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大荷 康夫(おおに やすお) 
性別 男性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1968年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶練習部第10教育隊海上挺進第42戦隊(暁第19857部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
江田島幸ノ浦海岸の基地において特攻隊員として、昼間は広島湾上における航空母艦その他の艦を攻撃目標として㋹の魚雷艇を操縦、一艇当り練習要員として下士官を長とする4名位の人員で、ほぼ45度の斜角から突入、体当り寸前にて魚雷を投下し、直ぐ退避するという猛訓練の明け暮れ、及び艇の故障にそなえて機関の講義を受けておりました。又、夜間においては小隊編成にて隠密作戦として接岸行動及び歩兵の散開その他に準じる舟艇行動を実施されておりました。

8月6日は朝食を終り、演習にそなえて何かと準備をしておりましたところ、空襲警報発令、隊員は直ちに裏の洞穴に退避しましたが、警戒警報解除と共に兵舎に戻りました所、寸刻を経ずして兵舎屋根に、B29の機銃掃射を受け、思わず兵舎内土間に伏せておりました。暫くしてものすごい耳をつんざく爆発音と共に、閃光が走りました。みんなと直ちに舎外へ出ましたところ、対岸宇品の方向にムクムクと煙が中天高く発達していくのを見ました。一同顔を見合わせ平和な広島市が爆撃されたことを知りました。また舎外に伏せていた戦友は、非常な爆発ショックを感じたとのことでした。

その6日午後5時半頃、戦隊令により完全軍装、大発舟艇にて宇品着港、船舶司令部より命令受領の間、暫く、血染めの布をまとって続々集って来る負傷者群を見て、爆撃の惨禍を痛切に感じた次第です。

私達は爆心地に向って行動、放置された電鉄会社の電車を小隊毎に割当てられ、清掃の上、車内を仮宿舎とし、又根拠地としてドーナツ化的に向う7日間の救援作業に従事することになりました。先ず行動開始に当り、小隊長から広島の飲料水等に関して細菌類、毒性物等防止の必要上絶対飲まぬこと、被爆者には死期を早めるから絶対に各人の水筒の水を飲まさぬ様にとの厳重な注意がありました。だが、これが私の生涯忘れ得ぬつらい想い出となっております。何故ならば、当時は盆前の酷暑の盛り、被爆者の奇跡的な回復を願う弱冠20歳の私には、朝から全身焼け爛れ、あるいは爆風症による身の苦痛との戦いに敗れ、明日は精根つきて死んで行ったであろう人達の必死の願いを聞き届けることなく、ましてや、あちらこちらから無念の形相でひしと摑まえられた水筒の手を振りしきらざるを得なかった。被爆者達は、我々救援隊の出現をいかばかり待ったことでしょう。私は戦後23年の今日、病死した愛児の事を想いうかべるにつけ、ああ一滴の水でもいいから口にひたしてやるべきだったと、後悔のほぞを強くかみしめるものです。願わくば在天の霊よ。どうかお許し下さい。

又、私達は死体を一度に75人も火葬にしました。先ず焼け残りの柱とか角材とか木片を附近から集めて、幾段か井桁に組んで、その上に死体を積み上げ、重油を注いで火をつけました。間もなく濛々たる黒煙と異臭でした。然し私達は間もなくその様な光景に慣れてきました。その場に居合わせた人々が冥福を祈っておりました。私達は完全に燃焼されることをただ心に念じるばかりでした。時間の経過はすっかり忘れました。が、焼き終ってまだ温かい骨を戦友と一緒に手頃な壺を探し出して来て、入るだけ入れて土中に埋め、上に墓標代りに木片を立てたり、石を積み重ねたりして集って来た人々と合掌、念仏を唱和した次第です。叉ある時私達は軽、重傷者を担架に乗せて待機するトラック迄運び乗せていました。その時です。忘れもしません。多分女学生だったろうと思います。突然「兵隊さん、私助かるでしょうか」と言います。あたりは夜のとばりに包まれてまっくらです。まさに血の叫びとはこのことでしょう。私と運搬した戦友は思わず絶句しました。ややしばらくして、二人は「絶対に助かってもと通りになるから」と、やっと答えました。少女は何か言いたそうでしたが、それきり黙ってしまいました。無理もありませんでした。トラック上は全身焼けただれた重傷人で身動きならぬ程いっぱいでした。叉、或時は重傷者を赤十字病院の広場まで運搬しました。看護婦が脱脂綿か何かでヨーチンをぬっておりました。苦痛にゆがむ顔、顔。すでに病院内は満員でした。こうして通り一辺の治療とて明くる日は皆暑熱にさらされ、担架上で死んでしまいました。また或る時私達は道路の両側に別れて小休止しておりました。その時に道の真中を杖をついた老人が、トボトボと今にも倒れん許りに、一歩一歩やって来ました。私達は突嗟に救護を求めにやって来たのだろうと凝視しておりました。ところが皆の目前でバッタリ倒れました。軍医が走り、傍へ寄って脈搏など調べておりましたが、それっきり幽明境を異にしたのです。気力の限界に達したのでしょう。この様な情景は各所で見られただろうと思われます。又、被爆当初、各所に発生した火災により、瓦礫と化した周囲の中に、ひどく破壊されたとはいえ、形骸を残している産業奨励館(原爆ドーム)の姿、或いは家屋の倒壊した中で圧死のまま発見された娘さん、涙もすっかり涸れ果て、これをじっと見つめる母親の姿など、又、朝礼時整列中に、突如被爆して死屍累々の校庭の女学生群、防火水槽の中の死体、眼球が飛びだし舌が口からはみ出た死体、川に流れる夥しい死体、それを舟艇上から網にて収容する広島刑務所の囚人の活躍ぶり、又、自分の家のあったと思われる所を確認し、必死になって妻子の姿を求めて掘り起こす人、その手伝いもできぬまま聞けば彼は軍人、呉から許可を受けて宙を飛んで今帰って来たとのことでした。とにも角にも、私達生涯忘れ得ぬ悲惨悲惨の連続又連続でした。最後に私達は障害物を除去し、道路を清掃して、わずか一週間とは言え今次大戦の終局的な大惨禍を体験して血と涙の広島を去ったのです。
 
出典 広島市役所編 『広島原爆戦災誌 第五巻』 広島市役所 1971年 490~493頁
 
  

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