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被爆体験について 
小倉 要一(おぐら かなめ) 
性別 男性  被爆時年齢 26歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市仁保町金輪島[現:広島市南区宇品町] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は陸軍将校(中尉)として船舶司令部補給部修理部に勤務していました。8月6日金輪島の工場で朝礼を終えて事務所に戻った時、閃光が室内を照し何事かと入口に行った時ごう音と共に爆風を受け、室内に約5~6米飛ばされ落下した屋根の下敷になりました。残がいより脱出して傷の手当をして所外に出て北方を見ると、きのこ雲と赤熱の火柱が立ち昇っているのを見て、比治山の燃料庫か火薬庫の爆発と思い金輪島山頂に登って市中心部を見ると、広島の街は消え失せて赤褐色の荒野となっていました。

中隊に戻り被害調査をしているとき修理部長より命令を受け、原爆被災地へ出動となり中隊より約100名の人員を選び救援隊を編成して宇品へ渡り船舶司令部へ命令受領に行き、市内の道路の啓開を直ぐすることとなり10時50分頃トラック3台で市内に向った。

宇品町より皆実町―鷹の橋を経て舟入本町迄及びその周辺の幹線道路を片付け、後続部隊の救助作業の便を計った。舟入本町に駐在所を設け負傷者の救助死体収容作業を行ない、翌7日は観音新町へ移動し道路の啓開と救助作業に従事した。

その夜作業を終結し帰隊し中隊に収容されている罹災者の看護と死体処理を行うと共に対戦準備を行った。

宇品神田通りの自宅の片付けと被災の妻への処置に幾度か帰宅すると共に、広島中心部の爆心地帯への援助と調査に数回兵員を動かし自らも出動した。

我が救援隊の活動の詳細は拙著「原爆」―原爆資料館及び中国テレビ局及び中国放送社に寄贈―に記述した。

終戦後は可部町八木へ疎開して毎日宇品迄自転車通勤し、9月下旬まで残務整理を行ない除隊し帰郷した。

以上
  

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