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ヒロシマを偲ぶ 
安形 浅蔵(あがた あさぞう) 
性別 男性  被爆時年齢 31歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1997年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 第2総軍第15方面軍第59軍第230師団 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
半世紀を過ぎても忘れられない広島の惨劇は唯「恐ろしい」。

毎日二十五キロ離れた山の中、八本松廠舎より車で司令部より一ケ連隊の糧秣其の他の受領をするのが午前八時私の任務でした。前夜高級主計と残務整理で遅くなり、翌六日朝の出発が遅くなり兵隊三名トラックに乗せ広島司令部に向わんとして「ドン、ピカッ」。兵舎の中か「今日は原爆だ」こんな声が上官より呼ばれた。出発が遅れたので原爆を免れた!!命令により夕刻、貨車にて出動、二ケ大隊二千五百人広島へ(八本松駅発)。広島市内の「警備」と「死体収容」のため。
 
市内は何時もの戦争と異なり、地上に何一つない飛方でした。「広島司令部」石垣壕も何一つなく、「ヒロシマ城」石垣ほとんど飛散、松の大木根本より抜けて倒れ…、ただ竹の林だけは枝葉が細くさがりその根塊は抱き合いしっかり地中にあり…、恐らく「マッカーサー元帥」もここまでは知らない。
 
初夜骨だけの黒いドームに高級主計と二人して野宿第一号。
 
「死体収容」のためまず太田川上流より流れてくる死体を引き上げ、もう…軍隊にあらず、地獄の中の死体収容。街頭の死人顔ハレ上る、街内に苦しさにうめき肉体内部より紫色にはれ上る、髪の毛焼け水筒にすがる「兵隊さんお水下さい」の声と顔だけは今もって忘れられません。お盆には毎年五十年続けてきました「水と香」。戦后ヒロシマ駐留各部隊の兵士は「被爆証明」を要求手続きして居りました。私は紙一重であの難をのがれ助かっています!!「被爆証明」どころではなく生きてる限り「水と香」の捧げだけ…。
 
先頭のB29が偵察で、第2機目が投下しました。先頭のB29の二分後、第2機目の五分前にヒロシマ大本営(当時司令部)より空襲警報解除でヤレヤレと壕より出たところ第2機B29あの原爆投下の悲報となり外に出た人々(兵隊も混る)があの惨劇にあいました。2機目原爆で見る間に十キロ平方メートル「ピカ」ドンで飛散。川に浮いている入営兵が「奉公袋」手に持ったまま浮いていました!!3機目のB29がゆうゆうと世界初の原爆記録のカメラを持ち飛散しました。新聞の写真の爆発の上右の機は第3機目の爆後確認のB29であります。
 
(命拾い)
南支~広東~海南島~カンボジア~ベトナム~マレー~シンガポールと転戦の中、海南島で両わき将校鉄兜貫通、真中で助かる。八年間永い奉公で内地へ向かうアラビヤ丸(一万屯)で台北沖で前と後の船団が沈められ真中船団で助かり、広島上陸そのアラビヤ丸吾々下船し空のアラビヤ丸九州沖でアメリカ船に攻められ沈没。八年間の神詣で助かる。母の八年永い間の神詣り。

  

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