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十九歳で体験した血の海の広島 
大荷 康夫(おおに やすお) 
性別   被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 暁第19857隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 私は一九四四年に旧制上野中学を卒業して四日市の海軍軍需工場から志願兵として、四五年二月早々に小豆島の陸軍船舶特幹隊に入りました。三ヶ月の基礎教育終了後は和歌ノ浦、忠ノ海と転地をして、六月に江田島最北端の特攻基地、幸ノ浦に配属となりました。そこは斉藤少佐を部隊長に整備中隊三百名を含む約一千五百名の陸軍水上特攻隊で別名を海上挺身戦隊とも言いました。一個中隊は百名で戦隊と言って四十一戦隊から五十二戦隊までありました。ベニヤの小船に爆雷を積んで、艦船に肉迫攻撃の実践演習を昼と夜間に分かれて広島湾の沖合いで行っていました。当時十九歳でした。

さて、運命の一番暑い日、八月六日、月曜日の朝は雲もなく、よく晴れて真夏の日差しで気温もぐんぐん上がりました。

八時十五分、突然海を隔てて十三キロメートル離れた広島方面から、一瞬まるで写真のフラッシュをたいたようにピカッと青白い閃光が輝きました。二十秒近く間を置いて、今度はドーンと大音響と、もの凄い大爆風で、倉庫改造の兵舎が激しく揺れました。咄嗟に耳と目を両手で押さえて床下にもぐり込み、間もなく「こんな所で命を落としてたまるか」と、裏山の防空壕に避難しましたが、その後、異音もなく静かになり、みんな一斉に海岸線に走り出ました。

広島を見ると、中央から傘状に白い煙がモクモクと上昇して、次第に黒煙に移り変わりました。すごい勢いで次から次へと中天高く駆け上って行き、雲の柱がキノコ傘の様に横に広がりました。

キノコ雲発生の歴史的瞬間であり、雲の下には赤い火が見えました。

昼頃になって救援命令が出ました。完全軍装に身を固め、携行食の乾パンが支給されました。私は四十二戦隊、近畿・東海出身者主体で戦隊長も河芸町・上野の草深大尉と言いました。私達は二隻の大型発動艇・ダイハツに分乗、四十一戦隊に続き、八キロメートル先の宇品港を目指し、軍用桟橋に午後三時頃上陸しました。

既に近くの船舶練習部には、血の海から這い上がって来たような姿の市民が数知れず大きな救護所の似島とか金輪島行きの大・小の搬送船を待っていました。頭から顔、手、足等血だらけとなり、うめき声など瀕死の身体を横たえていました。みんなギラギラと眼は血走っていました。草深隊は市内の救援本部を目標に歩き、歩一歩足を運ぶたびに余りに悲惨、あまりにも異様な光景にビックリと恐ろしさで震えが止まらず、よくもここまで市民を巻き添えにと、アメリカに対し敵愾心が一気に燃えたぎってきました。宇品町から市内に入ると、踏む地面は熱く、その先は一面の焼け野が原で爆風で傾いている鉄筋高層物がポツン・ポツンと目に付く程度でした。

倒壊飛散物等で、道なき道を排除して進み、そこには数多くの死傷者が倒れて重なっていました。また、多数の動員学徒十四・五歳の中、女学生が四列縦隊に並んだままの姿で死んでいました。この子達の口惜しさ、空しさはいかばかりか、察するに余りありました。消防署に続く専売局の前を通り、長い御幸橋を渡って、路面電車の軌道沿いに千田町の広島電鉄本社、一階借用の斉藤部隊特設救援本部に午後六時頃到着しました。ここまでに行き交う人の顔は黒く焼けて、衣服がボロボロの人や、下着のままの人、裸足の人など様々でした。
「兵隊さん、水を下さい。水、水、」とすがり付く声や、焼けた皮膚はめくれて手先にワカメのようにぶら下がり、顔はやけどで腫れ上がり、宇品を目指す人の流れと、肉親、知人を捜し求めて右往左往している人でごった返し、阿鼻叫喚の地獄絵でした。

命令受領後、部隊は市内のほぼ中央部を担当し、負傷者救助、消火と延焼防止、死体収容と処理、道路確保が任務でした。草深隊も千田町を起点として真北の紙屋町電停交差点周辺までと、西側は南大橋から元安川沿いに相生橋付近までとの間一帯が行動範囲でした。一個小隊十名単位で活動しましたが、終盤は元安橋を渡って爆心直下の中島町にも足を延ばし、他戦隊とも協力しあいました。

さて一日目は夜を徹して救援・消火に従事し、明け方に放置電車内を清掃して仮眠しましたが、二日目からは青空天井・死臭の中で寝ました。

また、元安川には暑さと苦しさから逃れるために、次々と飛び込んだであろう裸同様の姿で沢山の死体が川の表面に浮かんで、潮の干満と共に上下していました。吉島刑務所からも青い囚人服の作業隊が看守付きで出動し、網で死体を収容し、岸まで運搬、他の戦隊員により、既に数十体の膨張しきった遺体が南大橋の川べりに並べられていました。

なお、水漬けの遺体は、腹はパンパンに顔はブヨブヨと腐乱が激しく、爆風の死体は目玉と舌が飛び出し、衝撃の強さを物語っていました。また、池、井戸、水槽等、水のある場所には即死をしなかった人達が火災を避けてむらがり、喉を潤し、体を冷やして力尽きた多数の死体がありました。

焼け残ったビルなどは臨時救護所となり、上から下まで負傷者でいっぱいになっていました。この区域は学校、病院、市役所、銀行、郵便局、産業奨励館などなど、公共施設が多く、人の動きも活発でした。

次に今なお忘れられないことをお話しします。

(一日目)少女の叫びについて
暗闇迫る中でした。救護トラックの上で「兵隊さん、助かるでしょうか。」と気品のある悲痛な言葉に、十四・五歳の動員女学生とはすぐ分かりました。育ちとしつけの良さがにじみ出ていました。思わず側にいた戦友と二人で「心配しなくていいぞ。傷はきっと治る。似島の野戦病院に運ぶから、安心して頑張れ。」と励まし続けた緊迫のシーンは今でも脳裏に焼き付いています。

(二日目)掴んだ水筒について
大やけどと傷ついた人は、しきりに水を求めています。血の叫びとはまさにこのことです。しかし私達は上官の命令により水を飲ませませんでした。必死の形相でにじり寄り、水筒をやっとの思いで掴んだ彼の手をふりほどいた自分の態度が悔やまれてなりません。
 今でも決して自分を許す事は出来ません。

(三日目)
爆心から四百六十メートル地点にある袋町国民学校の朝礼中の児童、先生約百六十名は、校庭で熱線と爆風のため、大半が即死しました。黒こげで散り散りバラバラになっていました。一・二年生の幼子ばかり。ただただ涙、涙で茫然自失、凄惨の極みでした。
(四日目)母親の無念について
火葬は各所で行われ、炎と黒煙が上がっていました。遺体を確認した母親の一人が話しかけてきました。日赤病院の前です。
「一人娘は疎開作業で圧死した。この着物は憧れの花嫁衣装です。一緒に焼いて、この娘の冥土の土産にしてやって下さい。」と、涙を拭って未練気もなく差し出しました。私達にもグッときて胸がつぶれる思いでした。一度に七十五名もの遺体を荼毘に付しました。

(五日目)霊魂について
連日の暑さと作業で疲れ果て、夜は安全地帯で星空を眺め、交替勤務の不寝番に守られて、その場でごろ寝をしました。そんな日々も、火葬後は埋葬地から火のかたまりが、燐光を発してスルスルと上がりました。或る高さに達し、今度は流れ星のごとく横走りして次なる地点に誘いを掛け、各所から申し合わせたかのような「火と光」の乱舞は死者の凄い怨みの霊魂不滅と「宇宙ショー」を見る思いでした。

(六日目)最終日について
隊員一千二百~一千三百名もの船舶特攻隊員がまとまって入市、残留放射線にさらされて、その恐ろしさも知らずに救援活動のため献身的努力をしましたが、軍の命令により心残りのまま広島を離れる事になりました。そして本土決戦の訓練再開のため十二日に基地に引き上げました。ちなみに食料は幸ノ浦から毎日輸送されて、欠食の心配はありませんでした。

十五日に無条件降伏、戦争は終わりました。「国破れて山河あり」と美しい自然は残りました。
 
○最後に
世界では今に至るも核の恐怖は一向に覚めやらず、特に北朝鮮は核兵器の保有と製造を公式に明言し、日本と国際社会に脅威を与え続けていますが、世界唯一の被爆国として、二十一世紀の平和を確かなものとするために、私達はノーモア広島、長崎、惨禍の実相を風化させまいとの願いを込めて証言し、核廃絶と世界恒久平和、原爆被害への国家補償と、認定集団訴訟に勝利との実現を目指して訴え続けています。そうして支援の輪を広げて下さる若い世代が「再び被爆者を作るな」と私達の思いを受け継ぎ、被爆六十年の今年こそ、未来に伝える役割を担って欲しいと思います。

終わりに原爆犠牲者と今次大戦で亡くなられた多くの人々のご冥福を改めて、お祈り申し上げます。 
                                                     以上
 
出典 三重県原爆被災者の会/生活協同組合コープみえ編 『「聞き・語り・伝えたい」原爆被爆体験文集』 三重県原爆被災者の会/生活協同組合コープみえ 2005年 pp.69-83 

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