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原子爆弾被爆体験記 
伊藤 宣夫(いとう のぶお) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 暁第16710部隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 昭和十九年六月、県立遠野中学校にも学徒動員が発令となり、私達五年生は大橋の釜石鉱業所へ勤務させられました。その動員中陸軍船舶特別幹部候補生、当時人間魚雷と称する特攻隊を志願し、昭和二十年二月一日現市長菊池正さん(註、此の文を書いた時の市長で現在は勿論次の市長本田敏秋様に変って居ります。)の実弟菊池正道君と共に遠野駅頭を歓呼の声に送られて出発し、花巻駅で松田愛之助君と一緒になり一旦一ノ関駅へ下車し、夕刻迫る頃県下の出征兵士の合同壮行会を盛大に開催してくれました。これは出征する吾々にとって物凄く士気を高揚し、その意気たるや天をも突く勢いでした。

二月三日香川県高松経由で小豆島へ着き、二月十一日入隊式が挙行され、同月二十六日頃広島の陸軍船舶通信補充隊当時は暗略の為、暁第一六七一〇部隊へ転属し、通信の訓練を受けました。その期間広島周辺の宿泊演習もあって、現地の国防婦人会、女子青年団の皆さんから大へんな持て成しをうけました。殊に帰隊前夜には演芸会を催し、これもこの世の見納めかと思いながらも楽しいひと時を過した事は今でも忘れる事は出来ません。(註、私は当時吉田村だったと思います)

七月三十一日の命令に依り、八月一日から五日間宇品町陸軍船舶司令部への派遣命令で班長以下六名中に私も入り司令部内の岸壁にある防空壕内に通信器材を設置し、実際の訓練をする事となりました。派遣中に空襲があり敵の艦載機グラマンが胡麻を散らかした様に空一杯に襲来し、呉軍港目掛けて焼夷弾攻撃や機銃掃射を浴びせ、街は猫の子一匹通らない灰色と化し、四方から高射砲で応戦するが仲々命中せず、たまたま命中するとピンクと紫の煙がパッと上り、敵機は木っ端微塵となりヒラヒラと海中へ落ちて行く光景を見て戦争をしている実感が湧いてきました。

八月五日で交替予定であったが、その夜の命令で六名中の三名が残留となり明日交替でくる三名と共に引続き訓練する事で、その残留三名のうちに私が入ったわけでした。

八月六日早朝に同期生三名が交替の為千田町の特幹分遣隊から到着。朝食の為宿舎へ行った間もなくB29飛来の報がラジオで放送になり、警戒警報が発令になり、けたたましいサイレンの音が響き渡りました。それから数分後空襲警報が発令され再度サイレンの音が一段と高く響き渡りました。その頃の市民は通勤時間で、ごった返しであったが直ちに避難した。数分後B29三機が金属音をたてながら一天雲一つない澄みきった青空に一万米以上の高度で飛来してきました。

その頃は時々B29が飛来してくるので余り気にもしませんでしたので、そのまゝ飛び去っていくんだらうと思っていました。

私は班長以下三名で防空壕へ避難し入口附近で空を眺めておりました。B29は広島上空より遠く市外の方向へ飛び去ったので空襲警報解除となり警戒警報に切り換えられたので市民は安堵の胸を撫で下ろし、ドヤドヤと避難した防空壕から路上へ出て参りました。私も壕から出て司令部へ電文を持ち岸壁の路上を小走りに走っておりました。丁度その時午前八時十五分十七秒世界史上始めて原子爆弾(当時新型爆弾)が広島市民三十万人の頭上580米で炸裂しました。その瞬間突然「キラッ!」と稲妻の様な閃光が走り市民は一斉にアッ!ウオー!と云う恐しい叫声と罵声が一つの固りとなって耳を劈き(そして続いて)大音響と猛烈な爆風が瓦や木片を空高くドス黒い噴塵を吹き上げながら木造家屋はガラガラと将棋倒しに倒壊して来たのでどうなる事か恐怖と驚きであった。直ぐ側にあった防空壕へ入ったが爆風の為壕はグラグラと揺れ動き土砂が崩れて来たので入口付近で「ジイッ」と、しゃがんで時を待った。まもなく揺れが止ったので外へ出て見たら遥か市内中央付近一帯は灰色に包まれていた。中心部の比治山下にはわが部隊や千田町には我々三期生の特幹隊があり最早や灰色の煙で全々見えないのである。これは大変な事になったと一瞬思った。

フト!我に還り、俺は今、船舶司令部へ電文を持っていく途中だった。と。直ぐ防空壕より飛び出て一目散に走った。「伊藤候補生電文を持って参りました。」と血走った怒鳴る様な声で叫んだ。爆風でガラスの破片が部屋一杯に足の踏場もない程散乱し又将校達の顔に突き刺さって、顔中血だらけとなって右往左往して居た。私は側に居た一将校に敬礼をし、電文を渡して急ぎ駈け足で任務中の防空壕へ帰って来た。班長は「大丈夫か!」と心配して怒鳴る様に云ってくれた。
間もなく司令部内のトラックが、数台救援のため物凄いエンジンの音を立てて、市内へ出動して行った。一時間以上経ったのかトラックが帰って来ました。トラックの荷台には被爆患者が山積され、降ろされて来たので、見ると全員血だらけとなり、頭髪はボーボーと突立ち上り、或は垂れ下がり衣服はボロボロと断き切れ男女の区別がつかず唯々オロオロと両手を幽霊の様に前に垂れ下げ、しかも殆んど全身が火傷し素足でゾロゾロと大勢の人達が救いを求めて来たが、どこをどうしたら良いのか、わからなかったが、咄嗟に被服庫より手当り次第毛布を無我夢中で運び仕方がないので小魚を乾物に使用している大きな堀立小屋の土間に筵と毛布を敷いて横臥させるのが精一杯で受傷した人々は「ウンウン」唸るばかりで忽ち修羅場と化してしまった。余りにも一瞬の出来事であり、すべての人はこの様な状態なので何んの手当も出来ず唯々励ましの言葉しかなく、次から次へと増える火傷患者で大童であった。

交替の為に来た戦友三名も食事中であり爆風の為ガラスの破片が顔に突き刺さり血だらけとなって歩いて来たので手でガラスの破片をとってやり応急の処置をしてやった。

市内を見ると灰色の煙の中から四方に火の手が上り始めました。火災が発生したのです。火は遠慮容赦なくドンドン燃え広がり、市民は瀕死の状態であり誰一人として消火活動等する者もなく猛煙猛火に包まれ壊滅状態に落ち入ってしまいました。

その頃空は一変して晴れから曇となり、あたりは薄暗くなって来たかと思ったら市内の方から大粒の雨がボツボツ降り始め一時ザアッ!と俄雨が夕立の様に降って来ました。

間もなく、あちこちに晴間が見えて小降りとなり日が差して雨は止んだが、先程「キラッ」と閃光が走った市内中央付近の上空に巨大な雲が立ち上り始めました。最初は余り気にもしませんでしたが、よく見ると雲は「ムクムク」と動いている。時間が経つにつれてそれが異様な形となり、やがて一天雲がない青空に「キノコ」の形をした巨大な雲が浮き上り、それに真夏の太陽がギラギラと照りつけると、それがなんとも云えぬ美しさでした。そして夕方近くまでムクムクと消える事なく上空に舞い上っておりました。後でわかった事ですが、これが原子爆弾投下による原子雲であり、先程降った雨は原爆特有の黒い雨だったのです。     
私は患者の合間を見て班長の下に帰りました。中村班長は「比治山下の船舶通信隊と千田町の我特幹隊が心配なので行って来る」と云って出掛けたが数時間後に帰って来て、「四方に火災が発生し、電車や電柱が倒れて電線がズタズタとなっており危険で行く事が出来ないので途中から引き返して来た。」と云う事である。「皆の安否は気付かわれるが、恐らく全滅であらう。お前達は一命をとりとめた。吾々は現任務を別命あるまで死守せねばならぬ。」と堅い決心で指示を受けました。

堀立小屋は殆んと火傷した被爆患者で足の踏場もない位で「呻く唸る」の状態は全くこの世の生地獄であった。

時間が経つにつれてドンドン火は広島市街を舐めつくし全市火の海と化してしまいました。そしてその夜の命令!で「器材を撤収して、直に広島駅前の二葉山に急行し、第二総軍との連絡をとるべし。」との命令である。午後八時頃器材を背負い出発。真夜中行きつ戻りつしながら全市内火の海と化した真只中を班長以下六名の候補生が只黙々として目的地へ向って歩きました。家がドドンと音を立てながら彼方でも、此方でも崩れ落ちて、その度毎に火の粉が「パァッ!」と立ち上り人間は家屋の下敷となって火の中で全身或は上半身又は下半身が焼けているもの等々。又道路には累々と真黒い焼死体が転倒し、時々吹いてくる風に乗って人間の焼けている悪臭と共に建物が焼けている熱風或は冷い風が否応なしに鼻を劈き、見渡す限り火の海と化した焼跡から「ボボッー!ボボッー!」と人間の骨から出る燐が青光を放って燃え異様な悪臭が立ち籠め全市内一面惨憺たる光景に目を見張らざるを得なかった。燃え盛る火中を歩きながら私は班長に「班長殿戦争は止めた方がいゝですね」と云いましたが班長は「バカヤロウ!」「帝国陸軍の軍人がそんな弱音を吐いてどうするか!」と一喝!怒られたが然し此の様に罪も咎もない国民が何故殺されるのか?戦争は人殺しだ!と直感した。今でもあの残酷な生地獄を忘れる事は出来ません。戦争は罪なき国民を巻き添えにし、一度しかない人生を死に落し入れ踏み躙ってしまう。此の時以来絶対に戦争はやるべきではない。と思いながら……。フトふるさと遠野を偲び、俺は今地獄の街を歩いて居るが家では夢にも知らずにと…。親兄弟姉妹を思い浮べたのであった。

今茲に終戦五十年となり強く脳裡に刻み込まれて忘れる事は出来ません。

又広島は多くさんの河川が流れて広島の市街を形成して居るので橋も多く、その橋と云う橋には火傷を負った避難市民が足の踏み場もない位一杯で、私達が歩いて行くと手を延ばして、軍服に取り縋り「兵隊さん助けて!」と或は「水!水!水を頂戴」と云われたが何んと云って良いのか唯々「頑張って!」の励しの言葉だけしか出なかった。そんな光景の中で駅前の橋を渡り懐かしき広島駅に到着した。二月二十六日頃此の駅に下りた事を思い出す。

駅は鉄筋コンクリートで出来ており、内部は全焼し天井から焼け残りの木片が落下し火花を散らして居た。線路を横断し貨車の燃え盛る光景を見ながらやっと目的地へ着きました。二葉山の中腹に第二総軍司令部が洞窟の中でローソクが淡い光を灯しながら静かに揺れて、私達を待って居りました。将校達は頭に負傷し、白い布で包帯していました。

班長の号令で整列「気を付け!『頭中』『直れ』只今到着致しました。と報告をし麓の民家の軒下に仮眠したが時刻は何時頃かわからない。宇品を出発してから色々な障害に会い右折左折を繰り返し長時間にわたって着いたのだから「ドッ」と疲れが出て直ぐ眠ってしまった。「ハッ」と思って目を覚ますと朝になっていた。

朝食は「じゃが芋」の塩振りである。その日は良かったが来る日も来る日も任務中の八月十日頃迄毎日「じゃが芋」の塩振りばかりで、いやな「ゲップ」の連発です。それ以外に食物が無く困りました。広島市街は三日三晩燃え続け私達は任務につきながら眼下にその光景を見下ろし焼け残りの残骸は鉄筋コンクリートの外観だけが物淋しく四方にポツンポツンと建ち完全に焦土と化したのであった。八月九日には、原子爆弾が長崎にも投下されたニュースがラジオで放送されたが広島より被害が少ないとの事であった。

その後十一日には部隊も全滅との事で宇品へ戻り、船舶司令部の隣接の練習部で被爆患者の看護を命ぜられました。

黒ずんだ火傷のズヤズヤした患部には蛆が湧き殊に耳の中から取出す本当に小さな蛆は仲々取れず割箸の先端を猶小刀で細く削り、それを使って取り出し、患部に触れると痛がるし仲々大へんでした。最初は唯痛い痛いと言うもんだからどうしてだらうと思って、よく見ると蛆が火傷の上を這うので痛かったのです。又毎日死者は後を絶たぬ状態で、水を欲しがるので飲ませると次々に息を引き取り死んでいった。それで軍医は絶対水を飲ませるなと指示がありましたが不寝番に立つ時に申し送りがあるので、危篤状態になって、もう虫の息でいる患者には最後の水を飲ませ心よくあの世へと旅立たせたものでした。

亡くなると一先づ円筒型の塔内に担架で運び、其の部屋に取纏めて置き、午前は看護、午後は附近の倒壊家屋へ行き鋸で手当り次第柱を切って、肩に担いで運び、その材木を積み重ね遺体を横臥させ、広島の山々に夕日が沈みかゝる頃油をかけ火を点し、一礼をして荼毘に付したのである。その数毎日十五遺体位であった。夕闇迫まる広島の街には四方八方から黒煙が濛々と立ち籠め夕日を覆い薄暗くなったのです。そして一晩中かかって遺骨にしなければならなかったのである。

やっと骨になった深夜天幕の中で毛布を土間に敷き仮眠をしたものでしたが、直ぐに、眠りにつくのでした。やがて夜が明け、水を汲んで来て残火を消し遺骨を骨箱に拾い、名札をつけて、何時受取人が来るのか白布に包んで毎日線香を絶やさず拝んで居りました。

八月十五日天皇陛下のお言葉があると云う事で歩ける者は歩かせ、歩けないものには、片手で自分の肩に手で抱きかゝえて、ラジオの前に集合させ昼正午に終戦の玉音放送を聞いたが、余りにも言葉の意味と声は聞き取り難くわからなかった。然し集った人の中から「戦争は終った」と一声云った事を覚えている。然し大方の人々は「未だ未だ戦争は続くので、一層努力せよ。」とのお言葉に違いないと判断したものでした。が、毎晩暗かった宇品港にはその夜から赤々と電燈が灯り私を裏切った感がしたものの、それでも尚且つ敗戦とは誰ぞ知る全く信じられなかったのである。その翌日八月十六日から米国の飛行機が大きな翼で広島市街を低空で飛来し敗戦の意識が鮮明に脳裡にひらめくのであった。八月二十日頃より死者も減少し、生死も、はっきり判って来たので八月末日迄看護をし私達は九月一日より近くの半壊した学校に収容されました。その頃になって頭髪が抜けたり歯茎から出血する人々が出て、毎朝頭髪の引張り合いをしました。直ぐ別の施設に入れられ数日すると死亡の通報が出る等それはそれは恐怖心に襲われました。が、私は特に変った事もなく体調も良く無事過ぎていよいよ九月上旬頃復員命令が出たので支給になった軍服夏冬や上下衣類や砂糖等々を梱包し、夕食後整列し、広島駅へ長蛇の列で黙々と焦土と化した市内を歩き無事駅へ到着しました。駅前は復員軍人で一杯でした。

各県別に編成され我々岩手県は一ノ関出身の元渡辺見習士官引率の下に有蓋貨車に乗せられ午後八時半頃発車し、又何時の日か広島に来るのやら?いや必ず来る事を心に誓い市民が焼トタンの仮小屋で一家団欒を貨車から眺めながら思い出の広島を後にしたのである。

荷物に腰掛けドアを少し開けている中に居眠りが出て来て眠ったらしく体が宙に浮いなと思った途端列車の音でハッと気が付いた。その時汽車から落下したのである。幸にも坂道でスピードも落ちて居たらしく怪我もなく無傷であった。辺り一面静まり返って居る山中で秋虫が鳴き沢水の流れる音、そして山々の樹々には燦々と月明りが照らして居た。どの辺か分からず列車の進行方向を歩いて行くと踏切があったので今度は道路をドンドン歩いて行くと田圃があり遠方に電気の明りが見えたので行って見ると辺りにスコップや鶴嘴が多くさん有り土工の飯場だったので「今晩は!今晩は!。」と叫んだ処一人起きて来たので事情を話した処、良く話が通じなかったので又話すとやっと分ってくれた。「逆戻りをし今来た踏切を行くと山道になるが、下れば八本松駅があるとの事であった。」言葉の通じないのは朝鮮人の飯場であった事が分りました。山頂には八本の松の大木があり、真下には電燈が光々と線路を照らして居た。大急ぎで駅へ行き駅員を起こし、軍服を着て居るし身分証明書を出すと「ご苦労様でした」と云われ一室に仮り寝をし朝の一番列車に乗り、糸崎で、暫く停車していると復員列車が入って来たので、行ってお願いすると「オイ乗れ乗れ」と云われたので乗るとその人は山形出身で東北人同志が意気投合し、昨夜広島発車以来貨物列車から落下してのこれ迄の物語で花が咲き又原爆の悲惨な話等皆涙を流したり喜んだりで感謝され、そして芋焼酎をご馳走になり、今度は旅客列車で落ちる心配もなく寝込んでしまった。私は思い出の復員列車で楽しく大阪、京都も通過し夜行列車となり夜が明ける頃静岡を通過しやがて富士山を車窓から眺め無事東京駅に到着したのである。お世話になった山形の方とは、今晩夜行列車で帰る約束をし、駅には旧陸軍憲兵隊の大きな看板があったので行って事情を話し食券を戴き上野駅前の復員食堂で雑炊を無料でご馳走になり、浅草へ行って観音様をお参りし又見物をし再び上野駅で山形の方と一緒になり午後八時半頃の夜行列車で、いよいよ帰途についたのである。福島へ来て一緒に下車し、私が飯盒で飯を炊く事になり機関庫へ行って米を洗い石炭の燃やし殻で、ご飯を炊き三人でワイワイ騒ぎながら駅の中ホームで梅干しを食べながら夜食をとったのである。「如何に敗軍の将兵何をか語る。国敗れて山河あり」で誠に豪快そのものである。

食べ終って間もなく空貨車が入って来た。見ると青森行と書いてある。山形の吾人曰く「この貨車で行けば岩手も通るから乗って行け」と云われ「それではお先に失礼」と乗り込んだ。

今度は一人とばかり「大」の字になって寝てしまったのである。仙台仙台と云う拡声機から流れてくる声で目を覚まし、「いよいよ仙台へ着いたなぁ」と思い、発車の後、黄金色に輝く田圃を見ながら一ノ関駅に着き役場へ行き、渡辺見習士官について尋ねると父が中里国民学校の教師であるとの事で早速徒歩でその学校へ訪れて、お父さんに会い話をした処「未だ息子は帰宅しておらず」との事であったが会話中に顔を出したので安心をし又私が行方不明となり心配したが事情を話すと無事で再会出来て良かったと喜んでくれました。白米に卵焼き味噌汁と懐かしき故郷の味をご馳走になり荷物は駅前の石橋旅館に預けてあるとの事で再び田圃道を歩き石橋旅館で荷物に再会し、それを背負って一ノ関駅に行った処元遠中の恩師佐籐美次先生と会い前沢まで同席し、いよいよ花巻駅にて下車し空腹の感あり、花巻の恩師佐藤忠夫先生を思い出し駅員にお願して電話をかけました。先生には只今帰って来た事を告げ早速夕食をお願いをした処、今持っていくからと云って自転車で昨夕奥さんの手料理を折詰めして持って来たので有難く頂戴し懐かしさの余り手を握りしめて歓談し釜石線に乗車し発車しても見えなくなる迄手を振って別れを惜しんだ。早速折箱を開いて見ると心の籠った「チラシ寿し」であった。先生の真心に感謝しつゝ戴きました。そして列車内で向いのお客さんと会話をして居ると後から肩を叩かれたので驚いて後を見ると同級生の菊池利男君が立って居た。やはり軍隊からの復員であった。車内で広島に投下された新型爆弾の話をしながら柏木平駅で懐かしき狭い軌道の軽便鉄道に乗換え二日町駅へ到着。再会を誓い手を握り別れたのであった。やがていよいよ故郷遠野駅に降り立つ事が出来た。感無量!駅には駅員だけで誰も居らず雨がシトシトと降って居た。外燈が暗い夜路をボンヤリと照らして居た。再会した荷物を背負い小雨に濡れながら我が家へ到着した。我が家は驚き皆起きて来て私を迎えてくれた。父母は「よく帰って来た」と喜んで、配給の合成酒で私と乾杯をし、一家団欒の中にも原爆や走行中の貨車から落下した物語に夜の更けるのも忘れて楽しい思い出の一夜を過したのであった。

時に昭和二十年九月十一日であった。又その頃は物資や食料がないので、私の支給された品物はすべて貴重品其のもので今現在の時代から見て特に明記しておきたいと思っている。戦争程人間を不幸にするものはない。

原爆を体験した私にして見れば、戦争は絶対にやるべきものではない。私は幸運に恵まれ故郷に帰る事が出来たが多くの戦友や市民が火傷を負い死んで行くのや悲惨な運命をこの目で見た生き証人である。

もう戦争はコリゴリだと云うのが実感である。復員して三日後、郷社遠野八幡宮の祭典があった。参拝に行くと久し振りの人達と会い嬉しかった。その頃の世の中は食糧事情が悪く食管法により米は統制であり、政府の管理下にあって米の配給には代品として甘藷や南瓜まで配給になった。また我家でも開墾の話。その理由は七月十四日五十キロの距離の釜石を米空母と戦艦十隻で艦砲射撃を受け艦載機が延べ八十機が来襲し機銃掃射で襲撃され更に八月九日米戦艦、巡洋艦二十隻艦載機延べ二百機が再度釜石市に昼間来襲、釜石製鉄所全滅し市街は繁華街海岸通りも全滅し死傷者は八百人を出し我が故郷にも飛来したとの事。

その時の地響きや負傷者が仙人峠を越えて遠野にも聞え響き又避難して来た姿を見て、町内は炊き出しでおにぎりを作って釜石市民の救援をした事等から父は家の避難場所として二キロもある落葉松の松山を三反歩、千円で買い求め仮住いをする覚悟だったと云う事である。然し間もなく終戦となり増々食糧事情悪く土地から増産をしなければ生きられぬ時代となり私が開墾をして我が家に些かでも潤いをもたらせようと朝早くから夕方遅くまで頑張りました。日々私の振り下す農具に依って真黒い土地が少しづつ起こされていく楽しみやじゃが芋、麦、稗を蒔き収穫して食べる喜びは又格別なものでした。家庭のご飯は大根を細かく切り、それに人参、芋、大豆等を混入し所謂糧飯と称するご飯を食べたものでした。海岸方面の人達も昆布や海藻類を手廻し裁断器を使用して砕き、それをハト突きの米に混合して食べ兎も角米が不足しているので何んでも食べるものは米に混合して食べました。山は山菜取りでお祭の様に人で一杯でした。わらび、ふきを取りわらびはその根を掘られ「根餅」として食べました。又、米の買い出しが、どの列車も超満員で闇屋と云う担ぎ屋があって、時々警察官の取締りに会って、切角農家へ行って買った米を没収され警察署まで連行される事も珍らしくなかった。でもこの食糧を打開する為に国民は死に物狂いで生き抜こうと努力しました。食糧と平行して衣類も品不足で、衣料切符が発行され、その切符に依って糸、軍手袋、靴下等生活必需品が隣組で配給され、我が家は十人家族だったので母は喜んで配給品を持って隣組の会合から帰宅したものでした。又古物商が繁盛し、背広、オーバー等欲しい物があれば、その古物商人に頼んで物を探して戴き買い求めたものでした。

此の商人の方々は大きな風呂敷に中古の品物を包み背負って物々交換をする為会場へ集りそしてお互に品物を出して競り市をし競人が大きな声で競り上げ最高値段で売買したものでした。大へん活気があり盛んでした。町の店頭は閉店で活気のない淋しいものでした。

又それとは裏腹に露路や小路は闇市で賑わい、どこから出てくるのか新品のライターやマフラーその他小間物が多くさん堀立の小店に並べられ、又林檎箱を並べて売る行商の人達で賑わって居りました。又朝鮮人がリヤカーで、ボロを買って歩き、それを某工場で再製生地にし、切符不用で自由販売したが、それとても品不足の為裏口営業で知人にしか売って呉れなかった。私も友人の兄、三田屋さんから買って仕立屋さんで背広を作ったが総仕上りで五阡円位(註、内訳 生地=三千円、裏地=六百円、仕立賃=千五百円)であった。生地は黒ずんだ色が主で再生な物だから赤や青が点々と混っておりそれでも当時としては立派な背広服で私はその服を始めて着て義姉の弟さんの結婚披露宴に父の名代として列席したのである。当時は米一升百円で五千円は大金だった。私は一時金で支払えず自家畑に野菜を栽培し直販して少しずつ支払った。父は大工で家計を立てゝ居り、母は針仕事をして家計を手伝って居たし、此の時父に仕事は無く困って居たので私が野菜を売って家計を立てながらの支払は困難であったので、後日母に叱られたが然し家業をしながら自分で服代を支払った。自分としては大へん満足したものでした。二十歳の時。

終戦五十周年にあたり、その頃を述懐し現在に生きる私達はいろいろな時代を体験した。軍国主義の戦時中時代、経済成長時代、そして高度成長時代と現在の高度老齢化社会を過して居る。無事平穏時代を過した人もあったであらうが私は年々歳々人生転変時代を生き抜き前述した様に盛多くさんな、カラーフルな時代を過して来た事は苦労でもあったが又幸福な事と思っている。これからは核兵器を廃絶し、世界人類が命を尊び戦争のない平和な生き甲斐のある世の中を創造しなければならない……。私は強くそう思っている。

永久に戦争のない平和な世界の到来を切に念願し止まない次第であります。

                                                       以上

※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
 
 
  

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