた人は大小の火傷を受けました。傷の軽い者は手分けして、負傷者の手当をしました。

こんな非常時でも気象観測の仕事は中止することはできませんから、直ちに観測当番者は業務に専念するよう指示を出しました。私は、四方に気を配りながら、時々外に出て市街の方を見たのですが、調査記録にありますように、最初爆風は上から下方へ向けて、バァーッと吹きつけて、地面に突き当るとそれが横方向に八方に拡がってゆき、丁度お椀を伏せた形に、赤黒い炎が出ました。この広がりには秒数になおして約10秒くらいでしたか。その間に地上を拡がり、速度は秒速にして約700mであります。

上空から下方へ抜けて、横に拡がるわけですが、そのあと爆源と呼びますが爆発を起こした本体から出た塊が大きくなって、それは光と熱を伴って、太陽のように強い熱線が直線で、地面まで斜めにいっとるわけです。これも高速度で、光より少しおそい程度と思われます。この距離がおそらく20㎞位行っているんではないかと思います。

遠い所におった人でも、この熱線を直接肌に受けると、暖かく感じたといいます。

その後、爆風が来ますが、高温の気体が移動するので、行った先々で、現場の空気も温度が上り、その時に空気が膨れて、容積を増し圧迫する感じがします。

それから、畑作の唐黍や芋の葉とかが変色したり焦げたりしているんです。とくに8月のことですから非常に乾燥していました。それに火がついて、焦げているのですが、あれを燃やすためには600度以上はあったんではないかと思います。

不思議なことに、唐黍畑が一様に燃えたり焦げたりはしていないんですね。よく焦げた部分と焦げてない部分とが、帯状に続いているのです。これは爆源から出た熱線が均質に一様ではなく縞状に拡がったと考えられます。火傷を受けた人に聞いても、いた場所で、かなり差があったように思われます。

爆弾による雲が先ず立ち昇って、今度は、街の家屋などに点火して火災が起りました。時間的には約30分後に、点々と火の手が見えてきました。

私のおった所は江波山の上ですから市内がよく見えたんです。このように火災になってから、今度は黒い煙が、もうもうと上りまして、原爆のなごりの煙らしきものがモヤモヤしていたのと、それに連なった火災の煙が加わり、非常に大きな塊になって、その範囲も市街全部を包む大きさに拡がりました。

日照計の記録を調べても、午前9時ごろの1時間値が、その前後の値に比べて、2割ほど少なく、上空を雲か煙が覆ったことを示しています。(時間にして12分間ほど)。

火災による雲塊の高さは、始め㎞粁くらい最盛期は十数粁に及んだ。それは14時頃だったと思います。その前後には雷がピカピカ光るし、降雨については後から調べたところ、早いところは30分くらい、遅いところで1時間後に降り出して、爆心から見て北西方向へ黒い雨が拡がっていきました。江波山から見て横川、己斐方面にかけて、黒い雲の下に雨足が見えました。

量的にどこで何ミリ降ったかということが欲しいわけですが、当時の気象観測点がこの辺りには無かったのです。

そういう訳で、雨量分布は、結局あとから推察して出したわけです。抽象的な表現で、数字で何ミリと表わさず、文字で大雨とか、小雨とか表現しました。

この言葉は気象台では何ミリから何ミリを指すということが定められていまして、この当時の雨の降り方と時間を考慮して、当てはめて、大雨、小雨のランクを決定した訳です。

夏の夕刻は日没がおそく、市内の火災は続き、夜になっても、火災が雲に映えて、凄まじい感でした。

雨が最初に降り始めたのは、午前8時45分ころで、体験した人の話では30分くらいしてからというのです。警察とか消防の方はよく時間を記録されるので、或いは記録されていると思います。

直後にパラパラと雨が降ったという方がありますが、これは火災によるものかどうか怪しいのですが。原爆の爆発によって膨張した空気がその直後に縮まり、上空へ向って、地上付近の空気が吸い込まれ、含んでいた水分が冷却して水滴となりパラパラと降ったとも考えられます。これは原爆のような大爆発の際にしか考えられない仕組です。この際には爆弾の成分である放射能のある物質も一緒に含まれていると考えるべきでしょう。

このあと大火災に原因する雨が降っています。大阪の空襲による火災でも雨が降っているが、広島の場合ほどは降っていません。

やはり原爆による都市火災は規模が格段に大きくて、雨ができるのに条件がよかったという訳でしょうか。

始めの雨滴が黒かったのは、爆弾自体から発生したものや、或いは爆風で空中に舞い上ったものが混入して、雨粒が大きく育ち、気流に運ばれて遠方まで広く降ったという考え方ができます。

火災の折には、どうしても黒い煤がまざりますから、始めのうちは黒くなります。広島原爆の折はこの上に更に色々な物質が混ざって大雨を降らせたと見るべきでしょう。

【質問】大きい火災の後はやはり黒い雨が降るんですか。

【答】それは原爆の時のものは多少違うようですね。汚れた雨でもサラーッとしている、落ちやすいんです。原爆のものは落ちにくいんです。何か粘り気の出るものを含んでいた、私も後日に畑を歩いて調べてみたのですが、芋の葉が黒いんです。あの後、雨が降っているから、洗い流されそうなものですが、黒く残っていました。

【質問】核実験のあとは黒い雨は降らないんでしょうか。

【答】あれは隠すんですかね。正直なことを言っていないような気がしますね。やはり、あれだけの爆発をすれば、降るんではないですかね。気象学的にみましてもね。但し、砂漠で地下爆発をやったような場合は、周囲に水気がないので雨が降る迄にはいたらないでしょうが。
広島の場合は雨をつくるのに好条件がそろっていたんです。海の方から水分の多い空気がずっと流れ込み、材料が十分あり、大火災で上昇気流が強く、且つ長く続き、これらの水分が有効に雨滴となって、上空の風に乗って遠方まで運ばれたわけです。

【質問】黒い雨にかなり強い放射能が含まれていたらしいとわかったのはいつですか。

【答】早くですよ。東京大学からの調査団が残留放射能を測定にきたんですが、これは放射能の雨だとすぐ分ったんです。
宇田さんの次男が学童疎開から帰ってきて、高須の家に住んだのですが、しばらくして頭髪が抜けてきたのです。おかしいというんで、前記の大学の調査員が宇田さんの知人だったので話したわけです。
次男は直接被爆はしていないのに、帰宅してから後、髪が抜けたので、おかしいではないかと考えて、寝床の頭に当る方に放射能が高いのではと、その箇所の雨戸をはずして見ると、この雨戸は爆風で飛んで、それに黒い雨がかかり、泥がついとったんですね。この雨戸の放射能を測ったところ、2カ月を経過しているのに、爆心地の数倍を示したというので、恐ろしくなりました。
この例にみるように、黒い雨が強い放射能をもっていたことは、調査をした人は早く気付いておりました。

                                                    以上
 
 1989年7月11日、広島共立病院に於て職員の学習会に出席して、お話をした内容に、後日多少整理して筆を加えました。
                                                   (筆者) 

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