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私の原爆記 
高橋 茂(たかはし しげる) 
性別 男性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島県立広島第一中学校(広島市雑魚場町[現:広島市中区国泰寺町一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一中学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

一九四五年八月六日

平時であれば八月といえば夏休みの季節であるが休みもなく、暑い中不平も言わずに毎日、家屋疎開で倒した家の柱、梁、板切れ、瓦などの後片付けの作業に従事していた。その日も数時間後に過酷で悲惨な運命が待ち受けているとも知らず、七時半の朝礼に遅れないように、五時半過ぎには疎開先の亀山村の家を、当日大阪に帰る叔父と共に自転車に相乗りして出かけた。通学定期を持つ私は六時頃発の横川行きの電車に乗った。通勤通学専用の電車で叔父は後の電車に乗ることになった。このため叔父は被爆を免れた。(緑井の辺りで遭遇したそうだ)

その日も朝から暑かった。七時半からの朝礼が終り一年生六学級の内十一・十三・十五の奇数学級が作業に出、十二・十四・十六の偶数学級は教室に戻り自習待機となった。今日の作業場は一中の南グランドそばの市役所裏であった。

私は十六学級であったため教室に戻った。水を飲みに行く者、雑談する者、「B29が飛んでいる」と外に出る者もいた。そろそろ八時半の交代時間が近づいていた。私は級友が少年倶楽部の本を見ているそばで数人の友と覗き込んで見ていた。

一瞬のフラッシュのような閃光と共に「ザーッ」と何かを浴びるような感じと、異臭と共に吸い込まれるように意識がなくなった。どのくらい経ったのかぼんやりと意識が戻ってきた時は校舎の下敷きになっていた。辺りは「シーン」としていた。また意識を失ったようだ。再び気が付いた時には夕闇が迫ったように辺りは薄暗く、ざわめきがあり助けを求める叫び声やうめき声があちこちで聞こえた。頭から流れ出た血が頬を伝いシャツにポタポタ落ちるのが分かった。シャツは真っ赤に染まっていた。頭の傷の痛みはなくジーンとした感じであった。左足にもジーンとした感じがあり、動かそうとしたが足が机に挟まれて動かない。太い梁が頭の上を通って机を押さえている。上半身は動かせるのだが、自力で抜け出すことができなかった。「助けてくれー」と私も叫んだ。丁度上級生が二人通り掛って梁や机を動かしてくれたが動かない。「人を呼んでくるから待っておれ」といわれて去っていったが、再び来てくれなかった。そのうち何人かが下敷きの中から這い出してきたようだ。近くで「市役所の辺が燃え始めたぞ、消防は何をしているのか、早く消さないと燃え広がるぞ」という声が聞こえた。私はその声に向かって「助けてくれー」と叫んだ。すぐ、そばに来てくれたのは山岡君と岡田君であった「誰やー」「髙橋やー」何かで打ったらしく右頬が腫れ上がり、その上顔がべっとりと血に濡れていたので誰か分からなかったらしい。二人は両方からあれこれ引っ張ってくれた。最初は逆に締め付けられて「痛い」と叫んだ。そうこうしているうちに少しの隙間ができて足を引き出すことができ、倒壊した家屋から脱出することができた。二人は命の恩人で、二人が助けてくれなかったら恐らく焼け死んでいたであろう。(山岡君、岡田君とも今は亡くなっている)足の骨には異常はなかった。

ぱちぱちと物のはじける音がして、本館の辺りに黒煙と赤い炎が見え始めた。熱気も強くなってきた。火が迫ってきたようだ。ふらふらと立ち上がり壊れた校舎を乗り越えて外に出た。あたりは薄暗く太陽が月のように黄色く見えた。

プールの側には幾人かの生徒がいて、倒れている者もいた。先生と思われる人が「此にいては危ない、火のないほうに逃げろ」と言われた。壊れた剣道場とプールの間を抜けて空き地に出た。そこは空き地ではなく墓地であった。倒れた墓石や樹を乗り越えて道路に出た。そこはおびただしい人の流れで、燃えていない南へと避難する人々であった。怪我をした人、火傷を負った人、足を引きずっている人、身内を捜して走る人、親を呼ぶ子、子を呼ぶ親、上半身裸で歩いている人、よろめき歩く人、数人で抱き合いながら歩く人、全身を血で染めた人、目が見えないと訴える人、火傷で皮膚がむけぼろのように下がっている人、お化けのように両腕を胸の前で下げて歩いている人々であった。衣服は皆ボロボロになり、苦痛に歪んだ顔は皆煤けて黒くなり、放心してうつろな顔で歩いている人もあった。

私は急に吐き気がし激しい嘔吐が始まった。朝食後時間もたっているので胃液しか出ない。それでも嘔吐は続き苦しかった。喉が渇き、壊れた水道の蛇口から水を飲んだが、たちまち吐いた。嘔吐に苦しみながら、ふらふらと人の流れに連れて燃えていない方へと歩いた。数人が抱き合って歩いている中に「吉田先生しっかり」と言う声が聞こえた。見ると私たちの担任の先生と生徒であった。近づこうとした時、再びはげしい嘔吐にうずくまった。再び立ち上がったときには先生たちの姿は見えなくなっていた。

避難する人の流れは二つに分かれていた。比治山の方へ東に向う人と南へ向かう人であった。私はどぶ川に沿った南への道を選んだ。右手にコンクリートの建物があり、そのときはどのあたりの道か分からなかったが、文理大の裏の道であることは後に分かった。

あちこちの家が燃え始め、バケツリレーで消火している人達もいた。ぞろぞろと無気力に歩く人々の流れにつられて行き着いたのは、御幸橋西詰めの交番所の前であった。
橋の上には多くの人が避難してきていて、座り込んだり、寝たりしていた。交番所は扉も窓も吹っ飛び、書類の紙やガラスが散乱していた。私はその前の石段に座り込み、散らばった紙で頭や顔の血を拭った。血はねっとりとこびりつき乾きかけていた。出血は止まっているようだった。気が緩んだのか、また気を失ったようだ。

救護の人に起こされ「ここにいては危ない、治療もするのでトラックが来たら収容所に連れて行くからもう少し頑張れ」と言われた。橋の上には仮説の救護所ができており、主に火傷を負った人が胡麻油を傷口に塗ってもらっていた。傷口に触られるのが痛く悲鳴をあげていた。そこには火傷を負った女学生が多かった。髪の毛が縮れ皮膚の皮がめくれて垂れ下がり、赤黒くなっていた。皆ぶるぶる震えながら「痛い」「痛い」と悲鳴が絶えなかった。(以後当時を思い出すためか胡麻油の臭いが嫌いになった)

橋の上から見た日赤病院の方面が、ひときは大きく黒煙を上げて真っ赤に燃え上がり、すべての家が倒壊し一面火の海になっていた。

救護の人の手を借りて迎えに来たトラックに乗せられた。火傷を負った人は車が揺れるたびに人と触れ合い悲鳴を上げていた。トラックに乗せられても、朦朧としていたのか、気を失っていたのか、どこをどう走ったのか、気がついて降ろされた所は、岸壁であった。後で知ったのだが、宇品の船舶隊の基地であった。よしずを張って日除けにし、筵を引いたところに寝かされた。

ここにも苦痛を訴える人、ただ呻いている人、水を求める人、怪我・火傷・骨折と重傷の者ばかり寝かされていた。私自身も出血が多かったため朦朧としていた。軍医さんや看護婦さんに「頑張りなさい」と声を掛けられ思わず涙が出た。軍医さんが左腕の傷の治療をして包帯を巻いてくれた。なぜか頭や顔の傷の手当てはしてもらえなかった。出血が止まっていたからかもしれない。喉が渇き水を求めると、看護婦さんが「たくさん飲んではいけませんよ」と薬缶の口移しに少しの水を飲ませてくれた。

どれくらい時間が経過したのか、気が付いたときには、すでに日は西に傾き夕暮れとなっていた。起こされて「似の島の収容所に移すから船に乗りなさい」といわれ兵隊さんに抱きかかえられて小船に乗った。海から見た西の空は夕焼けか燃える炎か分からないが赤く染まっていた。夕闇迫る似の島の検疫所に入った。広い収容所の中には莚が敷き詰められ、負傷者が荷揚げされた鮪のように隙間なく寝かされていた。私もその一部に寝かされた。暗くなった頃には部屋は一杯になっていた。辺りはうめき声で満ちていた。救護の人が一人一人名前と住所を尋ね、荷札に記入し衣服につけて回った。私も「安佐郡亀山村の一中の髙橋茂です」と答えた。私の隣には段原に住むという人が寝ていた。

「水をくれ」「水をください」という声があちこちで聞こえる、私も水を求めた。救護の人が一人一人薬缶の口移しに飲ませて回った。火傷をした人には「たくさん飲むと死ぬから」と多くは飲ませてもらえなかった。いつ朝が来て、いつ夜が来て何日たったのか分からない時の流れであった。

朝が来るたびに、うめき声が減り夜の間に息を引取った人が次々と運び出されていった。日が経つにつれ捜しに来た人に引取られたりして、隙間なく寝かされていた怪我人の数も減り、私が帰る頃には半分くらいの空間ができていた。

竹筒に入れて配られた雑炊は臭いを嗅いだだけで吐き気がし食べることができなかった。一個ずつ配られた冷凍みかんは冷たく口当たりがよいので喉を通った。

夜、空襲警報が鳴り、明かりが消され真っ暗になった中で聞く飛行機の爆音は不気味に聞こえた。家族を捜しに来た人に「どこの生徒さん」と聞かれ「一中の髙橋です」と答えると「学校のほうへ連絡しておきましょう。頑張りなさい」と励まして帰られた。二・三の人が尋ねてくださった。

起ちあがると眩暈がして吐き気がする。時々便所に行ったが汚くて用を足す気がしない。庭に出て用を足した。水も外にある蛇口から飲んだがすぐ吐いてしまった。ほとんど放心状態で寝ていた。傷の痛みは感じなかった。死ぬことも、家族のことも、早く帰りたいとも考えなかった。あれから何日、何時間たったのかも分からない。

何日目かに(後で知ったが、八月十日、四日目であった)用を足して帰ってきた部屋の入り口で父にばったりと出会った。思わず涙が流れた。学校で似の島に収容されていると連絡を受け、急いで捜しに来たが見つからず諦めかけていた時に出会ったそうである。この時出会わなかったら似の島の骨になっていたであろう。持ってきてもらった、おむすび二個と水筒のお茶を飲んだが不思議に吐かなかった。緊張が解け安心したためかも知れない。この四日間ほとんど何も食べていなかった。

手続きを済ませ、船に乗って宇品港に帰る。栄養剤の注射を打ってもらい、父の乗ってきた自転車の前に乗せられて帰路につく。鷹野橋、土橋、十日市、横川と焼け跡の中を通り抜ける。宇品から御幸橋までは家は壊れているが、焼けてはいなかった。

御幸橋を渡ると一面焼けて廃墟と化していた。ところどころビルや鉄骨が残っているものの、一面家もなく樹木もなく、周囲の山々がすぐそばに見えた。己斐の山や比治山も手に取るように近い。線路から脱線し横転し黒焦げとなり鉄骨と化した電車があり、同じようなトラックが転がっていた。黒く積み重ねられた山は死体で、立ち上る煙は荼毘に付している煙だと聞かされた。残ったビルは半壊し黒く焼け焦げ、鉄骨はひん曲がっていた。電柱もいたるところで倒れ、電線は垂れ下がって道をふさいでいる。

何を見ても驚きも悲しみもなかった。十二歳の身に起きたこの出来事はあまりにも衝撃的で痴呆状態にあったと思われる。感情というものがなかった。幸いだったのかもしれない。

横川から国道を可部に帰る途中、長束の農家の知人宅で休ませてもらう。梅林の駅の前でも休む。途中、国道沿いの竹薮の向こうでも、あちらこちら黒煙が上がっていた。やはり死体を荼毘にふす無情の煙であった。夕暮れが近づく頃、可部にある父の疎開先の工場に着いた。会社の人が生還したことを喜んでくれた。しばらく休んで、綾ヶ谷の我が家への急な坂道を、父は私を自転車に乗せたまま押して上がった。

暗くなりかけた頃、我が家が見えてきた。連絡を受け家の前で待ち続ける母、兄弟、叔父の姿が、家の灯りをシルエットに見えた。このとき初めて帰って来たという実感が湧いた。一時は死んだと思って諦めていただけに、私の帰宅は大変なものであった。皆涙を流して喜んでくれた、中でも母の喜びは忘れられない。

部屋に入ると食卓の上に私の写真が飾ってあった。母の思いが伝わってきた。着ていたシャツは血で固まって脱げないので、鋏で切り裂いて脱いだ。

翌日から我が家での傷の手当てが始まった。頭から顔にかけて血と埃が固まって層をなしている。布で湿らせてはピンセットで少しずつ剥がしていった。血の仮面をかぶったようで皆は血仮面といった。血の生臭い臭いがした。血の瘡と一緒に髪の毛も抜けた。頭には二箇所大きな傷があってガラスの破片が出てきた。骨も見えていたそうだ。すでに化膿もしていた。消毒と軟膏の湿布が毎日繰り返しとなった。その度に痛い思いをするのが苦痛であった。頭の傷のほかに額に一箇所、喉に一箇所、左肘に二箇所、右頬は打撲で腫れ上がっていた。

歩く気力もなく、体がだるく、毎日ごろごろと寝ていた。外出もしなかった。何日目かに髪の毛を引っ張ると、何の抵抗もなく、痛くもなく抜けた。はじめは面白半分に抜いていたが、だんだんと気味悪くなった。

上空をB29が飛んでいる日もあった。八月十五日には全面降伏で戦争が終わったが、何の感慨もなかった。

二十日ごろから熱が出始め、下痢も続き、三九度からの高熱になり寝込んでしまった。突然頭の傷から再出血し、唇の右上からと、歯茎からも出血が続いた。原爆症が発病したのだ。

発病してから骨と皮に痩せ細り、生死の境をさまよったが、ほとんど記憶になく母の手厚い看護により九月二九日の秋祭りの日に、やっと這って起きだせた。

両親の必死の看病に感謝し、この間の闘病生活は母の手記に委ねる。

翌年二月に学校に登校したが、脱出して生き残った生徒が十数名と分かり唖然としたのを覚えている。
亡くなった多くの学友の冥福を祈る。

あの忌まわしい一発の原爆の炸裂により、将来ある多くの命が奪われた。また、生き長らえることのできた者も、多くの障害を抱えて苦しんでいる。私も右股関節の軟骨肉腫を患い手術の結果、障害を持つ身となり、松葉杖の生活を余儀なくされた。昨年は結腸・直腸がんの手術を受け苦渋の生活を強いられることになった。

平成十九年十月皮ふがん三個除去、二十年一月腹閉塞で入院、二十年一月皮ふがん後の形成手術、二十二七月下血検査入院、二十四年腸閉塞で入院

大国のエゴにより核兵器は無くなることなく、新たに開発し核保有国になろうとする国さえある。核兵器は人類を滅亡させ、この美しい地球を破壊しようとしている。世界の指導者達はこの愚かさを肝に銘じ、核兵器の廃絶に向かって努力してほしい。

【高橋茂さんの「高」の字は、正式には「はしごだか」です。】

 

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