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特攻艇 ㋹の誕生 
小倉 要一(おぐら かなめ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1990年 
被爆場所 広島市仁保町金輪島[現:広島市南区宇品町] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部野戦船舶本廠(暁第6140部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 1 はじめに
同期の中尾・長田・松谷・木本諸兄の尽力で発見して頂き、3月の八船幹の京都の集いに参加させて頂きました。亡き深田兄初め中尾兄達の御努力のお陰と感謝しております。

京都の集いでは幾多の苦難の海上輸送、米軍との戦闘、永い抑留生活に耐えてこられた戦友が多数生還し、元気な顔で逢えたのには唯感無量でありました。こんな事は夢にも思っていませんでした。

中尾兄のご挨拶の中で、又加藤嘉一兄の手紙の中で「八船幹便りを続けるために何でも良いから投稿してほしい・・」との話がありました。小生には北千島より戻されてより幸か不幸か、戦地に行く機会がありませんでしたので、華々しい戦闘の話もありませんので躊躇しましたが、生きている間に文書にしるしておけば、戦史の何らかの参考になるのではないかと、勇を鼓して筆を執りました。

私の軍歴を簡単に申し述べますと、北支派遣軍工兵第32連隊の二等兵より幹部候補生となり、工兵学校を卒業して見習士官となり、舶工六連隊に配属されました。桜花爛漫の松戸を出て勇躍北千島幌筵島に着任しました。私の一中隊はアッツ島の二中隊と交替することになりその準備中、1週間の違いで米軍のアッツ攻撃が始まり、交替は中止となり、私は宇品へ幹部候補生特別教育のため派遣となり、旅行の途中アッツ守備隊玉砕の報せを聞きました。教育を終え、代わって教官となり船舶兵幹部要員の教育に従事し現役満期、臨時召集、任陸軍少厨、補船舶工兵第七連隊補充隊となり直ぐ暁6140部隊教育隊に転属させられ宇品鯛尾の隊へ入りました。

部隊動務中特命をうけ㋹開発に参加することになり、これが縁で野戦船舶本廠修理部へ転勤させられ、陸軍艦艇の修理、改装・開発と練兵に酷使されました。そして原子爆弾を浴び、兵を編成して広島市の劫火の中に第一陣で飛び込みました。
本稿を書くに当たり資料を探しましたが、殆ど終戦の時焼却して仕舞い、「決戦舟艇の開発」を読んで記憶を取り戻しつつ書きましたので色々錯誤があると思いますがその点ご寛容願います。どうぞドキュメンタリー小説と思って読んで頂ければ幸いです。
 
2 ㋹の発想
昭和19年に入り戦況は不利となり、海軍が壊滅状態になり南方の守備隊は、孤立状態になったことは船舶司令部より伝わってきた。部隊将校の昼食会のあと部隊長の橋本大佐が本日野戦船舶本廠での会議のとき、本廠長の権藤閣下より次のような話があったと説明されました。「今本職は戦況に鑑み、海上特攻艇による攻撃を考えている。その船は一人乗りの高速艇で爆雷を積み夜陰に乗じ敵輸送船に近接し、最後は高速で舷側に爆雷を投下し退避し、爆雷は水中で破裂し敵船を沈没させると云うものである。この特攻艇は20ノット以上の速力を出し120㎏位の爆雷を搭載出来るものでなくてはならない。機関は自動車のガソリンエンジンを使用する考えである。皆でこの船を考えてほしい。俺も先程(黒板に絵を書いて)こんな、三角形の胴体の船を考えた。下にエンジンを据えつけるのだ。素人考えだと思うが諸君の中には専門家もいるから至急考案してくれ。出来れば2月中にも造って見せて貰いたい・・」そのあとで修理部と私達の教育隊は必ず試作するようにと、強い達しがあったと付け加えられた。

翌日私は部隊長に呼び出され、別に呼び出されていた横山見習士官とともに1人2隻の試作艇を2月末日までに造るよう命令された。偶然にも2人は横浜高工造船工学科の出身で彼は一年後輩であった。
 
3 試作艇の製造
我々2人は造船科出身とは云え、学校では高速艇のことは習っておらず、実務経験も全くない。素人同然の身であるので当惑したが命令ならば何とかせねばならず、東京のボートメーカーに行って智恵を借りようと云うことになり、部隊長に出張を願い出た。出張が許可され東京の陸軍第十技術研究所に行くよう命ぜられ、直ちに出発した。

第十技研に行くと兵技中尉の圷(アクツ)信義氏が待っておられ、色々の資料を頂き、設計についての助言を貰った。第三技術研究所も舟艇の研究をしていると教わり第三技研を訪ねると、横工同期の牧沢君が兵技少尉で居た。旧交を温めると共に色々の情報を得たし、英国の高速艇の写真記事を貰うことが出来た。

翌日は圷中尉の紹介で先ず「横浜ヨット工作所」を訪ね、前田技師に高速艇の理論を教わった。次に荒川の畔りにある「南国特殊造船(株)」を訪ね、永易係長に建造のコツを習った。丁度造船所では馬鹿でかい見たこともないベニヤ外板の高速艇を建造しており、中に入って骨組みや工作を見せて貰ったことは後日大変役にたった。この船は後で考えてみると「カロ艇」であったようだ。

広島に帰隊してみると入室禁止の札が掛かった一室が設計室として用意され、部隊の勤務を解くとの示達が出されていた。先ず持ち帰った資料の分析から作業にかかったが、英文のものは翻訳せねばならず数日室に閉じ籠もり徹夜が続いた。特攻艇を造るという有り難い使命と本業の船を設計すると云う喜びで興奮はしたが、素人の悲しさで考えが纏まらない。

高速艇の設計で一番必要なことは、艇の重量を軽くすること、船底に当たる水の揚力を大きくすること、重心位置と浮揚力中心位置を近くすることであるが、これには機関の馬力とプロペラの推進力が欠くことが出来ない。この推進力と浮揚力がどうしてもつかめない。計算方法も判らないし模型実験する設備も時間もない。何時迄考えてもしようがないので度胸をきめて次の方針を樹てた。

夜間奇襲をするには、近づく迄敵から発見されないようにし、最後に全力を出して高速滑走して攻撃する為に、艇の形は魚雷か鮫のような波をたてない航行状態をもち、滑走の為に船底はV型平底とすることにした。そして丸胴の工作上鋼製とせざるを得なかった。

設計したものはスケッチのようなもので之を甲艇と以後云うことにする。横山君も悩んだ末、英国の銘艇「BLUE BIRD」を真似た木製ステップ船底のモーターボート型のものとなった。図の乙艇で以下乙艇と云うことにする。部隊長より各自2隻との命であったが、他に変わった考えが浮かばず一隻で我慢して貰うことにし建造に入った。

鯛尾の上屋倉庫の一部に幕を張って隠蔽し、選抜した技能兵を缶詰にして作業が開始された。乙艇は順調にすすむが甲艇は進捗しない。軽くするためペラペラの骨材を使ったため形が整はず、又溶接によって「するめ」を焼いた様に曲がって仕舞う。その上一番大切な船底の薄鋼板(1・5㎜位)は溶接でやせ馬と称する凹入が出来て仕舞う。これでは滑走は不能である。お灸と云う鋼板を焼いて水で急冷しこの歪みをとる作業が繰り返し行われ、やっと艇らしい物となった。

慌ててシボレーの自動車エンジン・軸・プロペラー・舵・燃料タンク・操縦席・ハッチ・爆雷投下台を取りつけ、泛水させた。機関をかけると波をたてて走るが滑走しない。艇を揚げ歪みとりを行うと共にエンジンの整備・プロペラのピッチ直しを懸命に行い、再試験の結果どうにか滑走してくれた。速力は16〜17ノット位であろうか?先ずは一安心した。

然るに考えればこれに120㎏の爆雷を積んだらと思うと又心配になった。乙艇を見ると気持ちよく20ノット以上の速力で滑走しており、甲艇の巾をあと20㎝拡げたら良かったなどと愚痴が零れた。

一方修理部の試作艇(以下丙艇と云う)が姿を見せた。ひらべったい草履のような舟であったがそのスピードの凄いことに驚かされた。水面すれすれに波も立てずに滑り、旋回は水すましの様に敏捷である。丙艇は修理部の老練の末安技師の設計とのことを聞き脱帽した。

後日丙艇を見せてもらい、末安さんに説明して頂いたところによると、出目金の腹のような形の船型が苦労したところで、全く新しい発想によったと云う。即ち船尾の洞のような窪みには、伴流が入り船体に付いて行く、その中でプロペラが回るのでプロペラの前進力に伴流の前進が加わるのでプロペラの推進速度以上に舟は進むのだと云う。プロペラのスリップ率を計算すれば多分0か一でせうとのことであった。後日陸海合同の各試作艇試験の時、丙艇が飛び抜けた高速を出して試験官を驚かせたと云うのも尤もであった。
 
4 ㋹の採用決定
昭和19年の3月某日運輸部で試作艇の披露が行われることになった。本廠長閣下以下高級将校が金輪島に集合し、検閲を受け航行テストに入った。私の甲艇は目標の廿ノット出ないので、後で大目玉を喰うだろうと覚悟して隅の方に小さくなって列席した。

試験コースは金輪島一周で各艇は順次白波を蹴立てて出発し、数分後戻り速力が報告された。記憶では丙艇が一番で、33ノット位、乙艇が二番で26ノット位、甲艇はビリで23ノット位と思う。私が幾度計測しても17〜18ノット位なのに、不思議に思って修理部の渡辺中尉に陰で聞いたら、「閣下達は船のことは知らないから距離を誤魔化しておいたよ・・」と笑って答えた。多分各艇ともコースの内側の最短コースを走ったらしい。

最後に閣下の講評があり、その中で甲艇は強そうで良いと言われた。魚雷のような艇が水中より猛然と水上に踊り出て走った姿が気にいられたのだろうと想像し、内心おかしく偉いさんは単純だと思ったが、兎に角、叱られずに済んだことで一安心した。

それから暫くして4月になったと思う。部隊長より呼び出され「我々の造った試作艇は第十技術研究所、海軍や民間造船所の試作艇と比較性能試験が行われることになった。貴官らは実験場に何日何時に集合するように、船は既に現地に送った」と申し渡された。

場所は赤穂の奥の山合の湾と思ったが、記録によると飾磨の海岸だと云う。そこに沢山の将兵や艇が集まって、速力試験やら何やら行われたが良く覚えていない。帰る時、作戦上の点、製造の点を考えて選ぶと言われ、その日は特攻艇の決定はなかった。私は一人小高い丘より湾内の試作艇群を眺め、この中から陸軍の特攻艇が誕生し、若い兵士が命懸けで突っ込むことになるのだと、熱い思いが胸に迫った。

帰隊して中隊動務に戻り、外出して遊ぶことも出来るようになったと喜んだ途端、4月9日部隊長より大変な命令を受けた。「小倉少尉連絡艇が決まった。海軍の設計した船である。この特攻艇を㋹と云うことにする。特攻の部隊も編成され島で待っている。訓練の為に至急㋹を造らねばならない、貴官はこの図面により4月末日迄に20隻を必ず造れ。之は戦闘だと思ってかかれ。人選・資材は貴官に任せる」
 
5 ㋹の誕生
1隻の試作艇を造るのに1ヶ月以上掛かったのに、設計図はあるものの20隻の船を20日で造ることは、どう考えても無理だと思った。然し、戦争は猶予出来ぬ状況であれば、我々も特攻の積もりでやらねばと決意し、横山見習士官を補佐とし隊の中から技術を持ち、体力・気力旺盛な下士官・兵を30人程選び、作業隊を作った。

訓示のあと早速、下士官を集め作業方法の研究に入ったが、その時造船所出の或る下士官から独創的な意見が出された。現代で謂うオートメイション流れ作業方式で、次のような方法であった。

船体の小部材は型板を作り之に合わせて20ケ宛作る。次に肋骨・梁は床に固定した雌型の枠に嵌込み、固着して環を作る。大きな骨材即ち船首材・キール・舷縁材・機関台は船大工に分担して作らせる。船体の組み立ては上下を逆にして船底を上にする。床に各梁の位置を溝穴で設け之に環を差し込めば正規の位置が出る。之にキール等大骨材を乗せて固着し、船底・船側・舳のベニヤ板を張りつける。この逆さ組立は作業が容易である。船底が出来たら溝穴より抜き出し正規の姿に反転する。あとは幾関台・舵・プロペラ及び軸管類を一先ず納め上甲板ベニヤを張って終わりである。機関積み込みはあとでも出来る。と云うものである。

これは作業の工程が明確で同一作業の繰り返しとなり、枠型の使用で寸法を測ることなく正確なものが出来るし、逆さ建造で作業は大変楽となる。妙案であるので之を採用し、作業班を作り分担して製作に入った。

材料の収集・運搬・工具の貸し出し・現図の作製・機関関係の寸法打ち合わせ・型枠の作製とアッと云う間に3日が過ぎた。後17日、大丈夫だろうかと心配であったが、作業兵は目の色を変えて徹夜で働いた。彼等にとっては、軍事訓練と内務班の仕事はなく、夜食は出るし時々甘味料も特別支給されるし、第一得意の技倆を発揮出来るのであるから。熱が入るのは当然であった。

肋骨の環を作り始めると、みるみる作業は進み10日を過ぎた頃には船体の組み立てが始まった。2台の船台でドンドン出来るので、反転して置く場所が無くなって来た。機関は来るし、プロペラは来るし、騒然となったが各自作業の役割が出来ているので、混乱は生じなかった。艤装を完了し、塗装を終えて全艇泛水したのは期限の前夜であった。夜中に機関整備をし、試運転をして、桟橋に整列した時は朝日が昇るところだった。

任務を完遂した満足感と心を込めて作ったと云う愛着が何時までも、艇の傍から彼等をはなさなかった。部隊長が20隻並んだ艇をみて大変喜び、すぐ本廠長に報告に出掛けた。帰って一同に御苦労の言葉があり、1日の外出許可が出た。そして私には5月8日の朝礼で、部隊長表彰状が授けられた。今頃島の部隊では我々の作った㋹第一号で猛訓練をしているかと想像して、この作戦が成功することを唯祈るばかりであった。

このことがあったからかどうかは判らないが、8月15日に転属命令が出て野戦船舶本廠修理部密隊(造船工場・中隊長柳兵技中尉)付となり対岸の金輪島へ移った。

修理部は陸軍船舶部隊の工廠で、造船・造機・鋳造・電気・船渠の各工場があり千数百名の軍人・軍属・挺身隊・受刑者が働いていた。

幹部は殆どが技術将校で本部と各工場に若干の兵科出身者が居るだけで軍隊らしさはなかったが、兵隊の訓練の時は気合をいれた。

修理部では、㋹は作っておらず全国各地で作られたものを整備し、爆雷投下台を取付ける位であったが、中にはエンジンの無いものもあって之を据付ける仕事もあった。㋹については量産工程に入ったらしく、その後は何の指令も出なくなった。沢山の㋹が宇品港に集まり何処となく運び去られるにつけ、その戦果が気懸りであった。

修理や改装のため戦地より帰ってくる船があると、㋹の働きを聞いたがよく判らない。大戦果を挙げたと云う者もあれば、敵が船の周囲に丸太を流して防禦し、全く戦果があげられなかったと云う者もあった。工場は忙しく、又戦況の急迫によって戦地からの要求されることの対応で㋹のことは忘れられて行った。

昭和20年1月4日柳中隊長の後任として私が中隊長となり、造船工場長を兼務することになった。戦地では大発が足りない、組み立て式大発を考案せよ。乙装甲艇の後続距離を延ばし火砲を増加し対空戦闘出来るように改造せよ。短距離潜水輸送船を考えろ、等々切羽詰まった要求が次々に出され㋹・カロ艇・の整備どころではなくなった。一応は試作したが満足のゆくものは得られなかった。

沖縄が陥ち本土空襲が激化し、運輸部にいた艤装空母・SS艇、装甲艇・艇も姿を消し各種舟艇もみるみる少なくなってゆき、いよいよ本土決戦の準備に入ったと思った。

隊では作業の傍ら防空壕の拡大・対空陣地の構築が始まり、戦闘準備に入った時広島に原子爆弾が投下された。船舶の無線士が米軍の短波放送で「Hiroshima Atomic bomb」と云っていると報せがあり、アメリカが先に完成したらしい、困ったものだと思いつつ工場の被害調査・負傷者の手当てをしていると「生き残った修理部より広島市の道路啓開に出勤せよ」との司令部の命令があり兵科の工兵科出身の私に隊長として、下命があった。

原子爆弾の破裂状況・啓開救助作業・被災の様子については、機会があれば語るとして本題の㋹の誕生に関係した私の部分についての記述を終わる。
 
試作艇スケッチ
甲艇(小倉少尉)鋼製丸胴V型船底滑走艇
乙艇(横山見習士官)木製角型V型ステップ付船底滑走艇
丙艇(末安技師)木製塑型V型船底滑走艇
 
 
出典 第八期船舶幹部候補生の集い編集局編 『八船幹便り』第十号 第八期船舶幹部候補生の集い 1990年 pp.18-22
 
 
  

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